10月25日

 翌朝、7時30分に館内放送がはいった。朝食の用意ができたから、食堂に来いと言っている。国民宿舎でもあるまいし、けっこうな料金を取るくせに客を馬鹿にしていると、無視して寝ていると、15分後に電話がなった。温厚なN氏が受話器をとり、フロントからの食事の催促を聞いている。
「冗談じゃない、ふざけている」とH氏が憤慨しているが、まあまあと宥める。そんなに怒るなよ、と言いながら自分がまるくなっていることに驚く。数年前だったら、フロントにねじこんだのはまちがいなかった。ぶしつけな商売にも慣れてしまったのか、血の気が減ったのか、たぶん両方だろう。

 一同押し黙って食堂にはいっていくが、遅れているのは我々ぐらいで、皆さんそろっている。早々に出発するグループもいた。山歩きの人は早いんだと感心したが、温泉旅館に泊まるのはハイカーだけではない。従業員をにらむが、いるのはアルバイトの女の子ばかりで、経営者は姿も見せない。こりゃダメだね。

 食後に風呂にいき温泉を堪能した。露天風呂の岩にもたれて湯につかっていると、酒がのこっていて軽くめまいがする。極楽であった。ほてった体で部屋にもどり、窓から露天風呂をながめおろすと、女風呂に女性の姿が見えるではないか。もちろん風呂はかたく囲まれているのだが、渓流にめんした先端にいる女性の頭や肩が見える。女性が立ち上がるともっと見えた。
 極楽であった。
「眼福ですなーー」といっしょにいたM氏とうなづきあう。
「ズームレンズをつけたカメラで見るか」とM氏は言うが、
「そこまでやったら犯罪だろう」と妙な抑制がはたらく。
 ふたりで含み笑いをしていると、N氏が風呂から帰ってきてコトのしだいを聞き、M氏のカメラを持ちだした。ズームの焦点をあわせようとした瞬間、頭だけ見えていた若い女性が立ち上がり、風呂からあがるためにふりむいて、歩きだして囲みのなかに消えた。白い胸が見えた。
 M氏とまたうなづきあうが、
「あれ、誰もいない」とN氏が頓狂な声をだす。
 ズームをあわせているうちにタイミングを逸し、何も見ることができなかったのであった。

 

 白骨温泉下の岩肌をつたう滝を見る。北にめんした山から水がしみだしていて、無数の流れとなっている。山のうえの流れはじめは細く、滴のようだが、下にくるにしたがって合流し、目の前では一面の流水となっていた。水のしみだしている範囲はひろく、7・80メートルはあろうか。透明な水が岩盤のうえをはしり、ほかでは見られない景観をつくりだしていた。


 

  

 渓流につづく遊歩道があり、男5人で歩いていく。私とI氏は三脚を持参していて、ならべてたてては記念撮影をした。私はコンパクト・カメラだが、I氏とM氏は一眼レフだ。M氏にいたっては望遠レンズのほかに広角レンズまで持参していた。ふたりはカメラの話題で盛りあがっているがついていけない。I氏のカメラをのぞいてみると、見たところに焦点がオートフォーカスされる。瞳の動きをセンサーが感知して、ピントが合う。すこし前から話題になっているこの機能について知識はあったのだが、じっさいに手にしたのははじめてで、日本の工業技術の高さに感心してしまった。

 これからどこに行くのか論争になった。午前中いっしょにすごして解散するのが通例だが、できれば自分の帰宅する方向にむかいたいと思うのが人情で、毎年えげつない駆け引きがまきおこる。上高地は一昨年歩いているので候補にならなかった。奥飛騨か、松本にくだるか、木曽福島にそばを食べにいくのか。新潟方面はH氏しかいない。多勢に無勢でそばに決した。

 それぞれのバイクのエンジンをかける。私以外はセル始動だ。H氏のTDMがオーバーのマフラーから排気音を吐き出しはじめ、M氏のテネレも重低音を響かせた。刀も一発でかかったが、DRはキック3発でかかりかかってストールし、さらに2発のキックで目覚めた。ひさしぶりに長距離をはしったせいか高地のためなのか、調子がよくない。チョークとアクセルから手をはなせず、アイドリングが安定するのに時間がかかる。いつものことなのでみんな黙って待っていてくれた。

