9月22日 雪舟

 

 角島大橋にて

  

 ザーザーとテントを打つ強い雨の音で眼が覚めた。雨降りは嫌だなと思ってウトウトとしていると雨音は止み、横を流れる沢の音だけになる。しかし暫くするとまた雨がフライシートをたたきだし、その憂鬱な音に起こされたのだった。

 6時に起床した。雨だとやる気がでないが、テントの外にでてみると音のわりに大した降りではない。テントの中にいると雨風の音が大袈裟に聞こえることを思い出した。この弱い降雨ならば十分にツーリングを楽しむことができるので、急に貧乏性のせっかちのスイッチが入り、出発の準備を開始した。

 朝食のラーメンを食べて食器を洗いにゆくとまた野犬がいた。何か食べ物はもらえただろうかと気になるが、残念ながら今朝も犬に与えるものは持っていない。濡れたテントをまとめて出発する。キャンプ場でいちばんの出立だが、ほかのキャンパーは連泊するのか撤収しているグループはいなかった。

 弱い、降っていないがごとき雨の中を走ってゆく。もちろんカッパで完全防水しているから激しい雨でも問題はない。雨のおかげで気温が下がり、走っていてもとても涼しいから、まるで北海道を走行しているようだ。爽快なのだが、それよりも冷涼に近い感じだった。

 向かっていたのは昨夕たずねようとしていた楠の大木『クスの森』である。国道491号線から県道35号線とつないでゆくが、まわりは丘のような低山がつづき、そこに霧がかかっている。薄雲のような霧だが、それは弱い、降ってはいないがごとき霧雨なのかもしれない。そして山口・島根地方に独特の赤茶色をした瓦を屋根にのせている家が多い。オレンジに近い赤茶色の瓦は石州瓦と言うのだそうだがーーリンクしていただいている赤影さんのブログで知ったーーこの赤茶色の屋根の家がつづく田舎道を、日本の原風景のようだと思いながら走っていった。

 

 クスの森

 

 7時45分にクスの森の入口についた。バイクを県道にとめて歩いてゆくと、100メートルほどで広場があり、そこに楠の大木がたっていた。楠は大きい! 眼を見張るほどの巨大さだ。1本の木なのに森のように見えるから『クスの森』と呼ばれているそうだ。楠を見上げながらまわりを一周するが、正に森のごとき巨木だった。

 楠の広場には軽バンで旅をしている若いカップルの先客がいた。ここは車を乗り入れることもできるのだ。そしてここにはトイレがあるから、若いふたりはここでPキャンをしたのかなと思う。近くには民家があるが、静かにすればゲリラ・キャンプも可能だから。

 

 響灘沿いをゆく

 

 クスの森を出発し、海岸線の国道191号線にでて、響灘沿いに北上してゆく。響灘はとてもよい名前だと思う。詩的だし想像力を刺激される。2003年のPキャンの旅でここに来たときから、響灘という名と辺境の寂しい海峡がとても気に入ったのだ。

 響灘と霧のかかる低山、赤茶色の屋根の家々を見ながら走る。雲は薄くなってきたが相変わらず涼しくて気持ちがよい。沖には島影が見える。天候のせいで遠くは霞んでいるが、物悲しい雰囲気の海沿いの街道をゆくのが、旅の空のしたの私の心情にぴったりと合っていた。

 国道191号線から県道275号線に入って角島にむかう。角島には角島大橋という優美な橋がかかっていて、その橋と周辺の美しい海を見たいと思っていたのだ。2003年のPキャンの旅でもここを訪れていて、再訪したいと思ってやってきたのだが、角島の印象は悪かったから、身構えての訪問でもあった。前回角島に来たのは角島大橋ができたばかりのころで、人馴れしていない島民と観光客や釣人がトラブルになったようで、島中がピリピリと神経質に張りつめているような状況だった。美しい角島大橋をわたって島に入ってゆくと、眼につくのは駐車禁止、釣り禁止、〇〇禁止、××厳禁と、禁止の看板ばかりで、見ていて呆れるほどだった。あまりにも禁止の看板と自分たちで勝手に作ったルールが書いてあるので、こんなに息苦しいところはご免だと、早々に島を出たのだ。そんな思い出のある角島だった。

 

 角島大橋と角島

  

