7月22日(金) 昭和新山、室蘭、支笏湖へ

 
長万部の牧場につづく道 未舗装路が北海道らしくて写す

 目が覚めると4時ころだった。昨夜寝たのは12時くらいだったので睡眠時間が足りない。その前は完徹なのだ。重苦しい頭で起き上がってみると、駅は活動を始めようとしている。空は、今日もまたどんよりと、いまにも降りそうな空模様だった。

 荷物をまとめて早々に函館駅を後にする。旅に出るといつもそうなのだが、1日目、2日目くらいまではペースがつかめず、思うように泊まるところも見つけられない。これが3日目、4日目となるにしたがって慣れていくものだ。心と体が旅に順応してしていくためなのだが、はじまりは毎回不安で、ぎこちないのだった。

 早朝の街を走りぬけてハリストス正教会にむかった。途中から雨となりカッパをつけるが、強い雨ではない。ハリストス正教会についたが、早すぎて人気もなく扉も閉ざされている。しかし見たこともない尖塔のある教会で、異国情緒を満喫した。門のまえで写真をとり五稜郭にむかう。ここも中にはいることができず、堀のそとから眺めただけだったが、ただの公園のようなところで、趣も感じられず、ただ夏草が生い茂っていて、すぐに立ち去った。

 つぎにむかったのは誰もがいくトラピスチヌス修道院だ。函館郊外にあるこの修道院は規模も大きく、建物も壮麗だったが、雨の朝でまだひっそりとしていて、誰もおらず、付近を歩いて写真をとり、5分といずに出発した。

 ガイドブックと地図をみて大沼公園にむかう。朝食はカレー450円とコーヒー300円と記録されているが、どこで食べたのか、大沼ちかくのレストランだったような記憶がうっすらと残っている。大沼公園にはいると小沼、大沼とつづくが、うつくしい小島の浮かぶ湖で、雨模様のなかしばし見とれた。大沼のさきで雨があがった。カッパを脱いで走るが、国道沿いにあった砂利道が珍しくてわざわざバイクをとめて写真をとる。それが上の写真だ。オンロード・バイクに乗っていたときは、砂利道にはほとんど遭遇しなかったのである。未舗装路などいくらでもあるのに、道路も国道ばかりをはしっていた。

 北上していく。海岸線の国道5号線だ。2年前の自転車のときにも行った洞爺湖畔にはいり、昭和新山にむかう。洞爺湖は観光地化、俗化がひどく、バイクをとめる気にもならない。一気に通過して昭和新山にのぼっていった。

 湖畔からのぼりはじめるとすぐに道路は閉鎖されていて、ゲートの手前には広い駐車場がひろがっていた。平日のきょうは閑散としていて、車が2台と私のバイク1台しかいない。周囲には有刺鉄線がはりめぐらせてあり、立ち入りができないようにしてある。観光客はここから昭和新山をあおぎみることになるのだが、山は霧におおわれていてまったく見えない。視界がきくのは有刺鉄線から100メートルほどだろうか。荒地のような草木のない土砂が積み重なっていて、荒涼としているばかりだった。


昭和新山

 観光客が少なくても監視員が常駐していて、有刺鉄線をこえる人間がいないか見張っていた。初老のその男に話しかけられたくなくて、駐車場のはずれにバイクをとめる。一度止まりかけた私に近づいてくるそぶりを見せたので、先まで進んだのだ。私がひとりだったからだろう。車の2台は夫婦か家族で、ひとり旅ではなかった。話好きそうな男だったが、暇つぶしにつきあわされるのは真っ平だったし、自分のことばかり語り続けそうな、嫌な感じがした。そんな気配を察する時ってあるでしょう? 山を一瞥して写真をとり、期待していた新山のエネルギーを感じられずに立ち去った。

 ふたたび海岸線にでて室蘭に南下していく。室蘭では国道からはずれて地球岬にいった。岬は展望台になっていて、すばらしい景色が見えたような印象がのこっている。昼食は大盛りカレー600円となっている。朝とおなじメニューだが、どこで食べたのか記憶も記録ものこっていない。

 北海道を一周するのが目標なので海岸線を走っていった。目についた観光地はめぐっていくつもりだが、登別のような温泉地、俗っぽいところは興味がない。観光ホテルの林立しているなかを素通りして、倶多楽湖にいく。湖畔の道は舗装直前の砂利を整地した段階だったが、観光客はほとんどいず、森閑としていた。湖は原始のままの姿に見えた。自然の只中にいることを実感し、北海道に来ているのだな、とあらためて噛み締めた。

