2010年 東北ツーリング 2日目 日本海を北上

 

 木の下で雨を避けて出発準備

 

 5時30分に起床した。近くにある風車がビュービューと音をたてて回っている。ときおりテントに雨がポツポツとあたり、上空を自衛隊のジェット戦闘機が通りすぎていった。昨夜シュラフに入らないで寝ていると寒さで眼が覚めた。夜半に寝袋に入りなおしてまた眠ったのである。

 キャンプの朝の常食、インスタントラーメンを食べて撤収を開始する。荷物をまとめてバイクに積んでいき、あとはテントだけになったときに雨が降りだした。バイクを木の下に移動して雨粒を避け、カッパとヘルメットをつけて濡れたテントをたたむ。雨降りの中でテントをまとめるのはいつもやっかいだ。これで暑いと汗をかいてしまうのだが、気温が低いからそれはまぬがれた。

 6時35分に出発すると、雨はすぐに止んでくれた。道路も濡れていないから、局地的な降雨なのだろうと思われた。しかしここからツーリングは雨に悩まされることになるのである。

 

 

 稲穂が美しい 後方の小山は九十九島のひとつか

 

 象潟に下ってゆくと田に実った稲穂がとても美しい。バイクをとめて、稲がうねって広がる黄金色の海のような田んぼと、その先の山なみをカメラにおさめたりした。昨日はよく見えていた鳥海山が、雲にかくれてしまっていることが残念だった。

 サトさんにお聞きした、酒田付近だけが雨、という天気予報が気になる。上空の雲は厚く、南にいくほど色は黒いのだ。昨日見て気になっていた、たくさんの風車のあるところや、鳥海ブルーラインをたずねてみようかと考えていたのだが、それはやめて雨を避けるために北に急ぐことにした。

 しかし象潟の町まで下ると雨が降りだしてしまった。それも激しい降雨である。雨降りでも普通の強さならツーリングも楽しめるのだが、たたきつけるようなものになると走るのが辛くなる。視界が悪くなって緊張するし、雨に打たれているのがみじめに感じられ、気持ちが沈んでしまうのだ。それでもしばらくすると雨は落ち着いてくれて、象潟だけに、雨に西施がねぶの花、を地でゆく雨天だなと思ったりした。

 予定ではここから内陸に入り、横手、大曲、角館と町をめぐってゆくつもりだった。しかしこの雨である。横手は焼きそば、大曲は花火大会が有名なくらいなので今回は行くのをやめ、角館の武家屋敷だけを見にいくことにした。ところで走っていると傘を忘れてきたことに気づく。いつもは必ず持参するのだが、今回は思い出すことなく置いてきてしまった。どこかで買わなければならないと思うが、その金が惜しい。

 内陸に入らずに海沿いの国道7号線を北上してゆくと、日本海東北自動車道があり無料で供用中とでている。この道路は由利本荘方向に続いているようなので利用させてもらうことにした。気温は17℃と表示されていて涼しい。道路は無料なのに交通量は少なく、まわりの車はゆっくり走っているので、私も70キロのそのペースにしたがった。

 

 高速道の下で雨を避けて地図を見る

 

 周辺の地図が頭に入っていないので、由利本荘の先の松ヶ崎ICで自動車道をおりた。その出たばかりの高速道の下のトンネルで雨を避けてツーリングマップルーーTMーーを見てみると、自動車道をこのまま進み、秋田空港でおりるのが角館への最短ルートなので、再び自動車道に乗りなおして北上していった。

 しかし雨の角館にいって楽しいだろうかと考えてしまう。男ひとりで武家屋敷の町並みを、それも雨の中で見学するのはどうしたものだろうかと。カッパ姿で傘をさして歩いても場違いなのではないかと。観光客の中で浮いてしまうなら、このまま海沿いを走り続けたほうが、私のパーソナリティーやバイクのひとり旅に似つかわしいのではないか。しかし、次に角館に来られるのはいつになるのかわからないから、武家屋敷を見にゆくことにした。山形の酒田でも遠いのだから、角館は軽々には訪問できない土地なのである。

 秋田空港ICで自動車道をおりた。ここから角館まで50キロくらいあるから思ったよりも距離がある。弱くなった雨の中を内陸にむかって進むと、角館は田沢湖から20キロしか離れていないことに気づいた。とんでもない山奥である。酒田や秋田のように海沿いに都市がひらけるのはわかるのだが、こんな山の中になぜ城下町があるのか不思議だ。盆地で大きな川でも流れている交通の要衝なのだろうかと考えたが、ほんとうのところはわからなかった。

 

 田町武家屋敷の西宮家

 