 角島大橋には8時30分についた。朝早い時間にもかかわらず観光客が何人もいて、角島大橋を見たり写真をとったりしている。私はバイクの特権で橋の入口に駐車して写真をとった。角島大橋はあらためて見ても上品で優雅な橋だと思う。そもそも機能的な橋やダイナミックな橋、未来的な橋はたくさんあるが、芸術的な美しさをそなえた橋はほかにはないのではなかろうか。まっすぐに下っていった橋が左にカーブしてゆく姿と、橋を構成するなよやかな曲線が、この橋の美しさのポイントだと思う。そして周囲の海の透明度も高く、空は暗いのに海はあざやかなブルーなのだ。

 禁止の看板だらけだった島はどうなったのか。変わったのか、それともあのままなのか。見に行ってみることにする。橋をわたって島に入ってゆくと、あちこちにあった禁止看板は1枚もなくなっていた。以前にはなかった道の駅ができているが、まだ時間が早くて営業していない。とりあえず灯台に行ってみることにしたが、着いてみると灯台の駐車場は以前と同じく有料だが、その周辺に路上駐車できないように有刺鉄線を張りめぐらせてあったのと、路上駐車禁止のたくさんの看板はなくなっていて、観光客は当然のように路上駐車をしている。前回来たときには余所者の振る舞いに過剰に反応していた島民もそれに慣れ、観光客が落とす金のこともわかって、良識的な普通の島になったようだ。

 有料の駐車場はもちろん使わず、路上駐車して灯台の写真をとり、案内のでていた漁協の直売所にいってみることにする。時間はまだ8時50分だが、朝市という言葉があったので、灯台の南にある港に言ってみると直売所は営業していた。

 直売所では京都ナンバーの車の家族がブリやアジ、イカなどを買っていたが、ここはイカが名物のようだ。生簀がならんでいるので珍しいものはないかと見てみると、石鯛が眼につくが、それよりもアワビがある。これをみやげに発送することにしていろいろと聞いてみると、アワビには黒アワビと赤アワビがあり、黒のほうが高いが、赤のほうが大きいとのこと。そこで黒アワビと特大の赤アワビをセットにして2個で7000円の品を、2件都内に送ってもらうことにした。送料は1件1260円なので、1件8260円となり、2件で16520円のところを16500円にしてくれた。

 特大赤アワビが4500円で黒アワビは2500円だからものすごく安いと思う。安いね、と言うと漁協の若い男性は、アワビは海のダイヤなんて言われているけど、子供のころから自分で海で獲っている者としては、こんなに高い金をだして買うものじゃないと思ってる、とじつに素朴な返事がかえってきた。それでも高く売れるのは嬉しいが、とも。もうひとりいた年配の方は訛りが強いのと歯がないのとで、何を言っているのかわからない。しかしこれだけ純朴だから、橋ができたばかりのころは過剰反応をしてしまったのだろう。いずれにしてもこの直売所は新鮮で格安である。

 アワビは明日の夕刻には届くそうだ。高速が大渋滞しているからいつもよりは遅れるそうだが、明日の夕方にはつくとのこと。実の母と義理の母のふたりの母に電話をいれて、明日の夜には配達されるはずだと伝えて出発した。

 

 角島から本州をのぞむ 不穏な天候だ

 

 角島の手前で雨はあがっていた。そこでカッパの上衣は角島灯台でとり、ザックカバーは漁協ではずして身軽になっていた。しかし国道191号線で東にむかうとまた雨が落ちてくる。しばらく我慢して走っていたが、止まないのでまた雨具を着た。

 10時すぎに長門に入った。セブンイレブンがあったのでゴミを捨てさせてもらい、明日の朝食用にうまかっちゃんのトンコツ味の袋ラーメンを95円で買った。長門市街を通過して次の目的地の青海島にむかう。童謡詩人の金子みすず記念館で有名な仙崎に入ってゆくと、チェックしておいたウニ釜飯で有名な浜屋という店と、ウニ飯が評判の喜楽という料理店がならんでいるのを確認した。青海島を見た帰りにどちらかの店で食事をとろうと思って先へすすんだ。

 金子みすず記念館につづく路地の入口には観光客があつまっているが、2003年のPキャンの旅で見学しているから立ち寄らない。山口から山陰はこのPキャンの旅で行くことのできなかったところをまわろうとしているのである。

 みすずの詩にでてくる王子山公園を横目で見ながら青海島にすすんでゆくと、紫津浦という内海のようにおだやかな湾にでた。ここはとても広やかな気持ちのよいところなので、バイクをとめて写真をとるが、釣人が多いからよい魚が釣れるのだろう。

