「バスは来なくってもよ、待っていればタクシーが流してくるんだよ」と言うと男は視線をそとに転じ、「タクシーに乗りゃあいいんだよ、俺は息子に金をもらってきたんだから、タクシー代くらい、屁でもねえ」

 そうでしょうね、と僕は答えたが、それなら最初からそう言えばよいのにと思って顔をそむけた。男はそんな僕の心の起伏をよんだのか急に真剣な表情になると、僕をみつめて言った。

「いくらもらったと思う?」
「さあ」

 僕はまともに考えてみることもせずに、ただ相手が言おうとしている以上の額を口にしたら興醒めだろうと気をまわして、言葉をにごした。男はにやっと笑ってみせると、どうだい兄ちゃん、いくらだと思う、と重ねてたずねてきた。僕はこれだけ自慢しているのだから、二・三十万ももらったのかなと考えたが、見当もつきませんね、と答えた。そんなことはどうでもよいことなのだから。 

 男は右眼をつぶってみせると、
「五万だぞ」と芝居がかった調子で言った。「すげえだろう」

 二週間の予定の僕の旅費は四万だ。海岸においてあるサイクリング用の自転車は十五万円する。僕は鼻白んだが、世の中というものは、金の重みということは、こういうことなのかもしれないと、ふだんなら考えもしない殊勝なことを思って、すごいですね、とおうむ返しにこたえた。

 息子はアパートに住んでいる、と男は言った。大きな会社の工場につとめていて、こぎれいな文化アパートで嫁と暮らしている、と。テレビも冷蔵庫も洗濯機も、ぜんぶそろっている、と。そんなことは当たり前だと僕は思った。テレビや冷蔵庫や洗濯機のない家など聞いたことがないし、テレビなら僕の部屋にも、兄のベットの横にも、居間にもキッチンにもある。しかし男が本気でそう言っているのを感じて、僕はそれを口にしなかった。

 僕は駅の入口にたち外をながめた。雨は漆黒の空から銀の糸となって落ちてくる。ここの空は真に暗く、東京の夜空のように灰色じみていたり、赤やピンクの濁りがはいったりしていなかった。僕の快活な気分は、男と話しているうちに失われていた。いつものように口が重くなったのを感じる。男は息子の自慢をつづけている。僕が返事をしなくてもひとりで喋りつづけていた。

 息子は毎日まじめに働いている。前は、そうじゃなかった。小さな会社で、やくざな仕事をしていた。休むことも多かった。朝から酒を飲んだり、仕事をやめて荒れたこともあった。でも、今はちがう。いい給料を取っている。大きな会社の工場で、堅い商売だ。嫁も面倒見のよい娘だし、俺もこれから安泰だ。自慢の息子だ。ほんとうによくしてくれる。嫁もめったにいるような女じゃない。だから息子は、金をくれるはずだ。

 僕はふりかえると、五万もらったんじゃないんですか、と言いかけてやめた。男はベンチにすわって上体をゆらゆらと揺らしながら、にごった瞳を天井、改札、僕、床、と動かしている。僕は男に見切りをつけた。

 男は自慢話をつづけていたが、そろそろテントに帰ります、と僕は告げた。それじゃあ、と。すると男は急にあわてたようすで、待ってくれ、と言った。いつまで待ってもタクシーは来ないから、あんたタクシー会社に電話してくれねえか、と。男は財布からしわくちゃになった紙片をとりだすと公衆電話を指差して言った。
「俺は眼がわるくて、電話の数字が見えねえんだ」

 僕は頭に血がのぼってしまい、返事をかえすことができなかった。タクシーは電話をすれば呼ぶことができるのに、そうせずに僕に自慢話を聞かせていたとわかったから。考えてみれば人も通らないこの駅に、タクシーが流してくるはずもない。僕は自分も男を話し相手にしようとしたことを忘れて腹をたてた。  

 男は婦人用の使い古して傷だらけになったがま口とメモを差しだして言った。
「兄ちゃん、ここから金をとってかけてくれ」

 電話をかけてやるのは癪だったが、僕はがま口とメモをうけとった。僕の快活さや朗らかさはもうなくなっていて、口をきくのが億劫になっていた。断るよりも手早くタクシー会社に電話して、立ち去ろうと考えたのだった。

