9月6日(木) 変人とゴロツキ
静山キャンプ場の朝 釣りから帰ったところ
くもっていたため起床は遅れて6時となった。冷え込み対策が巧を奏して寒さはあまり感じなかった。昨夜残した芯ありご飯で朝食をとり、釣り支度をととのえて、6時45分にキャンプ場から本別川におりていった。
川は浅くて狭く、水量が少ない。これは釣りにはよろしくないし、臭いもあって水質もよくなかった。ポイントを求めて川のなかを上流に歩いていく。右はキャンプ場で左は林がせまっている。河原の砂地には鹿の足跡があった。2・3頭の群れのもので今朝のものだが、ここは市街地に近いから、こんなところまで来ているのかと驚いてしまった。
変化があって水深のあるところに魚はたまっていたが、くるのはチビハヤばかりだ。それでもさぐっていくと木っ葉山女がかかる。もっと上流にいけば山女の型もよくなるかと思ってすすんでみるが、ポイントもパッとせず、魚もサイズ・アップしない。この山の奥地に入れば大型もいそうだが、歩いていくのは無理だ。バイクならばいけるが、それよりも見たいところ、行きたい場所があるから、本別川の釣りはこれでやめることにした。
川から道路に上がろうとすると、土手が階段状に整備されているところがあった。その先に別荘風の立派な建物が見えるから、川に下りられるように作ったようだが、誰も利用しないようで雑草が生い茂っている。草をかきわけて階段をのぼると、別荘風の建物の周囲には芝生が張られていて、ここも静山キャンプ場の一部なのだと知った。別荘風の建物はロッジで、キャンプ場は奥に広がっているわけだが、誰もいないと思われたのに、オフロード・バイクが1台あり、ソロテントがひとつ立っていて、中にはライダーが寝ているようす。わざわざこの地にキャンプ地をもとめるというのは、ひとりきりになりたい人なのだろう。
釣りをしたのは1時間ほどだった。上流部のキャンプ・サイトから道道を歩いてもどり、撤収を開始する。米を炊いたコッヘルを洗うのに手間取った。焦げついた米がなかなかとれないので。荷物をまとめると、バイクを駐車場から引き出して装備品を積んでいく。ついでにリヤ・タイヤを点検すると、残っているタイヤの山は1ミリほど。減りかたはかなり少なくなったが、これから帰宅するまでの走行距離を考えると、到底もつまいと思われるから気持ちが沈んだ。
ゴミは持ち帰りなので、電池や空缶をぶら提げて、8時45分に出発した。本別の町にくだり、国道242号線に入って北上する。気温が低いのでタイツをはいたままだが、それでも寒い。くもっていて日差しがないからだが、寒さはこの先さらに厳しくなっていくのだった。
足寄には9時についた。小さな田舎町でまだ店を開けていない商店も多いが、もしかしたら店舗は潰れてしまっている、シャッター商店街なのかもしれないと考えたりした。バイク屋は1軒だけあったが、特殊なサイズのタイヤがあるとは思えない店だったので立ち寄らなかった。足寄は松山千春の写真や看板がたくさんでているものと思っていたのだが、そんなこともなく、くすんだような印象の町だった。
国道241号線に入って山をのぼっていく。気温は下がり冷え込んできた。鹿の飛び出し注意、動物注意、の看板が多くなる。衝突事故多し、と。ライト点灯の看板もあり、前照灯をつけると森のなかにいる鹿にこちらを認知させやすくなるとのこと。前後に車はなく、単独で走行していたのでさっそくヘッドライトをつけた。
足寄峠には9時45分についた。寒くて震えてしまうほど冷えているから、ここで休むことはやめて峠をくだり、国道240号線との合流点で休憩をとる。冷えたのでトイレを済ませ、タバコを吸いながらメモをつけるが、なにしろ寒い。断続的に震えてしまうほどだ。またタイヤをチェックすると、フロント・タイヤは大荷物のためか編磨耗しているが、自宅までもちそうだ。リヤ・タイヤは朝とおなじ状態だったが、今までの減りかたを考えると、今日か明日にでも山は無くなってしまいそうで、やはり交換が必要だと思われた。
旅行中はさまざまな問題が発生する。それを解決してすすむのがツーリングの醍醐味だと無理に考えた。しかし出発前に換えてきたタイヤが、たったの2000キロでこんな状態になってしまうのは誤算だった。タイヤは少なくとも5000キロはもつべきではなかろうか。
旅にでる前に池袋の『ジュンク堂』という大型書店で『とほ』という旅雑誌を手にとったことを思い出す。北見のバイク屋の広告が載っていて、ツーリング中のパーツ交換におこたえします、と宣伝していた。かなりの大型ショップと思われるこの北見の店か、網走にいけば、17インチという特殊なサイズのタイヤもあるだろうと思う。それでもダメなら旭川にはあるはずだ、と。
阿寒湖に下っていく。湖畔のビジターセンターにさしかかると、観光客やホテル、レストランにみやげもの店が多くなる。横を通っただけでどんなところなのかわかるから、俗っぽい観光地はご免だと、湖を見ることもなく通過した。摩周湖も屈斜路湖も以前に来たときに見ているから立ち寄らない。求めるものはこの先の丘陵地帯にあるのだ。
阿寒横断道路を走りぬける。この道の両側にはずっと鹿除けの柵が作られていた。双湖台、双岳台という展望台があったが、天候不良で何も見えないだろうから通過する。ポツリ、と雨が降りだしたので八甲田の教訓を生かしてすかさず雨支度をした。幸い雨はすぐに止んだが、カッパを着ていたほうが暖かいのでそのままいくことにした。
弟子屈の道の駅『摩周温泉』で休む。横を釧路川が流れているので見にいったり、ゴミを捨てたり、職場に電話をかけたりする。クラウザーのサイド・バックをつけたトランザルプが入ってきて、パニアバックをつけると荷物がスッキリするし、高級感があるなと思う。眼を転じて大荷物を積み上げた我がDRを見ると、なんだかみすぼらしく感じられてしまった。