 くじら資料館と鯨墓があると案内がでているから、そこを目的地にしてすすんでゆく。青海島は海上アルプスという奇岩がある景勝地がいちばんの名所なので、そこを過ぎるとさびれてしまう。鄙びたムードの狭い道をゆくとくじら資料館に到着した。ここは駐車場が狭いのですでに満車だ。バイクを路上駐車して鯨墓を見にゆくが、大きな鯨をどうやって埋葬するのかと思ったら、小さな墓があるばかりだ。こんなところに鯨を葬れるのかと疑問に思いつつ、くじら資料館に入った。

 資料館の入館料は200円だ。ここに入ってわかったのだが、鯨墓に葬られているのは鯨の胎児なのだった。母鯨とともに命を落とした胎児に心を痛めた僧が、胎児を埋葬したのがはじまりとのこと。たしかに生まれることなく死んだ胎児は不憫だから、その心情がわかる。その後、漁師たちも胎児を懇ろに葬るようになったのだそうだ。

 

 古式捕鯨の図

 

 資料館は古式捕鯨の紹介、展示が主で、そのすさまじさに眼をうばわれてしまった。昔の人は集団で鯨を追い込み、ヤリやモリを体当たりで鯨に打ち込んで、命がけで屠ってきたのだ。使われた刃物の大きさと鋭さ、そしてなによりそれを鯨に打ち込むようすなど、ここは一見の価値がある資料館だと思う。

 資料館をでて仙崎にもどってゆくが、車がたくさん止まっているところが気になる。ここが前述の海上アルプスの入口で、奇岩がならぶ海岸をながめることのできる700メートルと1400メートルの探勝路があるそうだが、カッパを着込んでいるし、ブーツカバーまで装着しているから、歩くのはムリなので行かなかった。

 仙崎の町にもどり、浜屋と喜楽が見えてくると、なんと両店とも行列ができていた。時間は11時30分の少し前で、両店とも11時30分のオープンなのだ。これは私も遅れてはならじと、両店の店頭にあるメニューを見て、浜屋はウニ釜飯だけで、喜楽は海鮮丼などの料理・定食が豊富にあり、喜楽のほうが料金設定が高いためか行列が浜屋の3分の1なので、喜楽で食事をすることにした。

 喜楽の受付に名前を書くと12グループ目だった。あらためてメニューを見直していると11時30分となり、客が店に案内されだす。私くらいまではすぐに入店できるだろうと思ったのだが、席に通されたのは5分後だった。席に余裕があるのに客を入れないのは、さばききれないからで、店員がバタついているのがわかる。そこで席に案内されると同時に、ふぐづくし御膳2100円を注文した。私よりも先に席についた人たちはまだメニューを見ていて、なかなか注文を聞いてもらえないから、作戦は成功だった。ところで、メニューによるとふぐは天然物だということなので、天然のふぐを食べられる機会は滅多にないから、ウニなどの海鮮丼や刺身定食ではなくて、ふぐづくし御膳にしたのである。

 座ったのはカウンター席だったので板場がよく見えた。喜楽は大きな店で板さんが5人もいて、それぞれ刺身を切ったり、焼いたり、煮たり、揚げたりと、役割分担をして調理をしているが、注文が一気に入っているからたいへんな熱気だ。板場の中央にいる店主らしき花板が注文を仕切り、客にも声をかけている。女性2人、アルバイト5人のお運びさんもいて、それらの人がフル回転していた。

 

 ふぐづくし御膳

 

 店は満席となり注文も次々と入っていたが、料理を作るのはじつに手際がよかった。私のふぐづくし御膳は10分ほどで出てきたほどだ。ふぐの刺身がたたきになっているのを見て、鮮度の落ちたものをたたきに加工したのかと邪推して、少し落胆したが、量はたっぷりとあった。ガバッと刺身を3・4切れとって皮といっしょに食べてみると、久々にふぐの味が口の中にひろがる。弾力のある刺身だ。ふぐの味を語れるほど何度も食べているわけではないが、旨味のある刺身だった。唐揚げも美味しいから、ここは鮮度のよい魚をたださばいて出すだけの素朴な店ではなくて、日本料理の技術のある店だった。