  メモは大人の男の人差し指くらいの大きさで、下手な数字がボールペンで書きつけてあった。何度も折り畳んだり開いたりしたらしく、折り目と四隅がひどく汚れている。僕はそれを見ながら公衆電話にあるいた。

「俺は息子に金をもらったんだ。タクシー代くらい、屁でもねえ。十万だぞ、兄ちゃん。俺は息子に十万もらったんだ」

 僕は舌打ちをするとがま口から十円玉をとろうとした。しかし百円と五円しかない。ついでに紙幣をみると千円札が三枚あるきりだ。僕は百円玉をつかむと電話の投入口にいれた。

 雨はさらに強くなった。銀の糸のようだった雨は、ところどころほつれた紐のようになっていて、白くささくれている。海岸にのこしてきたテントと自転車が心配になった。

 いくら呼出音を鳴らしても電話はつながらなかった。受話器をおくともう一度番号を確認してかけてみる。しかし誰もでない。僕はふりかえると男に言った。

「誰もでませんよ」
「そんなはずはねえ」
「でも、かからないものはかからない」
「おっ母がいるはずなんだ、もう一度かけてみてくれ」
「ええ? タクシー会社じゃないんですか」
「なに、家はすぐ近くなんだ。おっ母に傘をもってこさせればいい」
 僕は二の句がつげず男の顔をみつめた。
「歩けば五分くれえなんだ。タクシーなんて、もったいねえだろう」

 男は悪びれたようすもなくベンチにすわっている。僕がだまっていると焦れて言った。
「兄ちゃん、なにしてんだよ、もう一度かけてくれよ」

 この野郎、と僕は思ったがこれで終わりにするつもりで硬貨を公衆電話にいれようとした。すると男は、ちょっと待てよ、と大声をだした。男はベンチから腰を浮かして右手をつきだしている。
「俺は眼がわるいけどよ、色くらいならわかるんだよ」
 男はさしだした手を上下にふると、
「赤い金にしてくれよ、その銀のじゃなくて、赤い金でかけてくれ」
「赤い金?」
「十円だよ、十円玉でかけてくれと言ってるんだ」
「百円しかないんですよ」
「そんなはずはねえ」
「息子さんから金をもらったんだから、百円くらい、屁でもないでしょう?」
「冗談じゃねえ、もったいねえじゃねえか」 男はいきりたつと、「電話をかけるのは赤い金と決まってるんだ」
 男の顔はまだらに赤くなり、ゆがんでいる。
「それなら自分でかけることですね」と言って僕はメモと財布をかえした。男はひったくるように受けとると自分の財布のなかを血走った瞳でみつめ、赤い金はねえか、とつぶやいた。
 僕はそれを見届けると傘をひらいて駅からでようとした。すると男は、
「ちょっと待ってくれ、兄ちゃん」
 まだ何かあるのかと足をとめると、男は卑屈な笑顔をつくり、
「兄ちゃん、十円貸してくれねえか、わるいけどよ」
 僕は露骨にいやな顔をつくってみせるとなにも言わずに歩きだした。
「十円だぞ、たったの十円だ」 男は叫びだした。「若いのに、そんなにケツの穴が小さくて、どうするんだ。おい兄ちゃん、眼のわるい年寄りに、雨に濡れてかえれって言うのかよ」
「うるさい、いい加減にしろ!」
 僕はふりかえるといつも母にそうするように男を怒鳴りつけた。眼があって睨みつけると、男も見返してきたが、唇を震わせて眼を逸らす。しかし僕が背をむけて歩きだすとまた悪態をつきはじめた。ふと、父の顔が思い浮かんだ。毎日役所にかよい、僕が会話するのを避けている父の姿が。

 僕は傘をたたむと雨のなか海岸まで走りだした。すぐに全身が濡れる。服だけでなくスニーカーのなかにも水がはいる。しかしかまわず、走りつづけた。

 

 

                                             了

 更新終了 2005 6 11 

  

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