近くにAコープがあったので弁当を買った。タラのフライがメインの幕の内弁当だが、417円と激安だ。大学生らしきサイクリストが4人、店の前で弁当をかきこんでいたが、年を食った私はさすがに真似できない。目的地の開陽台で食べることにしてザックに入れた。
国道243号線を走っていくと、後ろからオフロード・バイクが2台追いついてきた。抜いていくのかと思ったら後ろについているから、目的地はおなじ開陽台なのだろうと思う。ならば3台で編隊を組んでいこうと先頭の風を切った。
R243から道道885に入ると、後続の2台もつづいて来るものと思っていたのに、彼らは止まってしまった。地図を取り出してふたりで話し合っているのがミラーにうつるから、彼らは開陽台を知らないのだろう。
道道885号線は真っ直ぐな道で、国道との分岐から開陽台まで長い距離があったものと記憶している。18年前に来たときには調子にのって150キロほどだしたりしたが、この年になるとそんなことはする気になれない。長い直線や牧場や畑を見ながら坦々と走っていく。それにしても遠い。こんなに距離があっただろうかと思いつついくが、道道の入口から30キロはあった。途中にレストランなどの洒落た店が数件あって、昔は何も無かったから意外だったが、それだけ時が流れたのだ。
ついに開陽台にさしかかった。道路が上りと下りで別れているとの表示があり、びっくりしてしまう。いつからそうなったのかと戸惑いつつ、上りの進入路に入って丘をのぼっていくと、広い駐車場にでて景色がひらけた。駐車場にすべりこんでいくが、これが開陽台?、と眼を見開いてしまう。舗装された広い駐車場があり、丘の頂上部には円筒形をした、高級感のある3階建ての展望台があった。
変わった。ここもあまりにも変わってしまった。18年前に丘にのぼる道はジャリ道で、展望台は平屋作りで、その屋上が展望台だった簡素な建物があっただけで、もちろん駐車場も無く、建物の前の土の広場にバイクをとめたのだ。昔の展望台にはトイレしかなくて、1階ではライダーたちが何をするというわけでもなく、何人も連泊していた。知名度もほとんどなく、おとずれるのもライダーかサイクリストくらいと相場は決まっていた。それがライダーの聖地と呼ばれた昔の開陽台だったのだが、この垢抜けた観光地と化した現在の開陽台の変貌振りに言葉もでなかった。
しばらく開陽台の変わりようを呆然と見た後で、駐車場の柵を乗り越えて斜面の草に腰をおろし、弁当を喫した。いっしょに飲む水は静山キャンプ場でくんできたものである。眼前には中標津の耕作地が展開している。地平線は雲でかすんでいるが、四方に広大な台地が広がっていた。牧草地と畑、林の連続で、畑は作物によって色彩が異なっている。ゴッホの田園を描いた絵のように大地が区切られていたが、くもっているので光が足りず、ゴッホの絵画のように輝かしくはなかった。
開陽台にて
バイクはたくさんとまっていたが、観光バスも来ていて調子が狂う。昔の開陽台はライダーとサイクリストだけのものだったが、今やここもメジャーな観光地なのだ。地元はそれを望んでいて、そうしようとしてお金をかけて施設を整備したのだろうが、昔の思い出のあるライダーの私としてはそれが寂しかった。感慨にふけりつつゆっくりと展望台につづく階段をのぼっていく。展望台の1階にはレストランと売店があり、2階はガラス張りの屋内展望台で、3階は屋外展望台だった。
3階の屋外展望台を一周して、360℃の風景をながめる。18年前に来たときには霧が深くて景色は見えなかったから、はじめて眼にする開陽台の眺望だ。じつに北海道らしい情景だと旅情と物思いにひたっていると、横に来た年配の夫婦の夫が、なんだ、何もないじゃないか、と吐き捨てるように言う。それを聞いて、
「なんだ、コイツ」と頭に血がのぼる。眼の前に広大な大地があるじゃないか、と。
ふたりは遠景を一瞥しただけで去ったが、こちらの気分は台無しである。これがわからない奴はさっさと帰れ、2度と来るな、と毒づきながら三脚をたて、自動シャッターで写真をとる。場所を変えて記念撮影をしていると同年輩のライダーがあらわれた。彼は私が撮影をしているのを見て、嫌な笑いを浮かべている。それは馬鹿にしているとか、嘲笑っているというのではないのだが、気持ちのよい笑いではない。彼の内面の心情が、私を見て表情にあらわれたのだが、性格が屈折し、マイナスの方向性をもっていることが見てとれて、反射的にこの人は避けようと感じたのだ。こんなことはこれまで思ったこともないし、そんな人物に会ったのも生まれてから2人か3人である。彼から離れて2階に下りようとすると、
「ああ、すいません」と大きな声をかけられた。写真をとってくれと言うのかな、嫌だなと思っていると、
「シャッターを押してください」とやはり大きな声で強引な物言いだ。ふつうは、撮ってくれますか?、と聞くものではなかろうか。私はよくシャッターを押してくれと頼まれる人間で、今までそれを断ったこともないし、拒否しようと思ったこともなかったが、このときばかりは迷った。しかし同じライダー同士なので押してやることにしたが、注文が無茶だ。顔と地上にある『開陽台』と書いてあるモニュメントと、風景をいっしょに撮ってくれと言うのだ。そりゃ無理だよ、と答えて念のためファインダーをのぞいてみても、とても入らない。すると展望台の柵から顔を精いっぱい外につきだす。
「どう? うつらない? これで、どう?」
コイツ、変わってる。日常生活では絶対に関わらないタイプの人間だ。
「入るでしょう? ねえ」と言うが、空間感覚が欠けているのか、見れば不可能なのは一目瞭然なのにそれがわからないようだ。
「無理だよ」と答えると突然、
「あっ、そう、それじゃ、もういいや。どうもすいません」と言ってカメラをひったくる。これで終わってよかったと思うが、失礼な人間である。人にものを頼んでおいて、思い通りにならないとやめてしまう。ふつうならそのまま撮ってくれと言うのではないのか。それとも私が適当にシャッターを切ってしまえばよかったのか。それにしてもカメラをひったくるなよ、この変人!