 隣りの人が頼んでいたこの店の名物『朝獲れイカづくし御膳』のイカは、さばかれても足を動かしている。イカは胴だけを刺身にされて、エンペラとゲソは天ぷらか刺身、フライのいずれかにしてもらえるとのこと。客はどれにしてもらおうかと嬉しそうに悩んでいるから、上手い演出だと思う。喜楽は民宿と回転寿司店も経営している商売上手な店である。

 ところで天然ふぐを食べようとするとコースで2万円ほどする。それが品数とボリュームの落ちるランチとはいえ、この値段で食べられるだろうかと思ってしまった。だとしたらこれはトラフグではなくて、ショウサイフグではないのかと。そこで支払いのときに女性に聞いてみると、トラフグです、とのことだった。

 12時に喜楽をでた。11時35分に入ったのだからじつに速かった。店の外では客が行列をしているので、人ごみをかきわけてバイクまで歩き、再び海岸線の国道191号線を東にむかう。次は益田が目的地だが、今日は松江か境港あたりまですすみたいと、この時点では考えていた。

 仙崎では晴れていたが、走りだすとまた空模様はおかしくなり、雨が落ちてきた。喜楽でカッパを脱いでいたので我慢してゆくが、萩の手前で対向車がびしょ濡れであることに気づく。嫌な感じである。それでもそのまま萩市街に入ろうとすると、雨足は強まり、たまらずに雨具をつけた。そして萩市内に入ってゆくと土砂降りの雨だ。さすがに激しい雨降りだと辛い。この強烈な降雨は萩をでると弱まり、一時止んだりしたが、また断続的に本降りとなる。−−沛然たる雨の中をゆく、などと考えてみるが、現実がきびしくて文学的な修辞ではごまかせない。空も暗澹たる色をしている。その黒い空を見上げて、なんとかして下さい、と祈ってみると次第に大降りはおさまり、弱い雨となってくれた。雨は止まなくとも、弱い降りならば十分にありがたいと思ってすすんでゆく山陰路だった。

 目的地の益田に近づくと雨はあがった。しかしまたいつ降るのかわからないから雨具はつけたままでゆく。益田には禅僧の雪舟がつくった庭を見にきたのである。雪舟は室町時代の禅僧・画僧で明にも渡った人だ。帰国後は大分や益田に住んでたくさんの作品をのこしている。今回は雪舟が益田に作ったふたつの庭園のうちのひとつ、医光寺と屏風図などがあるという益田市の施設『雪舟の郷記念館』を見学したいと思っていた。

 益田市街に入ってゆくが雪舟庭園の案内がでていない。国道を手探りですすんでゆくと、訪ねる予定のなかった万福寺の看板がでていたので、まずここの庭園を見学することにした。万福寺は益田の町外れの益田川のほとりにあった。庭を鑑賞するには寺に上がらなければならないが、上下カッパ姿でブーツカバーまでつけているから面倒だ。雨具の裾をまくりあげてブーツカバーをはずし、編み上げのゴツイ靴を脱いで万福寺にあがった。

 受付で500円の拝観料を年配の女性に手渡すと、饒舌に雪舟と庭について語りだす。曰く、雪舟の庭は今から500年前の戦国時代に作られたもので、その時代は生きることが非常に困難な時期だったから、庭も江戸時代に趣味で作成されたものとはまったく別の次元のものである、−−雪舟の庭園は生きることがたいへんな時代に、人々が希求した世界観、極楽浄土や不老不死、または仏の世界をあらわしたものである。

 こういう話題は私の好むところである。そこで人間の精神が希求するものについて私見を述べ、仏教的な考えではどうなるのだろうかと質問すると、女性の饒舌は止まらなくなってしまい、失敗した。しかしお寺の方の話の腰を折るわけにはいかないので、しばし我慢し、いや拝聴し、しかる後に開放してもらった、いや勉強を終えた。

 

 万福寺の庭園

 

 寺の奥の庭を見にゆく。池を前にして芝を張られた庭は、低い山と沢が配されて、そこに岩石が散りばめられている。一見した印象はとても単純で、こんなものなのか?、というもの。複雑なものを見すぎてしまっている私としては、物足りなく思えるが、ここでさっきの女性の言葉を思い出した。江戸時代の趣味で作った庭園ではなく、生きることが困難な時代に、人々が求めたものを庭に仮託して、表現したということを。

