西行花伝 辻邦生 新潮社 1995年 価格不明
歌人西行の生涯をさまざまな人物が語っていく物語。すばらしい水準の力作長編小説である。
構想から10年の年月をかけて熟成し、書きあげた作品とのことだが、周到な準備と円熟した筆力、そして歴史、和歌、古典、時代風俗の豊かな知識が集大成されていて、息をのむような見事な小説に仕上がっている。
西行の生まれたときから、乳母や従兄、歌の師の娘、歌の友、西行本人と弟子などが西行の人生を語っていく。西行は馬術、流鏑馬、蹴鞠の名手となり、検非違使として朝廷につとめて歌に出会う。
西行が出仕したときに力を持っていたのは鳥羽院だった。西行は鳥羽院にみとめられて、検非違使のなかでも特にすぐれた者がつとめるという、北面の武士にとりたてられる。そこには平清盛もいたのだった。
時代は矛盾に満ちている。中小領主は税の取立てに苦しみ不満をいだいている。力のある者からはとらず、弱い人間から苛烈に徴収するのである。朝廷では権力闘争がつづき、武士が興隆してくる。その時代を背景にして立ち上がってくるテーマは、歌はこの世を変える力がある、というものである。
西行はかなわぬ恋をしたが、現実からはなれ、客観的にこの世を見るために出家した。この世をより深く、豊かに生きるために浮世を捨てた。そしてこの世のよきことを歌に詠み込んで、永遠の命を与えようとした。歌でこの世を変えようとした。
時代は厳しさを増す。鳥羽院の御子の崇徳院は保元の乱にやぶれて讃岐に流される。つづいて平治の乱がおこり、平家が隆盛を極めるが、やがて源氏に打ち負かされて滅んでいく。西行は高野山と都を往復し、諸国を歩いて歌の道をきわめていく。
西行を書く、ということは作家として到達したい遙かな高みだろう。この巨人の内面にせまり、物語に折々の歌を書き添えて、生涯を描く、というのは表現者としての夢だろうと思う。あまたいる作家のなかで何人の人間がそれをなしうるのか。なまなかな教養や筆力では到底書ききることはできないが、作者は見事になしとげている。
たいへんな力作なので文章の凝縮度が高い。一瞬たりともゆるまず、緊張感のある文体がつづき、内容も濃密なので読むのに時間がかかる。さらに読むのを止められてしまう比喩や表現が散りばめられていて、それらを反芻しているとまた時間がかかってしまう作品である。
漢字にもルビがふってある。現実(ありのまま)、威光(ちから)、兵卒(つわもの)、作用(はたらき)、愛情(いとおしみ)、永遠(とこしなえ)など。
読み手はえらぶだろう。古語、仏教用語が散見されるし、時代や歴史などは読者がわかっているものとして、突き放したようにあっさりと書かれているだけだ。なにより息詰まるような内容と文体、そして長さが読者を峻別するだろう。
西行は歌を仏性として生きた、と書かれている。歌会に集い、風流に遊ぶ歌とはちがうのだ、と。そして『歌という透き通った球のようなもので』、夢のようなこの世を永遠にとどめようとした、と。
西行が語ることば。
『歌がこの世を支えている。歌はただ歌会の遊(すさ)びではなく、勝手気ままな胸の思いの吐露でもない。浮世の定めなきを支えているのだ。浮世の宿命は窮め難く、誰にも変えることはできない。だからこそ、歌によって、その宿命の意味を明らかにし、宿命から解き放たれ、宿命の上を自在に舞うのだ。歌は、宿命によって雁字搦めに縛られた浮世の上を自在に飛ぶ翼だ。浮世を包み、浮世を真空妙有の場に変成(へんじょう)し、森羅万象に法爾自然の微笑(みしょう)を与える。それは悟りにとどまって自足するのでもなく、迷いのなかで彷徨するのでもない。ただ浮かれゆく押さえがたい心なのだ。花に酔う物狂いなのだ。
稀にみる力作。傑作だ。