不快な気分で2階の屋内展望台にうつる。悪天候のときや寒い日はここから景色がながめられてよさそうだ。展望室を一周しながら外を見ると、駐車場の裏側にキャンプ場があり、ライダーのテントがならかでいる。駐車場にあったバイクは彼らのものなのだろう。変人に追いつかれないように展望室をでて、変人が写真に入れてくれと言っていた、開陽台と書いてあるモニュメントと写真を撮っていると、変人が2階から見ている。気分が悪いのですかさず逃げだした。変人のバイクはオンロード・バイクで地味なモデルだ。ナンバーを見ると都内ナンバーで、残念ながらご近所さんだった。
開陽台はライダーだけのものではなくなってしまった。18年前が異常といえばそうだったのだろう。私が町の関係者だったとしても、せっかくの施設をライダーに独占されるのは忌々しいし、道路や駐車場を整備して、観光客を呼ぼうとすると思う。このすばらしい景色、町の財産を生かして、少しでもお金が落ちるようにすると思う。それが当然のことだが、神威岬といい、札幌駅といい、開陽台も変わってしまうのは寂しい。ただ、今ここにキャンプをしている若者にこんな感傷を話しても理解されないだろうと思う。これを読んでくれているあなたにもわからないかもしれない。彼らやあなたにとっては現在の開陽台が思い出の地になるのだろうから、私の落胆に反発を覚えるかもしれない。しかし私と同じように、あなたがたずねた18年後にここを再訪すれば、私のこの気持ちもわかることだろう。
いよいよ最終目的地の知床にむかうことにして、標津の町に機首をむける。真っ直ぐな直線で有名な北19号線がどこにあるのかわからずーー開陽台の出口を左に行けばすぐだーー道道を適当にいくと、中標津の中心部にでた。意外に大きな町である。中標津を通過して国道272号線をすすむと標津にはすぐに着いた。標津にはサーモンパークという鮭科の魚の水族館があり、鮭・マス科の魚釣りの好きな私はーー山女も岩魚も虹鱒も鮭・マス科だーー興味を惹かれたのだが、先を急ぐし、入場料金を払うのも惜しいので今回は通過することにした。
標津の町はずれにいたると『この先峠、最終GS』と看板をだしているスタンドがあった。もうすぐ予備タンになるところだが、海岸線をいく道に峠なんかあるのか?、と疑って、羅臼までの距離もたしかめずに通過した。しかし標識で羅臼まで42キロあると知って落ち着かなくなる。DRはリザーブになってもガスは5リッター残っているから、100キロ以上走れることはわかっているが、心配になった。大丈夫なはずだが、気にすると不安がきざすのである。
小さな集落はあるがGSはない。途中、釣人に鮭釣りを解放していることで有名な、忠類川がながれる忠類があった。どうせないとは思ったが、国道からGSをもとめて集落に入ってみるもやはりない。今日は鮭の漁獲調査という名目の鮭釣りも休みだった。
峠なんてあるのかと思っていたがどんどんのぼっていく。緯度が高いため、少し上がると森林限界に達してしまい、風景も荒涼としてくる。そしてこれからむかう前方には、原生林におおわれた知床半島がうねってつづいていた。海岸線は断崖となり、道は崖の上を走っている。ここでリザーブとなったが羅臼まで15キロほどで問題はない。17℃と表示されている羅臼峠を越えて羅臼の町に入っていった。
町の入口のあったGSに入ろうと思ったが、先にホクレンがあると看板がでていたのでそこにむかう。直後に水分の多いゼリー状のものが落ちてきて、ヘルメットにぶつかった。ビチャッと。ヘルメットはオフロード用でゴーグルをかけているから、ゼリー状のものが顔に飛び散ってしまう。鼻から口にかけて。なんだ?、と思ったが、カモメのフンだ。ウワッと思ったがホクレンがあったのでそのまま入る。従業員にガスを入れてもらうが、彼はヘルメットと顔にカモメのフンが飛び散っている私を見て笑わないようにこらえているのがわかる。肩が震えているのだ。25.0K/L。108円と高く1814円。しかしここも旗をくれないのだった。
知床の道の行き止まり地点にいってみたいと思っていたので、道道87号線に入って相泊をめざす。国道から道道に入ると、とたんに寒村がつづく。景色も寒々しくなり最果ての雰囲気だ。犬の放し飼い苦情多発地域、犬の放し飼いはやめよう、と看板がでている。たまにある工場には、ライダー、サイクリストのバイト募集の紙が張ってあった。鮭などの海産物の加工をする仕事、通称『シャケバイ』だ。
途中に川があれば気になるので見ていった。ほとんどは釣りにならないような小さな流れだが、ある小渓流に4人の釣人がーー何かの調査員かもしれないーー入っていくのを見た。私も釣りをしようかと思ったが、熊注意、の看板がでていたのでやめておいた。
セセキの滝
相泊に近づくとセセキの滝があらわれた。道のすぐ上の崖から流れ落ち、道路の下をとおって海にそそいでいる。これほどワイルドな滝は見たことがない。落差は10メートルほどだが迫力があり、バイクをとめて写真をとった。海の色は空を反映して鉛色だ。透明度はいかばかりなのか、たしかめなかったのでわからない。来た道を振り返れば、母親と子供の3人でコンブを干している。今にも降りそうな空模様なのだが、地元の人がコンブを干しているということは、雨はないということなのだろう。走りだすとすぐに相泊にいたり、道路の行き止まり地点に到着した。港や海岸では多くの人が釣りをしている。行き止まり地点で写真をとって引き返したのは15時だった。
相泊の道路の果てるところ
