駅前旅館 井伏鱒二 新潮社 昭和33年

 久しぶりに井伏の小説が読みたくなった。正統派の丁寧に書かれた日本語の本に触れたくなったのだ。そこで読んだことのない、駅前旅館にしようと決めて図書館にでかけた。

 図書館にいってみて驚き、時代は変わったと感じたが、書架に井伏の本は一冊もない。書庫にはあるだろうと思い、さがしてもらうと全集はあるが、駅前旅館がはいっている巻だけ失われていると言う。ほかの図書館に在庫があったので取り寄せてもらったが、昭和33年の古い本で、旧漢字版である。よくぞこの本が残っていたものだと感心したが、今、井伏を読む人はあまりいないようだ。この本は何年ぶりに人の手に触れたのだろうか。

 駅前旅館といっても小さな宿ではない。戦後すぐの話なので、まだホテルのなかった時代の、修学旅行の中高生が団体でとまる、上野駅前にある大旅館という設定である。ここの番頭が主人公で、今ならさしづめホテルの支配人であろう。

 この番頭の一人語りで物語はすすむ。特に事件はおこらないのが井伏らしいところ。番頭の独白で旅館業の日常や裏表が紹介されるので、ドキュメントのような面白さがある。戦後の頃の風俗も興味深いものだ。絽の羽織の値段などもでてくる。それだけでは彩りにかけるので、独身の主人公と他人の囲いものの女や、居酒屋の女将との恋路が織り込んである。

 一貫して番頭の語り調子になっているが、一ヶ所だけ番頭が井伏にむかって語りかけているところがある。どんどん一人で話せとおっしゃるのでそうしていますが、こんなつまらないものを申し上げてよろしいのでしょうか、と。これは実に井伏らしい一節で、この作品は自分の創作ではなく、人から聞いた話をまとめたものだと、わざわざ示しているのである。

 一読者の私はそこまで潔癖に創作と区別しなくともよいと思うし、人から取材してつくったものでも立派な創作だと思うのだが、そこが井伏のこだわりなのだろう。なにしろノーベル文学賞ものの『黒い雨』さえ取材して書いたものだから、創作ではないと言っているほどだ。事実をただ書いても作品にはならないし、人の心を打つことはできない。作者の力量なくしては、水準の高いものは生みだされはしないの自明だと思うのだが。

 物語は唐突の終わる。井伏らしく主人公は屈託して、余韻もなく途切れてしまう。この物語では最善のラストか。

 ところで先輩方は私の読んでいる本を見ては、昔の映画のやつだな、と何人もが言う。森繁が番頭役で映画化されたそうで、そちらも一度見てみたい。

 枯れた作風である。日本語と小説技術を知り尽くした作者の力量をいかんなく発揮しているが、若い人には味わいがわからないだろう。

 

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