 上高地スーパー林道をいく。林道の名はあるが全面舗装だ。先頭のH氏がスピードをあげていく。N氏の刀も追随する。私は離された。カーブがうまく曲がれない。コーナリングの仕方を忘れてしまったかのようだ。後ろにM氏が迫っているので先に行かせた。I氏のイプサムはミラーにうつらない。ギヤ・チェンジ、アクセルワーク、体重移動、どれをとってもしっくりこない。DRに振りまわされないようにマイペースではしった。

 料金所で5台がそろい、雪をかぶったうつくしい乗鞍岳がみえる高原で写真をとった。空は晴れあがり、乗鞍は雄大で、周囲には白樺がたち、地面は高原性の草におおわれている。だれでも足をとめたくなる場所だが、写真をとっている人と、写生の人間がおおぜいいた。

 

 記念撮影をしていると、アマチュアカメラマンに写真をとらせてくれと頼まれた。めずらしい被写体だと思われたらしい。照れながらモデルをつとめる。カメラマンは熟年の男性だった。一眼レフのカメラを1台は首にかけ、もう1台を手にしている。レンズのサイズが変えてあり、ふつうのカメラよりも大きなボディが、知識のない私にも特別な機種だとわからせる。I氏とM氏はカメラマン氏と、カメラの話ですぐに打ち解けあった。N氏は煙草をふかし、H氏は乗鞍を眺めている。私は写生している人たちの絵を見にいった。ウォーキングをしている人も多い。中高年ばかりだが、山ブームなのを実感した。

 

 走りだすと、H氏とN氏はすぐに見えなくなってしまった。慣れたのかM氏にはついていけるようになる。M氏の後ろを走っていると、H氏がバトル・オブ・ツインに出場したときのことを思い出した。

 10年ほど前のことだったが、私もピット要員として登録したというので、筑波サーキットへN氏やI氏と応援にいった。午前中の早い時間が予選で、午後が本選だった。ピット作業を手伝うつもりはなかったので、10時過ぎに筑波につき、パドック・パスを買おうとすると、売り切れていた。パスを手にいれなければパドックには行けないのだ。

 このままレースだけ見てH氏に会わずにかえったら笑い話になってしまう。どうしたものかと考えたが、直接交渉するしかないと、パドックにつづくトンネルの前で、パスのチェックをしている係員に話しかけた。
「友達がレースに参加しているので、どうしても中にはいりたい。なんとかパスを売ってもらえませんか。ピット作業を手伝わなければならないのです」
 ピット作業をするつもりもなかったのに、嘘も方便である。すると、係員は戸惑っていたが、それなら、どうぞ、と道をあけてくれた。
「お金は?」と聞くと、
「けっこうです。はやく行ってください」とまわりに悟られないように小声で言う。ならば、と礼を述べてすばやくトンネル内に踏みこんだ我々だった。

 バトル・オブ・ツインは1月15日の開催だったが、今もそうなのだろうか。真冬の早朝にバイクでいく気になれず、私の車に分乗してでかけたのだが、筑波は底冷えがしていた。日陰になっているパドックにはいっていくと、M氏の背中が目についた。体が大きいので目立つのである。M氏は私たちとはちがって律儀にピットマンをつとめていた。近づくと横にH氏もいて、SRX600のそばで立ちつくしている。聞くまでもなく予選落ちだった。保安部品をはずされて、ゼッケンプレートを取り付けられたSRXが、主人の心情をおもんばかって、つつましく控えているように見え、切なかった。

 自走してきたH氏は保安部品を取り付けだしたが、私たちはレースを観戦した。手をかしたくなかったわけでは、断じてない。浮ついた気分で後からついた私たちがH氏やM氏といると、ふたりの気持ちを害してしまいそうだった。ふたりは戦友だったが、私たちは予選落ちを共有することができなかった。



 林道から県道にはいると交通量がふえ、5台まとまってはしるようになったが、H氏は車をかわして先にすすんでいく。蕎麦屋の場所も知らないのにどうするつもりだと、私が先頭にたった。飛ばさなければこっちのものだ。

 蕎麦屋は3年前にいった店だった。今年は参加していない石川のG氏が知っていた店で、美味くて感激したのを覚えている。G氏はヤマハの限定車OW−01に乗っているのだが、マフラーを換え、キャブをいじってある。カウルのなかにレーダー探知機をそなえ、派手な排気音で加減速を繰り返しているすがたは、まさにロード・ゴーイング・レーサーだった。そのバイクに乗ってみないかと、これからワインディングに入ろうかというときに誘われた。即座に承知し、DRと交換して走り出した。が、OW−01はとんでもないバイクだった。