 万福寺の庭は仏教世界の想像の山、須弥山をあらわしたものなのだそうだ。座って庭をながめていると、はじめは平板・単調で凝縮感がないと思えたものが、見ているほどにしみじみとよくなってくる。山と池と石だけの簡素な配置がしだいに重みを増してくるのだ。特に須弥山から池へと下ってゆく流れるような岩の配りが好もしかった。

 庭を見ているとまた雨が落ちてきて池に波紋をつくる。しかしそれもやがておさまった。万福寺は歴史のあるお寺で本堂は重要文化財なのだそうだ。そして幕末の第二次長州戦争の際には、益田川をはさんで幕府軍と大村益次郎の指揮する長州軍が戦い、長州が勝利した地だと説明がある。その時の砲弾の跡が寺に残っているそうだ。長州戦争の本も昔読んだが、それがこの地とは思いもよらぬことで感慨を深くする。その司馬遼太郎の本も読み返してみようかと考えるが、足元を診ると雨天走行で靴下が濡れていて、板の間に足跡がついている。これはカッコ悪いので頭に血がのぼる。取り急ぎ万福寺を出ることにして受付にもどると、年配の女性がさっき私に言ったことと同じことを次の客に語っているのだった。

 

 医光寺の山門

 

 つづいて雪舟の郷記念館に行こうとすると医光寺にでた。門がすごい。寺の正面に古くて巨大な門がたち、この寺には歴史と格式があるのだと強烈に主張している。門は高さ4メートル、幅4.5メートルもあり、島根県の有形文化財なのだそうだ。城の大手門を移築したものだとパンフレットにある。その門の横をとおって本堂に歩いてゆく。医光寺でもブーツカバーをとり、頑丈なライディング・ブーツを脱いで500円の拝観料を払って寺にあがった。受付はここも年配の女性だが、こちらは小さな孫と遊ぶのに夢中の微笑ましいばあちゃんだった。

 

 医光寺の庭

 

 医光寺の庭は万福寺のものよりも凝縮感があった。鶴の形をした池に亀の姿の島が浮かんでいる構図だが、不老長寿を表現したものなのだろう。島の上部からは枯滝が配されている。この枯滝の配置がよかった。

 庭を見ていると気温が上がり汗をかく。庭を十分に堪能した後で寺の奥の間にすすんでみると、異形の、妖怪のような姿の像がたくさんならんでいる部屋があった。像は古いもので彩色がはげており、それが奇怪な像の不気味さをいや増している。しばし像をながめたが、あまりにすさまじい姿なので写真はとらなかった。

 またライディング・ブーツをはきブーツカバーも装着して出発する。次こそ雪舟の郷記念館に行くつもりだが、何度も行きそこねているので地図で方向を見定めてから走りだす。気温は22℃、23℃と表示されている。雪舟の郷記念館は市街地からはずれた地域の、国道から住宅街に入ったところにあるからわかりにくい。ようやく着いてみると立派な建物だった。

 ここも靴を脱がなければならない。またブーツカバーをはずしてブーツをとり、500円の料金を払って入館した。受付に市の職員らしき男女がふたりいるが、見学者は誰もいない館内に入ってみると、雪舟の絵は三幅のみで、ほかの展示作品は雪舟の絵の模写のそのまた模写はよいほうで、雪舟の流れをくむという人たちの作品ばかりだ。それどころか展示スペースを埋めるためだけに置かれているものも散見される。私は雪舟の作品が見られると思ってここに来て500円を払ったのだ。雪舟の絵が三幅しかないのなら入館しなかったから、詐欺にあったような気分だである。誠に不満で面白くないので、入口にあったアンケートにこの内容で500円は高すぎる。見る価値はないと記しておいた。ーー雪舟の絵は何点も集めることはできないほど高価で貴重であると、後になって知った。不見識であった。

 またしてもブーツカバーをつけて記念館をでた。駐車場でこれからのことを思案する。明日は自宅に帰る予定だが、昨年米子から帰宅した折には10時間はかかったと記憶する。それが来たときのような大渋滞ならば12時間以上はかかるのではなかろうか。しかもここから米子まではまだかなりの距離があるから、帰宅が夜になってしまうかもしれず、そうなったら明後日の仕事に支障をきたす。

 時刻は15時30分だった。明日は朝一番で帰りださないとならないから、中国道のICの近くに幕営するのが便利だし、効率的だ。益田から国道191号線で島根・広島県境にすすむと、聖湖キャンプ場という無料のキャンプ場がある。ここは中国道の戸河内ICに近いから、ここに野営しようかと考える。ここから1時間ほどの距離である。

