放浪のすすめ

 人はだれでも自分らしく、自由に、思うままに行動したいと願うものである。しかし、そうはできないのが世の常だ。生きていくためには、信念をまげ、妥協をかさね、誇りをすてねばならないこともしばしばある。守るべき家族がいればなおのことだ。そんな毎日のなかで、何年、何十年にもわたって自己の平衡をたもつことは、困難なことである。

 感受性のとぼしい人にとっては、こんなことは悩むような問題ではなくて、当り前のことなのかもしれない。そもそも人間の営みとは、有史以来こんなことの連続だったと言えるのかもしれぬ。

 しかし毎日の不満や不快を当り前のこととして見過ごすことのできない私や、『放浪のページ』というHPをみつけてこの文章を読んでいるあなたのような人は、日頃うしなったものをとりかえす代償行為が、生きていくうえでどうしても必要だ。平凡な毎日をつみかさねていくだけでは、生きることはあまりに無味乾燥だし、自分の意に染まぬのに生活のためにした言動を、なにかで埋めあわせなければ、精神がゆれて、自分を保持することができなくなってしまうではないか。

 この代償行為は生きていくうえで絶対必要なものなので、生半可なものではひきあわない。最適なのは、日常の対極にある、非生産的でごく私的な営み、『放浪』である。

 放浪は日常をつきぬけた世界で展開されるので、かりそめの夢のような経験ができるのだ。それらの体験は私たちの心にあいたさまざまな穴をふさいでくれるだろう。

 ひとたび放浪の世界に踏みだせば、社会的な地位や立場は意味をなくす。財産の有無や年齢も関係ない。ただひとりの個人となって、社会の表面を、浮いた存在となって流れていけるのだ。つかの間だがまったき自由人となることができる。これは失うものがたくさんあって、立場もあり、ふだん堅実な生活をしている人ほど刺激的なことだろう。

 放浪の世界にはいれば、自分とは別の人間になることも、あるいはふだんは胸のうちに秘めている本来の自己を解き放って、あるがままの自身にもどることもできる。望めばさまざまな人物、人格になれる異空間でもある。自分のことを知る人のいない社会をながれていくのだから、なんの上下関係もしがらみもない。どんなに極端な主義主張であっても、遠慮なく口にすることもできる。こんなに自由になれる、魅力的なことがほかにあるだろうか。

 これはなにも旅の恥はかき捨てという、恥知らずな行為を推奨しようとするものではない。自らを解放して、思っていただけでことばにしたことのない意見を広言しようが、他者を演じてすごしたとしても、結局は自分を知ることにつながるのだ。誠実に生きている人ほど、家族をまもろうという責任感のつよい人間ほど、時間に余裕がなくて、自分をふりかえることなどしないものである。放浪していると、旅の途中で立ち止まり、自らをみつめ、自己と再会することができるものなのだ。放浪は自身との対話の連続でもあるので。

 非日常の彼岸をながれ、刺激的な体験をし、限りなく自由になって、生活のために疲れた心をいやす。そして本来の自分とは何者なのかを知る。それが放浪であり、放浪をすすめる所以である。

 かりそめの夢の世界、異空間、まったき自由、放浪のすすめ。

  

 

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