セセキの滝にもどると鹿がいた。雄ばかりが3頭、道路脇で草を食んでいる。エゾ鹿と記念撮影をするチャンスは滅多にないから、ゆっくりと近づいてバイクを入れて写真をとった。立派な角がカッコよい。これが2001年北海道ツーリング・レポートのトップにある画像である。鹿は私がこれまでとちがう動きをしたときだけ、リーダーが顔をあげて見つめるが、私に害意がないとわかるとまた食事にもどる。写真を撮り終えると彼らを驚かせないように静かに走り去った。
雨がパラパラと降ってきた。羅臼に引き返していきながら、これからのことを考える。次の目的地はツーリングに最終目的地のカムイワッカの湯なのだが、今からいくとすると日が暮れてしまいそうだ。それに羅臼にある有名な露天風呂、熊の湯にも入ってみたいし、隣接している羅臼温泉野営場にも泊まってみたい。先を急ぐならカムイワッカにこれからいって、ウトロ方向でキャンプすべきだろうが、日暮れまでにカムイワッカの湯につけるのかわからないし、いけたとしても雨のなかの入浴は楽しくないだろう。景色もこれでは楽しめないであろう。さてどうするか。
雨はすぐに止んだ。羅臼につきR334の合流点が見えてきた。右折して知床峠、ウトロ方向にいく道だ。途中に熊の湯もある。そのR344に入っていきながら、ウトロにいこうと決めた。時間はまだ15時30分だから、熊の湯に泊まるのはもったいない。一気にカムイワッカの湯にいってしまおうと思ったのだ。それはいつもの私の、性急な、貧乏性の結論だった。
そうと決まれば先を急がなければならない。カムイワッカの湯滝は国道の分岐から20キロの距離があり、しかもそのうちの11キロはダートなのだ。さらにジャリ道の終点にバイクを置いて沢登りをし、湯滝まで歩かねばならない。歩くのは20分か、30分なのかわからなかった。
アクセルをワイド・オープンして知床峠をのぼっていくと、左手に羅臼川があらわれた。この川は知床で最大の流れではなかろうか。川幅があり、水量も豊富で、しかも本州の川のようにいくつもの堰堤まである渓流をながめながら走っていくと、釣人を見てしまった。彼はひとりで沢のなかに立ちフライを振っている。それを眼にした瞬間に予定を変えた。カムイワッカは明日いくことにして、今日は日暮れまで羅臼川で釣りをすることにしたのだ。結果として熊の湯のある羅臼温泉野営場にキャンプすることにした。
野営場の入口につくと、すぐ前に名高い露天風呂の熊の湯があり、たくさんの車がとまっていた。風呂は釣りの後で入ればいいから、まずテントを張ってしまおうとキャンプ場に入っていくと、急坂の上りとなっていて、その先に駐車場があり、たくさんの車とバイクがとまっている。バイクを駐車場に入れると、下にあるキャンプ場から太鼓の音が響いてきた。日本のものではなく、アフリカか南米の太鼓のような感じである。誰がたたいているのか見にいってみると、サイトのはずれのテントのなかで、20代後半の男が胡座をかいて、股のうえにおいた太鼓を打っていた。タムタムとでも呼ぶのだろうか。小さな太鼓がふたつ縛ってある民芸調のもので、たたきかたも独特だ。妙な奴がいるなと思ったが、サイトが空いているのを見て、手早く荷物を運び込んだ。
3分でテントをたてる。荷をテントに入れながら周囲を見ると、長期滞在者が多いことがわかった。両隣りの60過ぎの夫婦のテントやタープのたたずまいは、1週間や2週間ではだせない雰囲気だし、サイトの中央にはブルーシートをかけた巨大なテントもあり、奥にも風雨に負けないようにガッチリと補強して設営されたテントが並び、ふつうのキャンプ場にはいない怪しげな人たちが歩き、談笑している。太鼓の青年のテントにも若い男が訪ねてきて、何事か礼を言い、朗らかに語り合っていた。その調子が旅先独特の、人間関係に上下や損得勘定のない、お互いによい人になっていられる、無責任で心地よい口振りだった。旅が日常になっている人に特有の、浮世離れした会話や物腰なのだった。
ふつうのキャンプ場では見たことがない75くらいの老人が、27・8の女性に夕食の材料をあげている。「これを差し上げます。どうぞ食べでください」などと言っている。手渡そうとしているのは魚貝類だ。女性は、「有難うございます。でも、何もお返しするものがないんです」と答えていた。
「いいんです、そんなこと」
「でも‥…、いい年をして恥ずかしいんですが、いただきます」
老人は料理の手順まで教えてやっていた。
なんだか変なところだなと、スッキリしないものを感じながらテントのなかで釣り支度をしていると、
「おい、兄ちゃん、兄ちゃん」とテントの入口で呼ぶ声がする。なんだと思って顔をだすと、60過ぎの男が立っている。両隣りの人ではない。
「飲みにこねえか? イカやマス、ホタテもあるんだ。飲みに来いよ」
とがなりたてる。既に酔っていて眼がすわっていた。
「釣りにいくんですよ」と答えると、
「いいじゃねえか、釣りなんて。オショロコマか? そんなものよりずっと美味いものを食わしてやるよ」
「釣りを楽しみにしてたんでね」
「飲もうぜ兄ちゃん、俺んとこに来いよ。あのいちばん奥のテントなんだ」
強引な男だ。酔っているとはいえ失礼でもある。それに私は兄ちゃんなどと呼ばれる年ではないし、初対面の人間にご馳走になりたくもない。重ねて釣りにいくと言うと、
「それじゃ行ってこいよ。待ってるぜ。あの奥のテントだ。まあ30分だな、30分だけ行ってこいや。それで十分だ。いいな兄ちゃん、待ってるぜ」
なんて言って歩いていく。呆れて見送ると、代わりに若い男が近づいてきた。20くらいだろうか。釣りか?、とジェスチャーで示す。話せないようだ。そうだ、そうだ、とうなずくと、釣り場に案内してくれると手振りで言う。先にたって歩きだした。しかしこのキャンプ場はじつに多彩な人がいて、びっくりしてしまうぜ。
