太陽を曳く馬 高村薫 新潮社 2009年 上下とも1800円+税

 晴子情歌、新リア王につつぐ長編三部作。書き難い思いテーマに挑んだ意欲作だ。

 前作の新リア王は、国会議員の父と出家した息子の彰之が政治と宗教について対話をするものだった。それが本作では主人公は刑事の合田雄一郎になり、合田の視点で物語りはすすんでゆく。合田は高村の作品には度々登場するキャラクターだから、作者には親しい存在だし、また彼は作者の分身でもあるのだろう。

 合田は若い雲水が死んだ事件を捜査していく中で彰之と再会し、彰之の息子の秋道がひきおこした殺人事件を思い出すことになる。

 前作の新リア王のラストで国会議員の父は倒れ、彰之の元妻は餓死し、息子の秋道は傷害事件を起こす。この先をつづけることは不可能だと思える救いのない内容だが、前作では触れられなかった要素で、物語は必然のごとくすすむのだが、それは前作から、いやそれよりももっと早い段階から、作者が本作の着想を得ていたからなのだろう。したがってこの作品は作者の訴えたかったことが書きこまれているのであろう。

 秋道の起こした殺人事件は前半のテーマで、事件の状況と裁判の内容、経過と論点が細かく語られる。ここは高村らしい執拗な描写がつづき、読むのが嫌になるが、これが作者の味だし、もっと読みがたいものは後半に待っているのだ。

 後半は雲水の死がテーマとなるが、ここで作者が訴えてくるのはオウム真理教の教義の分析と評価である。物語にのせてオウムの教義を宗教的な視点で分析していくが、ここがあまりに専門性が高く、長く、密度が濃くて息苦しく、読むのが辛い。延々と何十ページも教義の構造や定義、本質や疑問、矛盾などをならべられても理解できない。けっきょくオウムの教義は論理的におかしいという結論にいたるのだが、道元の正法眼蔵などの宗教書を読み込んで研究している作者が、この時点でオウムの教義について総括することの意義はあるのだろう。ただし一般の読者は飛ばしながら読んだほうがいいかもしれない。

 最終的に問題となるのは生きる意義であり、人には生きていく自由と死ぬ自由がある、というものなる。これについても難解で長い章が割かれていて、論理の上に論理が積み上げられてゆくページがつづく。

 前半の秋道の殺人事件と後半の雲水の死では関連性が薄く、作品としてバランスを欠く。そこにオウムの教義の分析と人には死ぬ自由もある、というテーマが組み込まれているから、小説の核心はどこにあるのか定まらず、全体にまとまりの無い印象だ。それでも作者はこれらをひとつにする必然性があったからこうしたのだろうが、その点では作者の意図の通りに作品は仕上がっていない。したがって前作、前々作に比べて仕上がりが劣っている。ただし、テーマがより書き難くなっているということは充分にわかるのだが。

 物語にいろどりを添えるのは美術、現代絵画である。作品のタイトルとなったのは、古代人の壁画絵とのこと。ここにも意味があるのだろうが、読んでいて関連性をつかめなかった。他者と自分との関係や距離感を暗示したのか。それとも世界観を連想させているのか。

 作者は細部にこだわって全体的なバランスを欠く作風だ。それは作者の好きだと言うドフトエススキーと共通するが、手紙などの章には眼を見張るような力量を示し、物語のひろがり、言葉のわきあがりにも当代一流の才能をみせる。情感のこもったラストを作りだし、宗教や哲学、数学などの硬いだけの作風ではないこともしめしている。本作は前作、前々作につづいてたいへんな力作である。ただ同様にまことに難解で重苦しいから、読者を選ぶだろう。

 

 

 

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