 5000回転以下ではしるとかぶってストールしてしまう。もちろんアイドリングはしない。6000回転はまわさないと加速していかないのだが、OW−01のローギヤで6000回転をキープしたら何キロになるのか。しかも峠道である。セカンド・ギヤにいれることはほとんどない状態で、ワインディングをはしりぬけた。半クラの使いっぱなしである。パワーがあるので、アクセルをラフに開け閉めすると、急激な挙動変化をする。乗っていて冷や汗のかきどおしで、しかも当然ながらいちばん遅い。改造のせいでピーキーになってしまったのだろうが、山をおりてバイクをかえすときに文句を言うと、OWで山道をはしるのは辛いから、トルクのありそうなDRと交換した、とうそぶいた。

 県道から19号線にはいると、抑えのきかなくなったH氏は私をぬいて先にいってしまった。次々と車をぬいていく。しかたなくついていくが、私の後はだれもついてこない。2台で先行し、木曽福島警察の前にある蕎麦屋についたのは12時30分だった。

 人気のある店で順番待ちとなっている。皇室にも献上しているとのことで評判の店らしい。もしかしたらガイドブックにも出ているのかもしれないが、見たことがないのでわからない。ようやく席に案内されて蕎麦を味わった。

「ドカは売ろうかと思ってるんだ」とH氏が食後にいった。
「早ければ早いほどいいぞ」と蕎麦湯をのんでいた私は答える。
「2台あっても乗る暇がないし、あのポジションがきつくてな」
「承知の上で買ったんだろう?」とI氏。
「気の迷いだったのかもしれない。ドカとかハーレーって、欲しくなるときがあるだろう?」
「あるある」とFLHに乗っていたM氏はうなづいて、「でも、奥さんにも乗らなきゃならないから、身がもたないべ」
「まったく」とN氏が真顔で相槌をうったので大笑いとなった。

 蕎麦を食べ終わると今年のツーリングもおひらきの時間だった。これからそれぞれの方向に散っていく。19号線をN氏は名古屋に南下していくが、4人は塩尻にむけて北上する。帰路の無事と来年の再会を約して、まずN氏が刀で走り去った。4人で出発するが車のI氏は後方に見えなくなってしまう。TDM、テネレ、DRで走り、塩尻では3人が三方にわかれた。新潟のH氏は長野道を北上し、静岡のM氏は南下する。一般道で諏訪から佐久にぬけて上信越道にのる私は20号線をすすむ。ふたりが高速の入口にそれたとき、ホーンを鳴らしあい左手をあげた。

  

 

 バトル・オブ・ツインのときは、H氏やM氏といっしょに帰ったのか忘れてしまった。バイクの彼らと同行したのかもしれないし、今回のI氏のように、車とバイクで別々になってしまったのかもしれなかった。 


 筑波と言えばドーバーのピット作業を手伝ったことがあった。後輩のでるレースのピットマンをつとめたのだが、彼の友人もいて出場者は3人だった。バイクはGPZ750R、Z750ターボ、Z650と多彩で楽しかったし、周囲のチームもCBX1000やZ1300、BMWやモトグッチを並べていて、ときめいた。

 ドーバーでは本当にピット作業をしたのだが、女の子もでている予選を見て、これなら私にもなんとかなるかもしれないと、無茶なことを考えてしまった。第一コーナーの突っ込みと、第一ヘアピンのコーナリングを見て。 

 

 筑波のパドックにて Z650レーサーと

 しかし本選がはじまると、中古のバンを手にいれて、革ツナギを新調し、レーサーにするのはアイツのところに眠っているアレでいこう、などという妄想は吹き飛んでしまった。レベルは非常にたかく、努力しても予選を突破できないのは明白だった。

 あのときはコースのなかにある芝生、ダンロップ・ブリッジと最終コーナーのあいだにある広場で、スパゲティーを茹で、ワインを飲んで、騒いですごした。予選を通過したのは、出場台数が少なくて全車が本選にすすめた、モンスター・クラスのZ750ターボだけで、しかも予選順位は最下位だった。レースでは1台がマシントラブルを起こしたのでブービー賞となり、豪華な商品を手にしたし、雑誌にリザルトまで載ってしまった。 

