9月9日 日常へ帰還

 

 函館のフェリー乗り場にて ホクレンのフラッグを手に

 

 4時に眼がさめた。夜は明けていて体調はよく、頭はスッキリしている。起き上がってすぐ横にとめてあるDRに歩き、出発の準備をしていると、新聞配達の人がやってきて、ついさっきまで私が寝ていたマットの上に朝刊を置いていったから、眠っていなくてよかった。

 今日中に帰らなければならない。明日からまた仕事に、日常にもどるのだ。できれば早く帰宅して体を休めたいのが人情なのですぐに出立し、早朝の国道4号線を南下していく。国道は昨夜とおなじく長距離トラックの独壇場だ。100キロで飛ばすトラックについていったので距離をグングンと稼いだ。

 水沢市に入ったところで霧がでてきた。先を見通せない国道をハイペースで走るが、霧は山からわいてくるようだ。気温は高く22℃、23℃と上がっていくから、東北は北海道とは別世界だと実感した。

 R4は東北道の横を平行して走るようになったので、高速の案内がよく見える。ずっと『雨天走行注意』となっているが、路面は濡れていても降ってはいない。しかし古川市にいたると雨に追いついてしまったのか、ついに雨粒が落ちてきた。カッパは昨夜からつけたままなので着る手間はいらない。そのまま走るだけだった。

 三本木町に道の駅があったので休憩をとる。時刻は6時で、2時間で120キロ走行したからよいペースだ。昨夜は20キロ、30キロを走ることがたいへんだったから、いかに疲れていたのかあらためて実感した。

 道の駅で雨宿りをしながらまだ残っていたわかばを吸う。道の駅の駐車場には、これから道路工事の仕事にむかう人たちがたくさんいた。これまでなら遊んでいる私は働いている人を見ると、働き蜂故に後ろめたさを感じてしまったが、今日は日曜日なのでそれを振り払うことができた。

 雨は弱くなった。走りだすと仙台まで33キロの表示がある。これまで見られなかった福島の文字も案内にあらわれた。福島までいけば自宅にかなり近づいた感じがするものだ。ところでタイヤはまったく減らなくなってしまった。タイヤの山がなくなるまで1ミリの残量が何日もつづいている。タイヤの山がたくさんあるときには一気に減って、少なくなると減りづらくなるようだ。

 7時に仙台にはいった。これで東北の半分を走りぬけたことになるが、時間はまだ早いから余裕をもっていくことができる。昨夜無理をしたお陰で今日は楽ができるというものだが、それに加えて宿泊代も高速代もかかっていないから、なおさら気持ちが高揚する。金がかからなくてこれ以上ない気分だった。

 仙台しかない(2009年現在では都内にもある)定食屋の半田屋があったので朝食に入った。ここは棚にならんでいるおかずを選び、ご飯や汁物をトレーにとって席につくと、店員が伝票を切りにくるシステムだ。メニューはたくさんあるし安いから迷う。180円のラーメンと同額のカレーライスにして税込み合計で378円だが、食べれば苦しいほど腹がいっぱいになった。半田屋のポスターは、赤ん坊の前に大盛りのどんぶり飯が置いてあるもので、そこに、生まれた時からどんぶり飯、のコピーが踊る。メニューの大盛りご飯には、普通で十分です、とても食べられません、と書いてあった。

 ところで帰宅してから気づいたのたが、昨夜は夕食をとっていなかった。空腹を感じなかったから食事のことは完全に忘れていたのだが、よほど余裕をなくして走っていたようだ。日高のRHに着いたときにも同じだったから、2日つづけて晩飯のことも頭になく、先へ先へと急いだことになる。酒もフェリーでビールを1本飲んだだけだから、肝臓とダイエットのためにはなったが、こんなことも日常では考えられないことである。

 食事をしているうちに雨はあがった。しかし走りだすと降ったり止んだりを繰り返す。天候は不安定で白石をすぎると雲が切れて太陽があらわれ、カッと暑くなる。気温も24℃、26℃、27℃と急上昇するから、たまらずにカッパと革ジャンを脱いだが、東北と北海道は別の国だった。

 日照りの下を走るが暑さに慣れていないから消耗してしまう。福島に入ると暑気は一段と高まった。たまらずに矢吹町のセブンイレブンに駆け込んでブラック・アイス・コーヒーで涼をとる。日陰に座り込んでしまうが、コーヒーを飲み終わっても出発する気になれなくて、愚図愚図と少なくなったわかばを吸う。このツーリングもわかばの残量とともに終わるようだった。

 なんとか走りだして白河の町に入るとまた雨、夕立のような土砂降りだ。脱いだカッパをまた着たが、この後はスコールのような雨降りと日照りの繰り返しとなり、その下をひたすら南下していった。

                                                 516.9キロ 2558円

 

 十勝川源流にて

 

 終わりに

 母の術後の経過はよく順調に回復した。そして父母とはむろん和解した。そして翌年の春、息子は私立中学に合格し、それから高額の授業料と塾代、家庭教師代を払う闘いが、日常に加わった。

 

                                                  2009.7.6

 

 

 

 

 

 

 

 

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