 一方でまだ時間は早いから、海岸線を松江方向にすすみ、前から泊まってみたいと思っていた浜田市の石見海浜公園でキャンプしたいとも思う。ここも無料のキャンプ場だが、以前バイク誌に紹介されているのを読んで、利用したいと考えていたのだ。浜田の先の江津にも雪舟の庭があると地図にでているから、まだ帰ることなど考えずに、山陰路の放浪をつづけ、雪舟を求めてゆくのもよかろうと思ったのである。

 結論は当然の帰結をむかえた。そう、こんなところまで眼を通してくださっているあなたの思ったとおり、貧乏性の私としては、まだ日常にもどることは考えずに、非日常の山陰の海岸線をさすらってゆくことにしたのである。

 

 海岸沿いにて

 

 海岸線を走ってゆくと晴れてきた。とても気分がよい。もっと、ずっと走り続けていたい気持ちだ。すすんでゆくと国道の横を線路が走っているところにでた。古くて小さな駅舎があり、海沿いに集落があってノスタルジックな光景だ。海と駅と寒村のたたずまいに惹かれて、バイクをとめて風景に見入った。

 浜辺とまばらな人家のならびとここに住む人々をながめる。地元の方はこちらを見ようともせずに自分の生活を続けている。遠くまでやってきた。ここで私は余所者の異邦人だ。地元の人には胡乱な人間に見えているのかもしれない。しかし明日は私も自分の住む世界に帰るのだ。でもまだいつもとは違う放浪者でいたい。生真面目な社会人ではなく、ロマンチストの旅人として、旅の最後まで感傷的な気持ちでいたいのだ。

 

 浜田マリーン大橋

 

 浜田の町に入ってゆくと印象的な橋が見えてきた。吊橋かと思って近くにいってみると、浜田マリーン大橋という橋だ。浜田マリーン大橋は角島大橋のように優美ではなく、合理的で無機的なデザインだが、それでも魅力的だ。この橋の写真を渡る前と渡った先、そして近くの魚市場から撮影した。

 そろそろキャンプ場にむかう時刻となった。習慣にしたがってガスを満タンにすることにし、セルフの格安スタンドを目ざとく見つけて給油をする。23.6K/L。夕食の食材を買いたいと思っていると『ゆめタウン』というスーパーがある。ここで珍しいノドグロ(赤むつ)の刺身880円とボイルしたエビ398円を手に入れた。

 浜田市街をでて石見海浜公園にむかうと、私の地図にはのっていない有料道路が松江方向に伸びている。どこまで通じているのだろうかと思ったが、後で調べてみると浜田から江津まで開通していて、松江まではまだとどいていなかった。

 その有料道路は使うまでもないので、国道9号線をすすむとすぐに石見海浜公園に到着した。ここは広大な公園だが人や車が少なくて、どこがキャンプ場なのかわからない。ウロウロと見てまわるとオート・キャンプ場の入口はあるが、ゲートが閉まっている。ここかと思うがどうやって入るのかわからないので、管理棟でたずねてみると、オート・キャンプ場は有料だそうで、無料のキャンプ場は別の場所にあるとのこと。無料キャンプ場は車・バイクの乗り入れはできず、荷物を持って歩かなければならないとのことだが、職員の方が地図を示して丁寧に教えてくれた。

 無料でも宿泊手続きはしなくてはならない。住所・氏名を記入して、ついでに近くに風呂はないかとたずねると、国民宿舎を紹介してくれた。その国民宿舎までの地図もいただいて管理棟をでた。

 無料のキャンプ場はオート・キャンプ場よりも浜田よりにあった。その駐車場に入ってゆくと、いかにもキャンプ・ツーリングをしているという風情のホンダCB1300がおいてあり、ナンバーを見ると都内ナンバーだ。その隣りにバイクをとめて、テントとシュラフの入ったダッフルバックを手に提げ、海岸方向のキャンプ場に歩いていった。

 キャンプ場までは距離があった。バックが重いから手が痛くなってしまう。まずバンガローがあらわれて、その先にキャンプ場がある。ここに私と同年輩のCB1300氏と長期滞在をしている感じのキャンパーがいたが、ここはテントを張るスペースがあまりないし、先に入っている人たちが閉鎖的で排他的なムードをただよわせているので、左手の奥、浜田市方向にすすむと、こちらに芝生の広場がひろがっていたので、ここにテントを設営することにした。