 

 

 塩尻でひとりになった私は諏訪をめざした。すぐに峠道となり、登坂車線のついた二車線道路となる。前をいく車をかわして高速コーナーを飛ばしていく。バイクがようやく体になじんできたようで、筑波をはしっているような気分になる。とは言っても全力で飛ばしたりしない。十分な安全マージンをとっていた。ときおり無茶なスピードでぬいていくドライバーがいたが、ハイスピードで山をのぼりきって爽快だった。

 アクセルをあけるとDRは荒々しく身震いしながら加速していく。回転をあげるとビック・シングルの排気音もたかまる。ブレーキングもギヤ・チェンジも考えることなく体がさきに動く。胸のすく加減速。コーナーのさきを見つめてバンクしている瞬間に目にする、動的な世界。車では決して得られない躍動的な走行を、暴力の衝動にも似た欲求にかられてつづけていく。獣性の開放だろうか、それとも闘争本能か。

 しかし、山の頂上をこえて一車線となり、前につかえた車にしたがってブラインド・コーナーをぬけると、血の気がひいた。

 スピード違反の取締り中だった。テーブルが2台ならんでいて、いっぱいにドライバーがすわり、切符を切られている。気がつかないうちに、レーダーの前を通過したのにまちがいなかった。何キロではしっていたのか自分でわかる。覚悟をきめてテーブルに近づいていった。

 車は10台もとまっていただろうか。警官はおおぜいの違反者の対応に追われている。止まれ、と書かれた赤い旗が道路に置いたままになっていた。ドライバーは顔をふせて字を書きつけている。警官も下をむいていた。あの広くて快適な道なら、アクセルを踏んでしまうのが人情というものだった。

 テーブルの前を通過するがとめられない。警官はこちらを見ようともしない。どうしてだろうかと考えるが、制止されないので車の集団といっしょに進んでいく。カーブを曲がりテーブルが見えなくなって気がついた。違反者がたまると警官も手がふさがってしまい、対応が終わるまで取り締まりは中断されるのだ。天佑、ともいえるタイミングの妙で逃れたのだった。

 冷汗をかきながら峠をくだっていく。パトカーか白バイが追ってくるような気がしてならないが、そんなことはないのはわかっている。しかし動揺がなかなか去らなかった。知らない土地で飛ばすものではない、とゴールド免許所持者の私は思った。はじめての道は安全運転、勝手知ったるところは……。

 混雑している諏訪をぬけて和田峠にむかった。安全運転ではしる。見通しがよくても飛ばさない。ピカピカのXJ750Eとすれちがった。和田峠はちかく、あっけないほど簡単についた。カーブもきつくない。有料のトンネルをぬけて佐久にくだっていくとCB750Kともすれちがった。

 ツーリング中のバイクが多くなってくる。つぎつぎとすれちがう。直線で見通しのよいところにでると、ずっと先に50台ほどのグループがいることに気づく。最後尾をはしる2台に追いつくと、Z750FX−UのサイドカーとSR400だった。バイクの趣味もじつに多種多様だ。

 ツーリング・グループとわかれ、佐久ICから上信越道にはいると大混雑していた。ここは二車線から一車線の対面通行になるのを二回繰り返す。しかもつぎのICは軽井沢で、渋滞はさらにはげしくなった。

 車の人が気の毒になるほどの混雑だった。東京や埼玉、千葉に神奈川のナンバーをつけた自動車が、自宅につくのにどれだけの時間がかかるのか想像がつく。私はバイクの利点を生かした。車の行列は延々とつづいている。関越道にはいっても車は増えるばかりで神経をつかった。

 関越道をでて環八にはいり、並走するのはGT380だった。どこからやってきたのか宮城ナンバーだ。懐かしいバイクなので見つめてしまうが、後ろにいると白煙をかぶってしまう。KHやRD、RGやRZを思い出した。

 自宅がちかづくとDRに、寒くならないうちにもっと走ってほしいと言われているような気がした。過去と現在を行き来できる、楽しい休日の時間は終わろうとしている。また、日常の強い流れにとりこまれ、そこで能動的にうまく立ち回らなければならない。つぎの放浪の時まで。

 DRが言ったと思ったことばは、私自身の気持ちにほかならないことに気づいた。

 

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