8月21日 豪農めぐり


越後の豪農 市島家


 朝5時に目がさめた。テントをでてみると、川には靄がかかり、山にも霧がでている。白と黒だけのモノクロの世界で、水墨画のようだった。空は曇っている。雨は朝方まで残ったようだ。

 食事をつくり、雨でぬれたテントを苦労してパッキングして、6時には出発した。きょうは新発田と新潟をみてまわり、北陸道をつかって糸魚川を経由し、長野県の大町温泉郷にいく予定である。夜は久しぶりに会う友人たちと、温泉につかって宴会だ。

 左手に阿賀野川をみながら49号線を北上する。川の靄は消えていったが、山にかかる霧はそのままで、朝とおなじ水墨画の世界をすすんでいく。山をおりて新潟平野にでるころには、雲海から光がさしはじめ、モノクロの世界は鮮やかな色彩をおびはじめた。

 新発田には8時30分につき、新発田城址と旧藩主下屋敷の清水園を見てまわる。清水園は数寄屋風の書院に回遊式の庭のある、落ち着いた、品よくまとまった館だ。庭に面した座敷にすわり、池を配する庭園をながめ、しばし旅情にひたった。料金は隣接する足軽長屋と共通で550円。

 つづいては越後豪農めぐりである。肥沃な新潟平野が米どころなのにくわえて、新潟港を擁して貿易の要衝だったこの地は富があつまり、豪農が誕生する背景があった。また、江戸時代の領地替えで、この地に大名といっしょに移ってきた商人がおり、その商家は金融や貿易、新田開発など藩の経済発展に協力し、地域とともに繁栄してきた歴史もある。豪農というと自分だけ儲けていたようなイメージがあるが、それだけではないようだ。

 まず市島家をたずねた。受付で料金600円を支払い、記帳して邸内にはいって度肝をぬかれた。とにかく広い。湖月亭と名づけられた母屋も大きいが、庭も広大だ。新発田藩主下屋敷の清水園の倍はあろうかという規模である。パンフレットによると敷地八千坪、建坪六百坪とある。唖然とさせられる。

  この湖月亭は平成七年の地震の際に倒壊し、現在は失われてしまっているようだ。

 つづいて旧伊藤家の北方文化博物館にいく。こちらに来てさらに愕然としてしまった。敷地は八千坪と市島家とおなじだが、建物が広くて多い。建坪は千二百坪だそうで、市島家の倍である。豪農とはいうが、これほどの規模とは想像もつかない巨大さだった。

 北方文化博物館には絵画、彫刻、書など歴代当主のコレクションも展示されているが、書には西郷隆盛、伊藤博文、山形有朋、藤田東湖ら幕末維新の偉人たちの手のものがあり、それぞれが人柄をあらわす魅力にあふれていて、書には素人の私でも釘づけになった。気迫をかんじさせる藤田東湖と、颯爽とした西郷が心にのこる。ここも料金は600円。

 新潟市内を観光することにし、予想以上に大きな新潟駅をみて、万代橋をバックに写真をとった。その後は日本海を見ようと北上し、会津八一記念館のまえをとおって海岸にでる。夕日が美しいとのことだが、まだ昼時で想像するだけで我慢した。

 また豪農めぐりにもどろうとして走っていると、新潟護国神社の前にでたので参拝した。戯れにおみくじをひくと吉であった。

 護国神社をでて、大庄屋笹川家にむかう途中で小雨がふりだした。昼食をとってやりすごそうと考えたが、思惑通り食後には雨はあがっていた。今回のツーリングは毎度こうだ。弱い雨はふるのだがすぐにやんでしまい、それを何度もくりかえすので、そのうちあがるはずだという思い込みまで生じていた。

 笹川家は新潟の南の白根市にあり、やはりたいへんな広さである。しかし市島家と伊藤家にくらべれば小さく感じられる。ただ品という点では笹川家が一番だとおもう。笹川家では空は快晴となっており、邸内は蝉時雨にみたされていた。蝉の数はすさまじく、一本の大木に20〜30匹の油蝉がひしめいている。屋敷に大木が何本あるのかは見当もつかない。蝉の声が邸内に反響し、耳鳴りがしてくるほどである。料金は500円。

