悪霊     ドフトエフスキー  

 二冊で五百円だった古本。以前から『積読』して死蔵していた書。前にも読みかけたが出だしの登場人物の説明が長く、退屈で、投げ出してしまっていた。
 今回読み通さねばもう手に取ることもなかろうと、退屈で冗長な序盤をこらえて読み、読了することができた。
 インターナショナルの指令をうけた男が街で引き起こす事件と、悪霊たる主人公の悪行をからめつつすすむ。
 真実をかくして読者の興味をひく、古典的スタイル。推理小説などに多用される手法だ。
 退屈な『説明』が終わり、ようやくインターナショナルの革命家と悪霊のふたりが物語の前面に出てくるとストーリーは流れだす。先へ先へと読ませる牽引力もある。しかし、時に議論が延々とつづき辟易させられるが、この作家、この時代では諦めて受け入れるほかない。しかも、思想、思想、思想、の連呼、そして権利と義務の多用はとても鼻につく。退屈で苦痛なページがつづく部分もあるが、カラマーゾフの兄弟ほど苦しくはない。
 ドフトエフスキーを読むといつも思うのだが、こんな人間などいないだろう、とか、こんな事件などありえない、と。しかし世界中で読まれている名作なのだから、普遍性はあるのだろう。この作品に熱狂的に惚れ込んでいる人もいる。何度も繰り返して読んでいるという実作者の話を雑誌で読んだこともある。私はまったく共感できないが。
 物語が終わると、雑誌掲載時には編集者に掲載を拒絶された章がある。内容は性的幼児虐待である。私が編集者でも断固拒否する。現実世界にそのような悲惨で唾棄すべき事件があるのは事実だが、わざわざ小説にするのはリアリズムでもなんでもない。人間を表現することにもならない。こんなものは露悪趣味だ。小説はもっと崇高なものではないのか?
 教養として読む価値はある小説。

 



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