田端から駒込へ

 

 田端文士村記念館と江戸坂

 

 仕事で田端にでかけた。駅の北口をでて、田端Asukaタワーの前を通っていくと、田端文士村記念館がある。その存在は以前から知っていたのだが、時間がなくて立ち寄ることができないでいた。幸い今日は訪問先との約束の時間に余裕があるので、記念館に入ってみることにした。

 明治の後期に画家や彫刻家、陶芸家が田端に住むようになり、ここはさながら芸術家村のようになったそうだ。その後、大正3年に芥川龍之介が居を移し、室生犀星もやってくると、菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎らも転入し、文士村と呼ばれるようになった。

 記念館は小さなものだが、芥川龍之介の書簡や室生犀星の原稿、ゆかりの作家の初版本や絵や彫刻などが展示されていて、入場料は無料だった。文士たちが暮らしたころの田端は閑静な田園であったと言う。都心に近く、静かな田端は、芸術の創作活動に最適の地だったのだろう。休日に記念館を見学し、周辺に点在する文豪や芸術家の足跡を訪ねるのも楽しいかもしれない。

 往時の田端をしのびつつ、記念館の先にある江戸坂をのぼっていく。田端はJRの線路を境にして東が低く、西が高台になっていて、この台地にのぼる坂はかなり歩きごたえのあるものだ。江戸坂をのぼりきれば台地の最高点なので、この先に広がっている、今も静かな住宅街に行くのはおだやかな道だ。文士や芸術家たちの住居跡はこの高台にあり、私が仕事でむかうのもこの地区なのである。

 江戸坂の先にはいつもは人気のない交番があるのだが、この日は洞爺湖サミットの警戒のために、警官がふたりも立ち番をしていた。警官がいかめしく立っていることがめずらしく、私は稚気をだしてふたりの前を歩いてみた。警官の前をすぎるときに、母親と小学校3年生くらいの女の子がそれぞれ自転車でやってきて、私と歩道をゆずりあうようになった。田端夫人らしい上品な母親は自転車をとめたので、会釈をしてすれちがったが、ふたりは女の子の習い事のことを話し合いながら駅方向に走り去っていった。

 所用を終えて帰る段になり、来た道をもどるのは面白くなく、台地をくだり、となりの駒込駅まで歩くことにした。田端も駒込も仕事でよく来ているから土地勘がある。しかしこの間を歩いたことはなかったから、この他愛ない思いつきに自身で惹きつけられて、道の左右をながめながら歩をすすめていった。

 台地が尽きて駒込に下りだし、線路と平行する道を夏の日差しを避けて日陰をえらんですすんでいく。すると一軒の古ぼけたアパートが眼について、このアパートを見たことがあると感じた。それがいつのことだったのか。アパートは木造の二階建てで、外階段がついており、二階の部屋にいくにはこの階段をつかうのだが、その階段を見ていると、若い母親のヒステリックな声と、幼い女の子の泣き声がよみがえってきた。

 その日、私がここを通りかかると、自転車に3才くらいの女の子をのせた母親が帰ってきて、子供を怒鳴りつけはじめたのだ。母親は自転車で走っているときからヒステリックな声をあげていたのかもしれないが、私がそばにいることも、自分の住んでいるアパートの住人に聞こえてしまうこともお構いなしに、声を荒げた。

「どうしてママとおうちに帰ろうと言うと、泣いて嫌がるの?」 
「保育園の先生に、ママがどう思われるのか、わかっているの?」
「あんなに嫌われたら、ママの立場がないじゃない」
「ママの気持ちがわかる?」

 子供は何も言えなくて、ママ、ママ、としゃくりあげながら泣くばかりだ。母親は女の子を抱いて自転車からおろすと、
「ママが嫌いなら、おうちに入らなくてもいい」
 と言って自分だけ階段をのぼり、二階の部屋に入ってしまった。女の子は階段をあがっていくが、部屋に入ろうとすると、母親に突き出されている。
「保育園の先生が、ママよ、ママが迎えにきたのよ。恐くなんかないのよって言ってたじゃないの。ママがどんな気持ちでいたかわかっているの?」

 ほかのアパートの部屋は静まりかえっていた。住人が部屋にいるのかどうかはわからない。路上にいるのは私だけで、私はしばらく動けなかったが、子供が泣き、母親が怒鳴っていた声が、ふたりとも泣き声になったのを聞くと、身を翻した。

 その母子が住んでいた部屋もほかの部屋にも物音はなく、住人が在宅しているのかわからない。あの母子はもうここにはいないようだ。部屋の前にあった子供用の玩具がなくなっているから。

 田端には野口雨情も中野重治も竹久夢二も暮らしていたそうだ。キラ星のような芸術家のことは頭から消えて、ただ母子の泣き声だけが耳にのこる、駒込へのたどりとなった。

                                             2008.7.10

 

 

 

 

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