 角館に入ると古い醤油蔵があった。思わずバイクを止めて写真をとるが、私は商家ではなく武家屋敷を見に来たのである。町の中を探索するとふたつある武家屋敷通りのひとつ、田町武家屋敷にでて、西宮家という大きな武家屋敷をみつけた。むかいは新潮社記念文学館で、当日は芥川龍之介典をやっていた。西宮家の写真をとり、文学館に入ろうかと思うが、角館と新潮社、それに芥川がどのような結びつきがあるのかわからないから、その気になれなかった。

 

 

 武家屋敷通り

 

 しかし田町武家屋敷はポスターでよく見る角館の武家屋敷通りの風景とはようすがちがう。他に通りがあるからそちらが本命だろうと探しにゆくと、黒い板塀がずっと続いている武家屋敷通りにでた。これだ。これがポスターの場所だ。武家屋敷は広い敷地をとっていて、そこにタイムスリップしたような古い建物がたっている。庭には大木が茂り、その枝が通りに張り出している。庭の一角には苔むした石灯籠が傾いてうずくまっていたりする。この通りの左右を見ながらバイクでゆっくりと走り、通りのはずれまでゆくとUターンしてもどってきた。

 どこかの武家屋敷に入って中を見学したいが、ずぶ濡れのカッパ姿だから、屋敷に上がったら畳や床を濡らしてしまうからとても不可能で、写真だけとり、敷地が三千坪もあるという屋敷の庭をながめたりして、いまだに茅葺の家がこんなに残っているのはどうしてなんだろう、武家の合理主義の伝統なのだろうかと想像したりし、5分ほどいただけで武家屋敷通りを去ることにした。

 

 茅葺の武家屋敷

 

 角館は佐竹氏の城下町だったとのことだが、首都圏にいると佐竹家のことはほとんど知ることはないし、話題にもならない。地元の人は小さいころから学校で学んだりするのだろうが、これを機会に帰ってから佐竹氏のことを調べてみようと思った。ところでここに、たそがれ清兵衛の撮影に使われた下級武士の家があったと帰ってから知った。それを見なかったことが心残りである。

 雨の角館を出ていくが、こんな天気なら車で来ればよかったと、どうしようもないことを考えたりする。雨に降られることも承知の上でバイクでやって来たというのにである。気持ちが弱くなっていたからだろう。角館のはずれで給油をする。GSの人に、1日雨ですか、とたずねると、午後から晴れる予報です、とのこと。それを聞いて元気がでてきた。

 秋田にむかうが、秋田は高校生の時のサイクリング以来だ。当時の秋田は大きくて近代的な都市だったイメージが残っている。あのツーリング中に私は自転車のハブを壊してしまった。秋田のサイクル・ショップで修理をしてもらったのだが、そのショップの修理技術と品揃えの豊富さは都内のプロ・ショップと変わらないものだった。

 秋田駅の西口に到着した。駅舎は新しいが思ったほど大きくはない。駅前にNHKの大きなビルがたっているが、その前に木造アパートがあったりする。駅前にアパートが建っているなんて、これが県都の駅かと思うと、人通りも少ない。NHKの前庭ではイベントをやっているがそこの人影もまばらである。こんなはずはない。駅の東口に県庁やデパートがあるようなのでそちらに行ってみることにした。

 秋田は東口のほうが栄えているが、やはり人が少なくてさびれた印象である。昔は大きくて近代的な街だったのに、人口減少のせいか活気のない小さな町になってしまっていた。たぶん秋田が東北でいちばん衰退したのではなかろうか。

 男鹿半島にゆくことにする。秋田市街では弱い雨だったが、進むと止めそうになってきた。角館のGSの人が午後から晴れると言っていたが、それが当たってくれたようだ。期待して走るがなかなか完全に止んでくれない。雨が落ちてこなければバイクをとめてメモをつけたり地図を見たりしたいのだが、それができずに苛々してしまった。

 男鹿半島の入口でついに雨は止んだ。雲はまだ多いが雨降りはもう終わったのだ。巨大ななまはげの立つ道の駅があったので休憩をする。それがこのレポートの扉のページの写真である。ところで男鹿半島は辺境の地で、人もあまり住んでいないという先入観を持っていた。しかしこれはまったくの見当違いで、町や村はあるし、半島のつけ根の秋田寄りには全国展開をしているチェーン店もたくさんあった。しかしバイクはいなかった。角館、秋田、男鹿とライダーは私だけである。

 男鹿国定公園に入った。道は断崖の上をいくようになり、眼下には絶景がひろがる。思わず見とれてしまうが脇見運転は危険だ。カーブの連続する道路に集中し、飛ばしていく。前をいく車に追いつけば追い越していった。時に強引な抜きかたをしてしまうが、勢いがついてしまったのでそのペースで入道崎まで走り切った。

 

 男鹿半島の先端 入道崎

 