 笹川家をでたのは3時だった。もう一ヶ所どこかを見る余裕があろうと考え、豪農にも飽きたので、越後の国一ノ宮の弥彦神社に行くことにする。弥彦神社は一ノ宮だけあって壮麗だが、とくに見るものもなく、10分で参拝は終了した。

 恐怖の夜間走行 

 弥彦神社の駐車場でこれからのルートを検討する。時刻は4時。きょうの宿の夕食、即ち宴会のはじまるのは6時である。三条燕ICから高速にのって糸魚川にいき、148号線を南下すれば、少々遅刻の6時30分には宿につくだろうと軽く考えて出発した。しかしその甘い見通しは、高速にのった瞬間ふきとんだ。大町までの距離をしらべておかなかったのだが、漠然と120キロくらいだろうと思っていた。しかし高速にのってみると、糸魚川まで140キロと標示されている。これではとうてい6時30分につきそうにない。しかたなく6時になった段階で宿に連絡することにし、ただひたすら走ることにした。

 高速で10年まえのシルクロードではきつい。90キロで走るのがエンジンや振動の関係からベストだが、結果としてすべての車にぬかれながら走ることになった。横スレスレに抜いていく無茶なドライバーがいて肝を冷やす。タコメーターは6000回転をさしつづけている。北陸道は交通量が少ないせいか、一車線で対面通行になる場所もおおい。そういうときには車がつぎつぎに追いついてきてしまう。悪いと思うし、道をゆずりたいとも感じるのだが、路肩が狭くてそうもいかない。しかたなく速度を100キロにあげた。エンジン回転は6500をこえる。大丈夫だろうかと不安になってしまった。
 
  その後片側二車線に拡幅された。

 名立谷浜SAでむなしく6時をむかえた。宿に連絡し、ここからどのくらいかかるのか聞いてみると、ちょっと分かりかねますが、そうとうかかると思います、との返事。みずからまねいた失態ながら、ふてくされた気分になってきた。

 やっとのことで糸魚川について高速をおりると6時30分だった。大町まで75キロとでている。標識を殴りつけたい気分。宿は大町より10キロさきの山のなかなのだ。

 このさきでガス欠になど決してなりたくないから、糸魚川で給油した。料金をはらいセルボタンをおすと、エンジンがかからない。高速走行でヒートしてしまったようだ。何度もセルをまわし、微妙にアクセルを開け閉めしていると、やっとかかった。

 思わず、かかった、と言うと、となりで見ていた店員が、良かったですね、と応じる。そこには、ホッとしましたよ,お客さん、というニュアンスが含まれていて、気分が悪くなった。私の友はポンコツではないのである。いちいち相槌など打たなくてよろしい。 

 夕暮れの148号線を南下する。左手は昨夜来の雨で増水した姫川が濁流となってかけくだり、スノー・シェッドのかかる真っ暗な道をはしりつづける。路面は濡れていた。すぐに陽は暮れ、周囲は原始の闇につつまれる。交通量は極端にすくなく、前後をいく車もない。たまに対向車がくるだけだ。灯火のない、水滴のふってくるトンネルを何本もぬけていると、ふいに恐怖心が頭をもたげ、何度おさえつけてもわきあがってくる。闇のなかで何かがもがいているような錯覚まで覚えてきた。

 スキー場の点在する小谷村あたりまで南下すると、道は格段によくなり、交通量もふえた。トンネルもなくなって、ホッとしつつ前後を車にはさまれてはしる。

 闇の中にたたずむ仁科三湖をすぎるとようやく大町についた。ここから大町有料道路にはいる。当然ながら街灯などなく、交通量も皆無。ふたたび原始の闇である。しばらく恐怖とたたかって走っていたが、どうにもこうにも抑えがたくなってきた。恐くなってくると不安にもなるもので、宿の場所を確認したくなってくる。このさきにあるはずだが、本当にあるのか人にきいて、確実なものにしたくなったのだ。