釣り場は熊の湯の上流がよいとのこと。下流は小さな魚しかでないそうで、もっと上流のほうが釣れるとのこと。そして彼が大きな魚をかけたことなどを手振りで教えてくれる。最後に手の平に文字を書いて、何かを伝えようとしてくれたのだが、ジェスチャーも加えて示してくれたことが、どうしてもわからなかった。
彼と別れて熊の湯へわたる橋から羅臼川に入渓した。すぐに涎がでそうなポイントがつづく。しかし先にある堰堤の下がよいと彼に教えられていたので、川のなかを歩いていった。着いてみるとそこは素晴らしいポイントだった。登って乗り越えられる小型堰堤と、大型堰堤の二段堰堤になっていて、岩の沈んだ深い淵となっている。川底に岩のはいっている、深い流れは絶好のポイントなのだ。逸る心をおさえて仕掛けを入れると、すぐに当たる。あわせると、釣れた! オショロコマ(エゾ岩魚)だ。この間釣りはじめて10秒もたっていない。しかし魚は小さくて12センチほどだった。
羅臼川のオショロコマ
魚をリリースしてまた仕掛けを流す。エサはブドウ虫だ。またすぐに当たりがきて、あわせると釣れる。オショロコマだがやはり12センチの小さな魚だ。ハリスは0.2号を使用した。首都圏では標準サイズだが、ここでは反則技くらいの細いラインだったかもしれない。その後もオショロコマは次々ににかかった。入れ食いとはこのことで、ワン・キャストでワン・フィッシュ、エサを流せば必ず釣れる。ただし小さいのしかこない。大きくとも15センチくらいで、20センチ以下はリリースする主義なのでキープできない。そこで針をマス針の8号という特大サイズのものに変え、小さな魚が食えないようにエサも大きなキヂにつけかえた。これならチビは食いつけまいという仕掛けである。
しかしダメだった。どうしてもチビが食ってしまう。大きな針を飲み込んでしまうのである。入れ食いは嬉しいのだが、これじゃあなと思っていると、
「すいません」と声をかけられた。いつの間に来たのか、若い男がふたり背後に立っていた。
「何が釣れるんですか?」と言う。それが知りたくてこんなところまで来たの、と思いながら、
「オショロコマだよ、岩魚の一種なんだ」と答える。彼らがはいているのはスニーカーなので、
「足を濡らさなかった?」と聞くと、
「少し。でも平気です」
彼らは大学1年生でヒッチハイクで北海道をまわっていると言う。ヒッチハイクとは他力本願で甘ったれた旅をしているなと思い、車は止まってくれるの?、とたずねると、けっこう乗せてくれるそうだ。私は見たことがないが、少し前に猿岩石がヒッチハイクの旅をする番組が人気になっていたから、テレビの影響かなと思う。この若い子達も車に乗せてやる人間も。その間も入れ食いはつづいている。釣ってはリリースの繰り返しだ。
「すごく釣れますね。これなら僕も釣りをはじめたいくらいですよ」
「ここは特別だよ。こんなに釣れるところなんてない。でも、小さいよね」
私はバイクなので君たちを乗せてあげられないな、と言ったら、さっきの酔っぱらいを思い出した。彼らに、飯なら食えるぞ、と男のことを話してやる。誰でもいいから話をしたいようだから、食わせてもらったら、と。彼らの反応は煮え切らない感じ。私も会ったばかりの酔っぱらいを紹介したから、他人のふんどしで相撲をとったような居心地の悪さをおぼえる。しかしこの先どうするのかは彼らが決めることだ。私は大きな魚を求めて手前の小型堰堤を越え、大型堰堤の下の対岸のポイントをさぐりにいく。流れのなかに入っていくので彼らはついてこられない。彼らはしばらく私の釣りを見ていたが、やがて引き返していった。
大堰堤の下も入れかがりだが大きな魚はかからない。流れがゆったりしているためかと考えて、激しい水流のポイントに移ることにした。大岩の間を急流が駆け下っているところだ。オモリを流れに負けない特大サイズのものに換えて、大型魚のいそうな底を狙う。しかしここでもチビばかりだった。川のどこをやっても入れ食いなのだが、15センチ以上はでない。17時30分に日も傾いてきたので納竿としたが、50匹は釣っただろうか。型は小さいがオショロコマのたくさんいるこの川が、ずっとこのままであってほしいと思った。
川から道路にあがると、ヒッチハイクのふたりが熊の湯に歩いていくのが見えた。今の若い子は貧乏旅行だといっても、食事に執着しないらしい。それはそれでいいだろう。彼らが酔っぱらいにご馳走になれば、紹介した手前私も顔をだせねばなるまいから、それがなくなってこちらも助かった。
キャンプ場への坂道をのぼっていくと鹿が4頭草を食んでいた。今度は雌ばかりだ。おお、さすがに北海道だな、と思ったが、考えてみれば日光にも鹿はたくさんいる。いろは坂の車が走るすぐ横で草を食べているし、丹沢では鹿は登山客にスナック菓子をもらっているのだ。
テントが見えてきた。近くにある、さっきまで空いていたサイトにテントを張っているライダーがふたりいる。そこはテントふたつ分の大きなサイトで、ふたりのライダーがそれぞれひとつずつテントを設営しているのだが、よく見るとそのうちのひとりは、開陽台で会った変人ではないか。嫌な奴といっしょになってしまった。
変人も私に気づいた。釣れた?、と聞くので、入れ食いだけどチビばかり、全部リリースですよ、と答えると、
「リリースするの?」と頓狂な声をだす。
「20センチ以下はリリースすると決めているんでね」と答えると、
「俺はなんでも釣れたものは食っちゃうけどね。おたくはそうなんだ」と言う。