 男鹿半島の先端である入道崎に到着した。岬は草原になっていて、そこに石碑とモニュメントがたっている。みやげもの店や食堂のたちならぶ駐車場にバイクをとめて、草の道を踏んでモニュメントまで歩いてみた。海の色は曇天のせいか泥色である。薄寒くてさびしい印象の入道崎だが、観光客はたくさんいた。

 入道崎には目的の店があった。石焼き料理の『美幸野』で、石焼き料理とは、桶の中に魚貝類を入れて汁をはり、、そこに焼けた石を放り込んで沸騰させるという豪快なものだ。美幸野で食事をするのを楽しみにしていたのだが、行ってみると行列ができている。これではどのくらい待つのかわからないので、次善の店としてえらんでおいた、入道崎の観光食堂『ニュー畠兼』に入ることにした。

 昼時で混んでいたが、食堂に近づいても、いらっしゃいませ、の一言もない。店員と眼が合っても何も言わないから、勝手に畳の店にあがり、席を定めて注文をしようとすると、レジで食券を買えと言う。レジに誰もいないし、案内もないから席についたのにである。カチンときたが石焼き料理はここでしか食べられないので、2100円の食券を買った。ちなみに美幸野でも石焼き定食は同額である。

 お茶は店内に散らばっている4・5個のポットに入っていると言うが、すべて空である。しかたがないからセルフの水をコップにふたつ汲んできたが、この店は接客もオペレーションもダメダメで、お茶をだそうという気持ちもない。観光地だからやっていけるのだろうが、今時こんなにひどいのは珍しいほどだ。

 隣りの席に子供連れの若い夫婦がやってきた。三つくらいの男の子とひとつにならないハイハイの女の子をつれている。女の子はじっとしていられない年頃で、私のバックにもにじり寄ってくるので、父親が抱き止めたりしていた。

 

 石焼き定食

 

 石焼き定食がでてきた。店主が料理を私の前におくと、石を入れますよ、と声をかけて焼けた石を桶に沈める。とたんに桶の中は沸騰し、グラグラの海鮮味噌汁となった。桶には鯛の大きな切り身がふたつ、海老と貝がひとつずつ入っている。鯛は骨とウロコが多くて食べづらいが、味はよいので魚の好きな方にはお勧めだ。ただし接客は前述の通りであるが。

 

 

 

 隣りの家族にも海鮮ラーメンがやってきた。三つの男の子が食べたがるが、まだ熱いから待ってと父親が子供用の小さな椀に移して冷ましている。母親は先にひとりでラーメンを食べだした。父親はじっとしていない赤ん坊を左手で抱いて、テーブルにおいたラーメンを右手ですすりだした。

 石焼き料理は量がたっぷりとあった。骨とウロコを避けつつ夢中で食べていると、隣りのテーブルから、ガタン、という音がした。なんだろうと思って見ると、父親が左手で抱いていた赤ん坊が、テーブルにおいてあったラーメン丼をひっぱり、熱々のラーメンを自分でかぶってしまったのだ。

 次の瞬間、赤ん坊がすごい声で泣きだした。父親は慌てて赤ん坊を母親にわたした。父親もラーメンをあびて熱いのである。店内からは、水!、水!、水をかけろ!、服をぬがせ!、の声があがる。私はこういうのはからきしダメで、服を脱がされているらしい赤ん坊を見ることもできない。ただ食事を続けるが、最早味などわからないし、それに店中の人が私の隣りのテーブルを見ているから、たくさんの客と眼が合って、食べていてよいのだろうかと思う有様だった。

 店の人は何が起こったのかわからずにボッとしている。それにむかって、水!、水!、水だ!、水をもってこい!、と客から声がかかり、店の人もようやく事態を飲み込んで水を取りに走った。私はやっと赤ん坊を見ることができた。赤ん坊は裸にされ、畳の上に寝かされて水をかけられている。女の人が2・3人コップの水を持ってきていた。男はひとりも来ていないから、女性の母性本能はすごいと思う。そしてこの時、私は自分のテーブルに水のコップがふたつ置いてあることに気づいた。

 店の人が大きなボールで氷水をはこんできた。大丈夫だぁ、ああびっくり、と赤ん坊をあやしながら体を冷やす。赤ん坊の肌は赤くなっていたが、水ぶくれなどはなく、大事には至らなかったようだ。まわりの客は念のため救急車を呼べと言うが、夫婦は自分たちの車で病院に行くことに決めた。赤ん坊はバスタオルにくるまれて母親に抱かれていったが、父親が店を出るときに、お騒がせしました、と客に一礼した姿が心にのこった。

