冥府の建築家 ジルベール・クラベル伝 田中 純 みすず書房 2012年 5000円+税

 スイスのブルジョアの家に生まれ、幼くして病でせむしになってしまった男性の、芸術を追及した一生をえがく書。主人公はほぼ無名の人物だ。その彼に注目し、心酔する著者の心情もつづられた力作。

 主人公のジルベール・クラベルはスイスのバーゼルに1883年に生まれ、1927年に44才の若さでみじかい生涯をとじた。クラベルは幼くして結核にかかり、脊柱が歪曲してせむしとなり、病弱な体質となった。彼は一生病気と闘うことになったのである。

 長じても静養が必要で仕事らしいことはできず、一族の経営する会社の配当や遺産で生活をしたようだ。彼の関心の対照はもっぱら芸術だった。

 当初は文学を志したクラベルだが、それで成功することはできず、多方面の知的・芸術領域にすすんでゆく。それは古代エジプトの考古学であり、エジプト遺跡の芸術性に対するものであり、小説、演劇、そして建築へとひろがってゆく。その業績は芸術家、作家というよりは、芸術愛好家、在野の研究者という印象だ。際立った作品がなかったからだが、それがクラベルが無名のままだった原因だろう。

 作者は偶然知ったクラベルに関心を持ち、彼の一生を丹念にたどってゆく。クラベルの書いた日記、手紙をふんだんにおりこみながら語ってゆくので、クラベルの肉声を聞いているようで、彼の人となり、病気の状態、苦悩などがよくわかる構成だ。

 クラベルは転地療養のために各地に滞在している。イタリアをたずねた際には、南イタリアの海岸にたつ朽ち果てた塔をみつけて、手に入れた。この塔はこの地のナポリ王国がスペインの属領だった16世紀のころに、海防のためにつくられたものだ。この塔が後に彼の代表作となることになる。

 この塔はそのままにされて、フィレンツェで療養していたクラベルは恋をして、情熱的で詩的な文章をたくさん書いている。主に弟に手紙として書き送っているが、とても非凡な文体と内容で、それを弟も評価している。この作品にとりあげられる手紙のほとんどはこの弟に送られたものなのだが、この兄弟は感性が響きあっている。

 クラベルは「自殺協会」という幻想小説をかいたり、演劇の演出をしたりと芸術活動に参加してゆく。作者はクラベルと交流のあった芸術家、知識人、ブルジョアなども広範に記述している。歴史や文化にまでおよぶが、それが作者の専門分野のようだ。

 最終的にクラベルは若き日に手に入れた塔を再生し、さらに周辺の岩塊をうがって地下住宅を作ってゆくことになる。それはトンネルでつながれていて、ダイナマイトで岩盤を爆破して切りひらき、何十年にもわたって拡大され、ついにはクラベル城と呼ばれる、途方もない規模の建築物となってゆく。 クラベルは卓越した芸術活動をしたが、今となっては、巨大な岩窟住宅をつくったせむしの不気味な変人、というイメージしかのこっていないそうだ。本書にはその印象を払拭し、クラベルを再評価したいという、作者の熱意が作品中にみなぎっている。クラベルの書いたものをよむと、作者の言うとおり、これほどの人物が埋没しているのはおかしい、と感じられる。

 クラベルの手紙を紹介しつつ、作者は自分の解釈ものべてゆく。クラベルに惚れこみ、手紙や作品を詳細に読み込んだ作者だけにわかる、クラベルの心の代弁なのだろう。そしてそこここに比較文化、思想が専門の作者の知見があふれている。


 クラベルが地下空間を拡大していった心情をのべている部分。睾丸と卵、の章より。

 彼を取り巻く正真正銘の不気味さは、削り取り穴を穿つという行為、岩盤に執拗に食い入ってゆこうとする「無意味な衝迫」から生じている。この衝迫は大げさな技術の浪費によって実現されるだけに、よりいっそう無意味に見える。「造形の国への逃げ道を与えてくれる立体的形成力をもっていなかったならば、クラベルは間違いなくとっくに自然の諸力の猛威に圧倒されてしまっていたことだろう」。彼が生み出しつづける「空間の噴出」は、「魂を脅かす宿命からの逃避」である。その逃避が向かう地中の深みに限界というものがない以上、クラベルの空間は終わりなく作りつづけられてゆかざるをえない。


 作者は東大教授である。作者はクラベルにのめりこんでいるが、筆致はあくまで冷静で、分析的で、論理的である。そしてとてもアカデミックだ。

 作者は元々学者であり論文を書く人なのだろう。それがこの作品ではクラベルを語る内容なので、論文調の文学作品に仕上がっている。

 大部で詳細、論文調でアカデミックなので読み手はかぎられるだろう。それでも読書好き、芸術好きだったら是非読みたい一冊だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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