釣りにもマナーとルール、常識というものがある。それがわからないということは、変人は釣人ではなく、ただ魚を獲る人だ。それに、おたく、と呼ばれたこともはじめてで不愉快だ。私はオタクではない。どうもコイツとは噛み合わない。ところでいっしょにいる若いライダーは偶然いっしょになったのだそうだ。
釣り支度を脱いでいると変人が近づいてきて、勝手にテントのなかに顔を突っ込んでのぞく。
「へえ、こうなっているんだ。このテント、ゴアテックス?」
「いや、20年前のだからそんなことないよ。それよりどこから来たの?」
ナンバーを見て知っているがその上で聞いた。私の口のききかたもぞんざいになる。
「東京の〇〇から」
「そうなんだ、都内か。関西の人かと思ったよ」
「なんで?」
「いや、口のききかたとかそんな感じ」
「そうかな」
変人はブツクサ言ってテントにもどっていった。ヤレヤレだ。
彼らはテントを設営すると熊の湯にいった。こちらは行動をずらすことにする。ふたりはペアになっているから、このまま関わらないようにすればよいのだ。そこで食事をとることにする。米を炊いてから正油ラーメンを作り、合体させていつものラーメン雑炊だ。
となりのテントの主人が、釣れた?、と聞く。こんなのばかりです、と指で示す。入れ食いなんですけどね、と。その奥さんは料理の最中でイカ飯と塩辛を作っているが、本格的な調理だ。そこへ別のテントの主婦がやってきて、この和え物をどうぞ、とお裾分けをしていく。私に話しかけたご主人が、今晩はコイツをやりましょう、と赤ワインを指差した。
となりのテントの夫婦はほかのテントの人と集まって夕食をとるようだ。今日は〇〇さんのところ、などと言っているので、日替わりで場所が移動するらしい。それがキャンプ場の真ん中にある、ブルーシートをかけた巨大なテントで、若い女性に食材をあげていた老人のテントだと、会話を聞いていて知った。私に釣りのことを教えてくれた若者がそのテントに出入りしていて、彼は老人の孫のようだ。酔っぱらいのすぐ後に来たから、てっきり酔っぱらいの仲間だと思っていた。その酔っぱらいは奥のテントで酩酊している。暗くてよく見えないが、話し相手がいるようだ。テントの前に焼き網が置いてあり、イカや鱒を炙って飲んでいる。酔っぱらいが一方的に喋っているだみ声が、切れ切れに届いていた。酔っぱらいのテントの回りには焼酎の空きペットボトルがぐるりとならべてあり、彼の長い滞在を物語っていた。
太鼓の青年をみると、老人に食材をもらった女性といっしょにいる。ふたりは夫婦のようだ。青年は遠い眼をしていて、不思議な雰囲気のある男だ。たぶん社会性が欠けていて、音楽で生きていくしかないのだろう。それが金になるのかどうかは別として。そしていっしょにいる女性が幸せそうな、満ち足りた表情をしているのが印象的だった。
3人のライダーがキャンプ場に入ってきた。テントを張ろうとして、ひとつだけ空いている酔っぱらいのとなりのサイトに歩いていく。これはご愁傷様、と思っていると、さっそく酔っぱらいから声がかかった。
キャンプ場の中央にある巨大なテントに、老人と若者のほかに2・3組の60以上の夫婦が入っていった。やがてにぎやかな話し声がもれてくる。この味はどうですか、とか、もっと食べてください、どうぞ、などと聞こえてきた。なんだか家族ごっこをしているようで気持ちが悪いが、あの若者は生き生きとしていた。表情に屈託はなく、障害者の影さえ見えない。日常生活でもこのように過ごせるのだろうかと他人事ながら案じられる。だから老人がここに連れてきているのだろうかと想像してしまった。
旅先で人は日常を忘れる。日々の生活は常に闘いの連続なのだ。職場の同僚や他社の人間、または会ったこともない人々と経済的な闘争をしなくてすむ休日は、激しい自己をさらけだす必要がなくて、皆よい人になるものだ。だから旅はよいのだし、本来の自分にもどれるとも言う。しかし、毎日闘っている自分もほんとうの自分なのだ。ほとんどの時間を過ごしている、厳しい闘争者のほうが本来の自分とも言える。だから旅先でも口のききかたを知らない人間や、失礼な物売りに出くわせば、ふだんの険しい自分になって相手を面罵することもある。ここのキャンプ場にいる人たちはよい人ごっこをしているように感じられる。夏の間、ここだけで成立する虚構の人間関係を皆で演じ、仲間意識を共有しあって、夢のような空間を作り上げているのだと。若者のバーチャルな世界ではないが、リタイヤした老人たちの幻想の楽園だ。
酔っぱらいのとなりにテントを張った3人のライダーは酒宴に加わった。強引に誘われるままにそうなってしまったのだろう。酔っぱらいの何を言っているのか聞きとれない、切れ切れの声が響くたびに、そうなんですか、へえ、などと相槌を打つのが聞こえた。
私はコッヘルを洗いにいった。食器をきれいにするとポリタンクに水を満たしてテントにもどる。焼酎の水割りに使うためだ。変人が若者と熊の湯から帰ってきたので入れ替わりに風呂にいく。キャンプ場をでて道路をわたり、吊り橋で川をこえると熊の湯までは下っている。簡素なつくりの脱衣所に入ると、バイク雑誌で見た丸くて大きな湯船があった。しかし妙なことに誰も湯に入っていない。男たちは7・8人いたが湯船のまわりをぐるりと座っているだけで、嫌な空気がよどんでいた。服を脱ぎながらようすをうかがうと、地元のゴロツキのような男たちが、熱くって入れねえや、と言い合っている。ゴロツキは5・6人いて観光客は2・3人だ。ゴロツキたちは22・3と若く入れ墨を彫っていた。