 ニュー畠兼をでるが、ありがとう、の一言もない。店の女性が鬼嫁Tシャツを着ていたが、それが店のカラーによくあっていた。外に出ると雨がパラパラと落ちてくる。しかし弱い降りだから店で脱いだカッパは着ずに走りだす。男鹿半島を一周し、国道101号線で海岸線を北上するが、この道は県道のように狭いし、海も見えず、牧場や原野の中をゆくので荒涼としていた。

 

 八郎潟

 

 八郎潟の広大な干拓地が見たいので国道をはずれて県道42号線に入った。八郎潟は地図で見るとまっすぐな道路が縦横に格子のように走っている、巨大な稲作地帯だ。じっさいに着いてみると、見たこともない広大な水田地帯がつづいている。視界のずっと先、地平線まで田が連続し、実った稲穂がうねっていて、北海道の十勝平野の畑よりも迫力があった。

 すごいと思って走っていると雨が強まってしまった。たまらずに道の駅大潟に入って雨具を着込む。時刻は15時10分だった。そろそろキャンプ地を気にしなければならない時間に雨というのは気分が落ち込む。それに雨降りは午前中で終わったと思っていたから、夕方になってまた降られるとショックである。この雨模様では日暮れも早くなるだろうと思うと焦りもつのるのだった。

 地図をひらいて周辺のキャンプ場を見てみると、すぐ南の八郎潟に「南の池公園キャンプ場」があるが、もどるのは嫌だし、まだ北に進めるから候補にならない。北に眼を転じると、能代から内陸に50キロ入った大館に無料のキャンプ場「田代スポーツ公園オートピクニック広場」があるが、海沿いのルートから大きく外れるのは効率が悪い。能代のさらに北に1泊1000円のキャンプ場「御所の台キャンプ場」がある。隣りはハタハタ館という温泉施設なので、ここにしようかと考えるが、いずれにしても北に進み、16時になった時点で天候も考慮し、今夜の宿泊地を決めることにした。

 道の駅から走りだすと雨は更に激しくなった。強い雨に打たれていると気分が滅入ってくる。速く走る気にもなれずに大型トラックの後ろについて坦々と干拓地をゆくが、この雨降りではキャンプは嫌だから、能代のホテルにでも泊まろうかと考える。しかしホテルには怖い思い出があるから、できれば利用したくない。そしてこんなに天気が悪いなら、車で来ればよかったと、また考えてしまうのだった。

 16時に能代についた。幸いにも雨は止んだので、これならキャンプできると考え、御所の台キャンプ場に幕営することにした。念のためキャンプ場に電話をしてみると、現地は雨とのことだが宿泊はOKで、すでにテントを張っている人も4・5組いるとのこと。17時には着くと先方に告げて電話を切った。

 能代のスーパーで夕食の買物をする。豚モツのピリ辛炒め291円とメバチマグロの刺身190円をえらんだ。安くすんだ買物に満足しつつ、夕暮れの迫る国道101号線の大間越街道を北上していく。雨に降られないうちにと急ぎ、16時50分にハタハタ館についた。しかし隣りにあるはずのキャンプ場がどこにあるのかわからない。また電話をすると迎えに来てくれたが、キャンプ場はハタハタ館の北側奥にあるのである。

 

 御所の台キャンプ場 

 

 受付で入場料ひとり100円とテント1張り1000円の合計1100円を支払った。キャンプ客はハタハタ館の入浴料400円が300円になるとのことで、そのチケットも購入する。松林のフリーサイトにテントを設営し、荷物もすべて運び込むと、とたんにまた雨が激しく降りだした。傘がないから風呂にいけず、今日のメモをつけることにしたが、考えてみればテントに入るまで雨は降らずにもってくれたわけで、誠にラッキーだった。

 18時に雨はあがったのですかさず風呂にいった。ハタハタ館には露天風呂があり、海が見える。サウナもあるので汗をしぼり、温泉につかれば最高だった。260円の発泡酒を飲みつつテントにもどり、マグロの刺身と豚モツのピリ辛炒めで夕食をはじめる。発泡酒を飲み干すと焼酎に切り替えてマグロとモツをやるが、これがたまらなく美味しい。やはりフレンチや郷土料理よりも、オヤジ酒場のメニューのほうが口に合う。

 

 オヤジ酒場のメニューで夕食

 

 今夜もツマミだけで主食は不要だ。以前なら蕎麦でも茹でたものだが、これで十分だから年をとったものだ。食後に炊事場に食器を洗いにいくと、若者ふたりと熟年ふたりの4人の男たちが語り合っていた。熟年のふたりは渓流釣りに来ていて、見事な山女を塩焼きにしている。男たちの話題は旅と山、釣りなので私も会話に加わろうかと思ったが、酔いがまわってきたので自粛した。

 男たちに会釈をしてテントにもどり、また焼酎を飲みつつメモをつけるが、21時前には眠ってしまった。

 357.8キロ