水死 大江健三郎 講談社 2009年 2000円+税

 複雑な構成で作り上げられた作者らしい作品。

 主人公は作者と思しき人物で、他の大江作品と同様、作者の妻、障害のある長男、娘、母と妹など、実在の人物と重なる人々が登場する。私小説の形をとった作品だが、もちろん現実のエッセンスを散りばめたフィクションだ。

 主人公は長年あたためていた父の死を扱った『水死小説』を書こうとして、四国の生家を訪れる。そこで自身の作品を演劇化している劇団員たちと交流し、彼らと演劇作品をつくってゆくが、その内容から地元の保守派と対立していくことになる。

 このストーリーはこれまで書かれてきた作品と重なる趣向のもので、織り込まれるその土地の一揆の伝承も、これまで何度も作品中に取り上げられたものだ。その過去の作品と関連付けられながら物語がすすむのも、先行作品と同じである。

 保守派の象徴とされるのは元文部省の高官である。作者は国の権威に挑戦し、貶めたいのだろうが、そこまでやることもないのにと感じる。そして事件は起こるのである。

 重要なテーマとなるのは強姦である。単なる強姦ではなく、戦争は人を殺し、強姦させる、国家は個人を殺害し、強姦する、と作者は言いたいのだろう。それ故元文部省の高官が登場しなければならないのだろう。テーマが強姦だけに読後感は悪い。人間の本質の迫るような内容でもない。ただ作者にしか書けないアカデミックな内容で、心に響く作品である。