観光客はゴロツキたちの横でバツの悪そうな顔をしている。嫌なタイミングで来たなと思ったが、ここまで来て湯に入らないつもりはない。服を脱いでいると酔った地元の老人がやってきて、風呂に入る用意をはじめた。そして、今までヤクザの大親分の家で飲んできた、筋者がたくさんいた、子供を5人苦労して育てた、と脈絡のないことを話しだす。適当に相手をすると、
「あいつらも筋者だな」とゴロツキたちを指差して言う。
そんなことは見ればわかる。支度ができたので、話し続ける老人を無視して風呂に歩きだす。湯船のまわりにぐるりと男たちが座っている間に、わずかに空いているスペースをみつけて腰をおろし、湯に手を入れてみた。熱い! とてもではないが入れない。私のようすをうかがっていたゴロツキどもがお笑いをする。
「熱いよ、こりゃ、60℃はあるな」
「いや、70℃じゃねえか」
「こんなに熱いのは今年はじめてだぞ」
「まったく誰が熱くしたんだか」
「悪いことをする奴がいるな」
熱い湯をうすめるための水道ホースがあるが、ゴロツキどもがそれを風呂から取り出して、使わせないようにしているのだ。まったく幼稚だ。こんなことをして楽しいのだろうか。そしてこんなに下らない人間には初めて会った。桶をとって湯をくみ、胡座をかいたまま頭からかぶってみる。熱いがかぶれないことはない。その場で髪をシャンプーし体をあらう。ゴロツキどもは言いたい放題だ。
「地元の人間じゃない奴が来ると、湯が熱くなっちゃうんだ」
「入れたくないのさ」
「このままずっとここに座っていようぜ。夜中までよ」
「誰だよ、意地悪なことを言うのは。面白くって、俺もそうしちゃうじゃないか」
話にならない人間性だ。しかし通常の社会では、こういう低級な人間は人前に出てこないものだし、自己主張もしないものだ。これを地元の知人の前でやったら一生馬鹿にされて暮らすことになるだろうから。それが知っている者のいない、観光客相手にはやれると考えて、数を頼んでじっさいにやっている愚劣さは、放火をする愉快犯やのぞきをする変態に通じる所業だ。熊の湯ではこんなことがこのときだけでなく、何年も続いていたようだが、羅臼の人はそれをどう考えているのだろうか。今になって熊の湯の維持管理のために募金を求めたりしているが、こういうことのけじめをつけてから浄財をつのるべきだと思う。私は決して募金しないし、熊の湯にも二度といくつもりはない。しかしこういう低能なゴロツキがいるのも北海道だけなのだ。なぜなのだろうか。羅臼の人に教えてもらいたいものである。
体を洗った後で湯につかってみることにした。旅は精力的に楽しまなくてはならないというのが、貧乏性の私のモットーなのだ。せっかくここまで来たのに熊の湯に入らないのは損でしょう?
湯に入ろうとすると、ゴロツキどもも観光客も私に注目する。そういえばヤクザの大親分と飲んできたと言っていた老人はどこかへいってしまった。片足を我慢して風呂にいれ、ドブンとつかってみたが、あまりの熱さにすぐに飛び出した。ゴロツキどもが大笑いしている。これで熊の湯をでたが、吊り橋の入口には、毎朝地元の有志で風呂の掃除をしている、キャンプ場の人もご協力を、と書いてあるが、そんな気持ちになれるわけがない。まず自分の町のゴロツキを掃除しろ!
テントにもどると変人と若者は食事をしていた。向かいあって座り、変人が料理したものを若者にすすめていたが、なんと変人は天ぷらを揚げていた。意外にも料理上手だしマメなのでびっくりした。しかしあくまで変人は避けてテントにもぐりこみ、焼酎を飲みつつ今日の記録をつける。ラジオもつけて明日の天候を知ろうとするが、なかなか天気予報にならないので、自宅に電話してテレビで北海道の予報がでたら教えてくれと、家内にたのんだ。
記録の整理が終わるとキャンプ場を歩いてみた。人の多いキャンプ場では必ずキャンパーを観察することにしているのだが、どんな人がいて何をしているのか見るのは、非情に面白いのだ。真ん中の巨大テントに集まっていた疑似家族は夕食を終え、それぞれのテントに帰っていた。酔っぱらいはライダーを相手にまだ管を巻いているが、長い時間飲み続けているのによく酔いつぶれないものだ。大人数で宴会をやっている若者のグループもいて、彼らは大型タープの下に集まっていた。そんな中で夫婦だけで過ごしている人も多く、それが普通だよな、とホッとさせられる。いくら旅先で解放的になっていたとしても、不自然にベタベタしたくないものだ。自分の守るべき一線を決め手、そこを踏み越えてくる人間は断固拒否するのが正しい人間関係のありかただと思う。
一方、奥の隅のサイトでは偏屈そうな老人がひとりで日本酒を飲んでいる姿もあった。こちらは何人も近づくのを拒んでいる老人の意思が放射されていて、サイトのまわりに険峻な壁がつくられている。人と関わりたくないのだろうがいささか度がすぎていた。老人は足元に炭をおいてイカか魚を炙って肴にしている。横を歩いている私のことは決して見ずに、顔をしかめて、噛みつくように日本酒をすすっていた。タープの内側にはカレイが洗濯ばさみでいくつも吊るしてあり、自分で干物をつくって毎晩のツマミにしているようだった。
テントにもどってまた杯をかさねた。変人は若者に一方的に話をしている。切れ切れに伝わってくるのは、ホーロー引きの鍋で米を炊くと焦げつかないなどという料理法に関することや、テントやシュラフなどの道具自慢だ。道具自慢をする人ほど嫌な人間はいない。よい道具、高い品を使うのは勝手だが、それを自慢するのは鼻持ちならない。あなたも道具自慢をされたら我慢がならないでしょう? しかも会ったばかりの人間に。道具にこだわらない私からすれば、道具自慢をするのはコンプレックスの裏返しのように感じる。これは私が安物、古い道具を使っている僻みではない。私は高い道具に価値が見出せないし、今ある物が壊れないかぎり新しいものは買いたくないのだ。お金を合理的に使いたいと思っているのであって、ケチであることは認めるが、買えないのではなく、買わないのである。道具へのこだわりは胸に秘めておくべきもので、ペラペラと人に自慢するものではないと思う。