 私がテントをたてた先では外人の家族もキャンプの用意をしていた。白人の親子4人だが、子供は20以上の男女だから、親は私と同年くらいだろうか。もしくは少し上か。彼らはとてもフレンドリーで、今夜はどうぞよろしく、と挨拶をしあった。彼らは犬も連れてきていたが、山口から来て連泊するのだそうだ。私は明日一気に帰る予定であることや、これまでのコースを話したりした。彼らの奥には日本人のキャンパーもいたのだが、彼らはデイ・キャンプだったようでいつの間にかいなくなってしまった。

 いちばん奥のサイトに幕営したので、バイクも駐車場の隅にうつした。駐車場からテントまでは300メートルほどだが重い荷物を持って歩くのは辛い。とくにリヤ・ボックスが重いのだ。汗をかいて3往復して荷をはこび、野営の準備が終わったのは18時10分だった。

 まず風呂に行くことにして、近くの国民宿舎の千畳苑にゆく。350円と格安の料金で4階にある展望風呂につかり汗をながした。暮れてしまって風景は見えなかったが、昼ならば眼下に海が一望できる絶景風呂のようだ。

 入浴してサッパリし、服も清潔なものに着替え、心地よい気持ちでキャンプ場にもどってゆく。途中のローソンでのどごし生500mlを197円で買い、19時に石見海浜公園にもどった。駐車場にはPキャンをしようとしている車が3台きていた。ここはトイレはあるし、公園の入口の門が閉まることはないそうだから、Pキャンにも最適の地である。

 駐車場にバイクをとめてテントに歩いてゆく。その道は外灯のない真っ暗なたどりだ。懐中電灯を持って来れば良かったと思いつつ、暗闇におびえてすすんでゆくと、キャンプ場の外灯が見えてきた。キャンプ場は外灯のおかげで明るいのである。

 さて夕食の準備だ。外人のファミリーのテントとの中間地点にある炊事場で、蕎麦を茹でるために水をくんでいると、外人の家族の息子がやってきて、今から食事ですか?、と聞く。そうなんですよ、と答えると、よかったら、これから焼肉をしますから、いっしょにどうですか、と誘ってくれた。意外な申し出にびっくりして彼を見ると、彼の背後には父親が立っていて、私を誘う息子を見守っているのだ。その父親も、全身で私を歓迎してくれていた。

 自分で用意したものがあるからと、丁寧に辞退したが、彼らはそれほど肉を持っていなくて、私が加わったら足りなくなるのは歴然としていたが、それでも隣人を食事に誘うのが彼らの流儀であり、しなければならないことなのだろう。

 

 ノドグロとエビ、そして蕎麦の夕食

 

 彼らが焼肉をはじめたこちら側では、ノドグロの刺身とボイルしたエビでのどごし生をグビグビとやる。ボイル・エビが美味い。これは大ヒットだった。エビは頭をむしりとって味噌を吸い、殻と足をはずしてプリプリの身をガブリとかじる。塩加減がちょうどよく、後味がほんのり甘い。ノドグロは上品な白身で、淡白だがかすかに脂があまくにじむ。これはほかの魚では味わえない味覚だった。

 エビがたくさんあるのに蕎麦を150グラムも茹でてしまった。ノドグロとエビだけで腹がいっぱいになったのだが、それでも蕎麦も平らげてしまう。外人さんたちは肉と野菜はそれしか食べないの?、と思うほど少しだったが、その後で巨大なスナック菓子をとりだした。日本のポテトチップの3倍はあろうかというスナック菓子だが、それをひとりで1袋ずつ食べている。これにはびっくりしたが、いくらなんでもこれはカロリーオーバーだよと、彼らの体型を見て思った。

 食後はテントに入って今日のメモをつける。焼酎を飲みながら20時から21時すぎまでペンを走らせてテントの外にでてみると、外人さんたちは家族でカードゲームをしていた。4人とも酒は飲んでいない。たぶん飲酒は悪癖であると嫌っているのだろう。国民性の違いを感じてしまったが、彼らもテントの中でひとり無言ですごしている私が奇異に見えるらしく、こちらを見つめているから、ラジオを低くつけておいた。

 メモが終わるといつも急速に眠くなってしまうのだが、今夜はテントの天井や壁、横においてあるいつもの配置の荷物などをながめてすごす。最後の野営の夜を噛みしめていたのだ。

                                                            276.3キロ