 馬鹿馬鹿しいような話だが、このときは切実にそう感じた。それほどの闇の濃さだ。そこで通りすがりの会社の保養所に飛びこんで、管理人に聞いてみた。すると、たしかにこの先にある、と言う。このまま山をのぼり、左に赤い橋が見えたらそこにはいり、しばらくいくと長いトンネルがあるので、それをぬけた先にある、と親切に教えてくれた。ここから15分くらいですよ、と。ホッとした。

 ふたたび山をのぼりはじめた。真っ暗である。両側は林で頭上にも木がしげっている。ヘッドライトの明かりだけが頼りだが、時間がたまらなく長く感じられだした。もうだいぶ走ったはずなのに赤い橋も見えない。15分ということだったが、もう10分は走ったのではなかろうか。道は一本道だから迷うはずはない、しかし橋がない。ふたたび恐怖がわきあがる。アクセル開度も徐々に大きくなっていく。しかし標高が高いせいか、ヒート気味なのかアクセルのつきも悪い。

 まだか? このコーナーの先か? 見えた、やっと橋にでた。左折する。はいったのは有料道路からわかれる枝道である。さらに山は深く、闇は濃い。またしても時間が長く感じられる。いくら走ってもあるはずのトンネルが見えない。赤い橋に左折するまでに10分は走ったはずだから、5分もいけば宿につくはずだか゛、人家はもとより明かりさえ見えない。ほんとうにこんな山の中に温泉宿はあるのだろうか。合計してみるともう20分は走ったのではなかろうか。

  わきあがる不安と恐怖にたえてアクセルを開けていると、やっとトンネルが見えてきた。この長いトンネルをぬければよいのだ。肩の力がぬける。しかし、長い、トンネルだ。トンネルの中を走行しているのはもちろん私ひとり。出口までは遠い。徐々に不気味になってくる。トンネルでの怪異譚が頭をかすめ、ゾッとする。ミラーに何かがうつっているような気がしてきて、見てはいけないと思うのだが、つい見てしまった。無論ミラーには何もうつっていなかった。

 そうこうするうちにようやくトンネルをぬけた。すぐに宿があるはずだが、あるのは漆黒の世界のみ。光は見えない。コーナーを七つ、八つ、九つとぬける。まだない。不安が高じてくる。どうなっているんだ。まだか、このコーナーの先か。つぎの瞬間、明かりが見えた。ようやくたどりついたのだ。駐車場にすべりこみ、時計を見ると8時15分だった。

 虚脱感につつまれて荷をとき、宿にはいった。体は強張っていたが、こういうときこそ悠揚迫らぬ態度をとらねばならないと見栄をはり、奥に声をかける。出てきたのは若い女性で、部屋まで案内してくれたが、丁重に私のヘルメットまで持ってくれた。

 女性にみちびかれて部屋に通ると、宴会はたけなわだった。今回集まったのはヤマハTDM850にのる新潟のH氏、Z750GPの山梨のI氏、そしてナナハン・カタナにのる愛知のN氏に、私をくわえた4人である。大学のツーリング・クラブにはいっていた仲間だ。

 2時間もの遅参をわびていると料理が運びこまれ、追加の酒も用意された。あらためて乾杯し、ハイ・ピッチで酒を胃にながしこみ、メートルのあがった皆に追いつこうとする。口にした地酒はサラッとした辛口で、美味だった。銘は飲みすぎにより失念した。 

 ひとしきり飲んだ後で露天風呂にいってみた。雰囲気のよい岩風呂だった。

 風呂からあがっても話題はつきず、宴の夜は更けていった。途中で今回参加できなかった茨城の友人に電話をいれ、皆で交替に話しをした。翌日宿の請求書に記されていた電話代は4500円だった。だれだ、長話をしたのは、!、?、私だった?

  当時は携帯電話などなく、電話は部屋に備えつけの電話からフロントにかけ、そこから外線につないでもらった。若い人も読むかもしれないので念のため記す。

 
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