変人の相手をしている若者が奥の酔っぱらいを、だいぶ騒いでいますね、と言うと、若い奴だから聞いているんだろう、ああいうのは若い奴だけ集めて語りたがるんだよ、と変人が答えているが、お前も同じなんじゃないの、と思う。
酔ってきて眠くなってきた。このまま寝てしまいそうだ。しかしその前にトイレに行っておこうとテントをでた。トイレからテントにもどろうとすると、宴会をしていた若者のグループがギターを持ち出して歌いはじめた。ギターは2本で歌はソロだ。かなり上手い。都内の路上でゲリラ・ライブをやっている連中が及びもつかないレベルなので、しばらく立って聞いていたが、すぐに終わってしまった。もっとやってくれればいいのに。ならばもう寝ようと思ってテントにもどると、誰かがテントに前にいて中に声をかけている。誰かと思ったら変人の相手の若者だ。どうしたのかと思ったら、変人がホワイト・シチューがたくさんできたので、食べないかと言っている、とのこと。振り返ると変人がこちらを見ていて、明日の朝、シチューとパンにしようと思ったんだけど、作りすぎちゃってね、と言う。腹はいっぱいなのでシチューは辞退したが、3人で話す成り行きとなった。
変人は45くらいかと思ったら私と同年であると言う。びっくりしてしまうが、私もこんなに老けているのだろうかと考えてしまった。若者は関西から来た私大4年生とのこと。
「就職は?」と聞くと、
「決まってません」との返事。このころは就職氷河期と呼ばれ、新卒でも職に就くことがたいへんな時代だった。
私大生君は22だと言う。私が昔、北海道に来たのも22だったよ、と話す。ただし私は大学4年生ではなく3年生だったから、君は現役なんだね、と言うと、はい、と答える私大生君だった。40男にはさまれて話しづらそうだったが、昨日カムイワッカの湯にいったそうで、入口で草鞋を貸しているが、借りなくとも登れること、ただし素足で岩の上を歩くのは痛いので、靴下で沢をのぼればよいと教えてくれた。
変人は北海道に30回も来ていると言う。びっくりするが、それならば独身なんだろうと思って聞いてみると家族がいるそうだ。30回も北海道に来ている同年の人間なのだからわかると思い、札幌駅や開陽台が変わったことを話してものってこない。変人が北海道に来るようになったのは、私よりもずっと後のことのようだ。
変人が話すことは料理や調理法、それに鍋釜のことばかりだった。ホワイト・シチューの仕上げをしながら、ハーブをベランダで栽培していると言ってそれを鍋に入れたり、倶知安のライダー・ハウスに泊まったが、食事をとれば宿泊は無料とのことでたのんだら、自分で作ったほうがよほど美味しかったことなど。
「料理の仕事?」と聞くと、「違う」とのこと。家庭や仕事のことは話さない。北海道やバイク、釣りのことも。とくにバイクにはこだわりはないようだった。ところで私はライダー・ハウス(RH」に泊まることに抵抗を感じている。若い奴しかいないだろうと思うからだが、変人に聞いてみた。
「RHは若い奴ばかりなんでしょう?」
「そんなことはないよ」
「そう? 私たちみたいな年の者がいくと、ひとりで孤立しちゃうんじゃないかと思うけど、そうでもないんだ」
「うん」と答えた変人だが、後で酔って語ったことはまるで違っていて、やはり若者ばかりの中で浮いてしまって、誰とも話せず孤立していたそうだ。それならばはじめからそう言えばよいのに。
「ところで酒ない?」と変人。「赤ワインがあったんだけど終わっちゃってね」とワインの空き瓶を示す。ハーフボトルだからふたりで飲んだらすぐに無くなるのが道理だ。それならと焼酎をつめた500mlのペットボトルを持ってきたが、もしかしてこれが目的?、と邪推してしまった。
シチューはできあがった。変人は私大生君に味見をしろと言う。
「美味いです」と私大生君。変人は私にも味をみろとうながす。腹はいっぱいだが興味があったので少しもらってみた。味は、
「ちょっとこれはハーブを入れすぎ。ハーブの味と香りしかしない」と言うと、
「そうなんです」と私大生君もうなずいている。だったらそう言えよと思うが、言えないか。
変人は顔色を変えている。しかし、
「それでもいただきます」と私大生君がガツガツとシチューを食べだしたので変人の顔もゆるんだ。
そこへ家内から電話がかかってきた。なんとタイミングがよいのだろう。電話にでると、明日の天気は全国的に雨マークが出ているとのこと。南から台風がきているそうだが、そんな気配のする空だった。それでもツーリング中はよく晴れてくれた。旅にでてから雨らしい雨降りに会っていないし、明日の午前中にカムイワッカの湯滝にいけば。ツーリングの予定はすべて終了するのだ。タイヤが気になるが、あとはひたすら走って帰るだけだから、その間に降られるのであれば、むしろ幸運というものだった。
電話を切ったところで寝ることにした。時間はだいぶ遅くなっている。ふたりにもう眠ると告げると、この酒は?、と変人が聞く。あ、いいよ、どうぞ、と言うと、変人が私大生君に、かえって良かったね、と言っていて、コイツ、やっぱりそうかと、邪推が確信に変わった。
2231円 294.7キロ