さようなら、私の本よ! 大江健三郎 講談社 2005年 2000円+税

 大江らしいブッキッシュで浮世離れした小説。

 印象的なタイトルである。作者の年齢を考えれば尚更だろう。このタイトルは作品中にもたくさん散りばめられているが、エリオットの詩からとられたものだ。

 物語は大江本人と思しき老作家が、頭の怪我で入院中の場面からはじまる。大江の小説はそれぞれの作品がたがいに関連し、継続しているものがあるので、あるいは先行作品があるのかもしれないが、残念ながら確認していない。

 怪我で生死の境をさまよった老作家は、病後を養うために軽井沢の別荘で、子供のころから特別なまじわりのあった友人と、友の教え子である若い人たちと共同生活をはじめることになり、そこでストーリーは展開する。

                         もう老人の知恵などは
                  聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい

 エリオットのこの詩が冒頭にかかげてある。戦後民主主義者であるはずの作家と思しき老作家は、平和主義者らしからぬ暴力に加担していき、老人の愚行に走るのである。その展開がこれまでの実作者の平和主義的なイメージから落差があり、驚かされるが、もちろんこれは小説であり、作り物であるのだから、作者と重ねて考えるのは間違いというものだろう。

 作品中には私小説と感じられるような、作家の夫人と、その兄で自殺した映画監督、障害はあるが音楽的才能に秀でた息子などの、作家のじっさいに身近な人物たちが登場する。そして主人公の老作家は軽井沢の別荘でエリオットの詩を原語で読み、次回作の小説のメモを取り、友人やその教え子たちと高尚だが現実ばなれをした議論をしてすごし、暴力的な展開部にはいっていくのだ。

 正に象牙の塔のなかの閉ざされた物語だと感じられるが、これが大江作品の独特のカラーであり、ほかの作家には書けない世界で、魅力であろう。

 ――さようなら、私の本よ! 死すべき者の眼のように、/想像した眼もいつかいつか閉じられねばならない。
 これに対比して以下の語句がつづく。
 いったん書かれた人物は生き続けるが、本を書いた人間は去っていかねばならない、
 これは作者のメッセージだろう。自身の死後のメッセージを早くも残したような印象である。もちろんこれだけでは作者自身は言い足りなくて、このさきまだまだ作品を書き続けそうな感触だ。

 読書人として読む価値のある本。

 追記 先行作品は『取り替え子』『憂い顔の童子』で本作は3部作の完結編である。

 

 

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