男は駅の入口にしばらく立っていたが、しかたねえな、と呟くとベンチにすわり僕に話しかけてきた。
「兄ちゃん、これからどこかに行くのか?」
「いえ、僕は旅行者で、この町を見物しています」
「見るものなんて、ねえだろう」 と言うと男はふらついて、「どこから来たんだ?」
「東京からです。自転車でサイクリングをしていて、海岸でキャンプしています」
「自転車でか、若い者は元気だな、そうか、東京からか、そりゃあ大したもんだ」

 男の瞳はにごっていて呂律もあやしかった。酒に酔っているのがわかったが、僕は人と話すことができて嬉しかった。ゴースト・タウンのような町をぬけ、雨のなかをひとりで海岸までもどって眠るのかと思うと憂鬱だったから。僕は男のとなりのベンチに腰をおろすと言った。
「まだ七時前なのに、誰もいませんね」
「ああ、皆朝が早いからな」
「それにしても、人っ子ひとりいないなんて」
 男はそれには答えず、そのうちバスが来るはずだからそれまでここで待つ、と言った。僕は口にこそださなかったがそれまでこの男につきあおうと思った。僕はきょうも昨日もおおぜいの人と話をしたが、それはわずかな時間でしかなかった。相手は自転車で旅をしている者か、オートバイでツーリング中の青者か、山登りの途中の学生といった僕と似たようなことをしている人達で、彼らとは旧知の友人のようにすぐに打ち解けあえたのだが、大したことを喋ったわけではない。旅行中で快活になった僕は会話に飢えていた。ふだんは人を避けているというのに。

 男はもともと話し好きなのか、酔っているのか、それとも明日になればいなくなってしまう余所者だと思って気をゆるしたのか、ひとりで喋りだした。

 きょうは息子の家に行ってきた。電車ですこしいったところにある大きな街だ。息子に呼ばれて嫁の手料理をご馳走になった。たいへんなもてなしようだった。料理は美味かったし、酒を飲んで酔っちまった。いい気分だ。自慢の息子なんだ。俺は幸せだ。

 僕は男の言うことに興味をひかれた。男のかたったことは僕の知識や経験になかったことでめずらしかったし、教師以外にこんなに喋る大人の男を見たことがなかったから。父はもともと無口だが、僕が眼をあわせないようになってからほとんど会話がなくなり、兄は僕と話そうとはしない。同級生にはもっとおしゃべりな者もいるが、彼らの言うことはあまりにも幼稚で、下らなくて、僕は相手にしないことに決めていた。

 男は僕がうなづいて聞いているのを見るとさらに饒舌になっていった。息子が自慢でならないという口ぶりだ。父は、僕のことを他人に自慢したことなどなかった。兄のことを吹聴したこともなかったが。僕はふだん父と会話らしい会話をしないが、父は僕に失望しているし、期待もなくしているし、愛情もうしないつつあるのだと思っている。男はひとりで話しつづけていた。

 よくできた倅だ。自慢の息子なんだ。なんといったって稼ぎかいい。堅い仕事についていて、けっこうな給料をとっている。自分は年をとっているし、眼も悪いのでもう駄目だが、あの息子がついているから、安泰だ。

「眼が悪いのですか?」と僕はたずねた。
「ああ、片方なんてろくに見えやしねえ。もう俺は仕事ができねえんだ」 男は僕のことをじっと見ると、「でも、息子がついているから、心配ねえ」

 僕は親子がそんなに仲がよいのはうらやましいと言った。僕なんて父が何を考えているのかまったくわからないし、父もそう思っているはずで、ふだんから会話しませんから、と。父とは永遠にわかりあえないのではないかと思っています、と。

 男は、息子は自分を大切にしてくれるし、きょうもご馳走になった、息子は成功したんだ、これからもどんどん稼げる、帰り際には金もくれたんだ、と答えた。

 父は公務員だ。毎日決まった時間に仕事にでかけ、デスクワークをしておなじ時刻に帰宅する。二着のスーツと二足の靴を一日ごとにとりかえて仕事にいく。家にいるときはいつもしかつめらしい顔をして新聞を読むか、テレビのまえで横になっている。僕が父とかわすのは小さいころからの習慣になっている、お早うございますと、お休みなさいの挨拶くらいだ。そのくせ母には僕のことをいろいろと話すらしく、それはすべて僕への不満なのだった。内容は真剣に人生と取り組んでいないとか、前向きではないとか、燃焼感のあるような勉強の仕方をしていないとかいう、わかったようなわからないような話で、そういう傾向はたしかに僕にはあるのかもしれないが、母がそれを口にするたびに僕は、うるさい、と怒鳴ってしまう。しかし無言の父には言いようのない圧迫感をおぼえてしまい、何も言えないのだった。

 ふと、あの娘のことを思い出して胸が切なくなった。同級生でとなりの席にすわっているあの娘。すらりとした後ろ姿と、さみしそうな睫毛、あまい匂い…‥。

 ああ、と男は大声をあげると両手を膝につき、バスはおせえなあ、と言う。僕は現実にひきもどされ、ほんとうに、と答えた。電車が去ってから三十分はたつというのに、男と駅員以外だれも姿を見せない。バスどころか通りをはしる車もなかった。駅前の家々はにぶい光でカーテンや窓ガラスを照らしていたが、まるで年老いて動けなくなってしまった犬のように、生気なくたたずんでいた。

 僕は金をもらうときだけ母に愛想よくする。この旅行の費用も母にだしてもらっていた。母は僕がふだんどんなに乱暴な口をたたいていても、真剣な表情で旅にでたいと話すと、かならず旅費をだしてくれる。父も僕にはなにも言わないが、行かせてやれと母に言っているようだ。母は父とおなじように毎日六時間パートで働いている。

 兄ちゃん、バスの時間を見てきてくれねえか、と男が言った。俺は眼がわるくて小さな字が見えねえんだ、と。いいですよ、と答えると僕は駅舎のすぐ前にあるバス停にあるいた。傘をさして雨のなかにでるが、雨足は強まったようだ。

 バス停の時刻表を見るともうやってくるバスはなかった。最終バスは十八時〇六分となっている。僕は遠くまで来ていることを実感した。

 バスはもうありませんよ、と僕は言った。男はベンチに右肘をつき、左手を泳がせると、そんなはずはねえ、と言う。しかしないものはない。僕は重ねて、最終バスは行ってしまいました、と告げた。

 男は、今何時だ、とたずねた。七時三十二分です、と僕は答える。男はしばらく考えていたが、待ってりゃあバスは来る、と言い張った。僕はけっこう酔っているんだなと思った。

 兄は僕が旅行にいくと聞くたびに、ご苦労なこった、と言う。なにも自転車なんかで出かけなくても電車にすればよいではないか、と。僕がいくら一歩ずつペダルを踏みしめてすすむことの充実感や、目的地についたときの登山にも似た達成感、自転車のスピードが景色をながめるのに一番あっていることや、土地によって確実に変化する空気の肌触りのことを説明しても、笑って聞こうとしない。兄は僕のことを子供だと決めつけているし、おなじ高校にはいれなかった僕を馬鹿にしているのだ。

 

 

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