  

倶多楽湖 砂利道である

 雨上がりの砂利道を走ったので、バイクが泥だらけになってしまった。いつもきれいに乗っているので気になるが、ツーリング中のいまは仕方がない。そのまま進む。くま牧場と白老のアイヌコタンは2年前にいっているので通り過ぎ、地獄谷にいってみる。しかしよくある火山で目新しいものはなく、早々に出発した。

 夕刻がちかづいてきた。今夜はどこに泊まろうかと思案する。とにかく駅が野宿の第一候補である。これは迷うことのない答えであった。近くにある駅で一番大きなものは苫小牧駅である。即決した。今夜は苫小牧駅で野宿だ。

 海岸線の36号線をすすんで苫小牧駅についたのは6時くらいだった。駅は予想していたよりもはるかに小さく、木造の平屋で、白いペンキ塗りの建物だった。これが苫小牧の駅なのか 、と驚いてしまうほど小さい。工業地帯、フェリーの発着する都市というイメージからは程遠い姿だし、乗降客も地味な人たちで、堅実なサラリーマンや学生が大勢出入りしていた。野宿するような旅行者はひとりもおらず、汚れたバイクにまたがって、黒い革ジャンを着ている私は、明らかに異質な存在だった。

 夏休み中の駅で旅行者がほかにいないというのは意外だったし、予想外のことだった。当時はどこに行っても、誰かしか仲間がいたものなのだ。考えてみれば昨夜の函館駅も私ひとりだったが、ここで終電がでるまで待って眠るのは、いかにも辛い。目があった人々は胡散臭そうに私を見る。勤め人も学生も。場所を変えることにして当てもなくGSXをスタートさせた。

 とりあえず支笏湖方向にむかった。バス停で、小屋になっているタイプのものがあればそこにしようと考えながら。北国ではよく見かけるバス停で、過去に何度かお世話になったことがある。途中で公園風に整備された霊園があったので、水道を使わせてもらう。白い墓石、白い壁、白い敷石、と白ばかりで統一された洒落た公園霊園だった。むろん夕刻で誰もいない。水道で手と顔をあらって、ついでにブーツまですすいだ。ポリタンクにも補給させてもらって走りだしたのは6時30分だった。

 小さな食料品店があったので、カップめん120円とパン180円を夕食用にもとめた。徐々に暮れてくる。霧もでてきた。バス停は普通のものばかりで、小屋になっているものはない。最終的には支笏湖畔にキャンプ場があるので、そこにいけばよいと思うのだが、泊まれるのかどうかは行ってみなければわからない。暗くなってくると気持ちも切迫してきた。

 視界が悪くなってきたので、500メートルほど前方をはしっている車に追いつこうとアクセルをあけた。速度は80キロから100キロにあがる。薄闇のなか、左右の林にたつ木々が流体化して、視野のはずれでながれだした。白樺の白が神経を刺激していけない。視野の中心の前走車に集中する。ようやくのことで車においついてスピードを落とすと気持ちも落ち着いてきた。焦ってもなるようにしかならないのだし、いつだってどうにかなってきたのだ。

 当時は支笏湖畔有料道路があった。2002年現在、地図にその名はない。150円の通行料をはらって湖畔をはしり、キャンプ場を見つけたのは何時だったろうか。すでに日は暮れて真っ暗になっていた。

 着いたのはポロピナイキャンプ場だと思う。湖の外周路からキャンプ場の看板をたよりに砂利道をすすみ、管理棟をさがすが、それらしき建物も、管理人もいない。空いている。キャンプ客は5グループほど。キャンプ場の真ん中を空けて、ドーナツ状にテントをたてている。そのあいているど真ん中にGSXをとめた。

 管理人がくるのではないかと待つが、誰もやってこない。ならば勝手にやるまでと、バイクのエンジンをかけたままにしてライトをつけ、その光のなかにテントを設営する。地面が硬くてペグが刺さらないが、ロープを石にくくりつけたりして、手早くすませた。荷をテントに運び入れていると、背後でキャンプしていた中年の男女の女性が、
「挨拶にも来ないなんて、信じられない」
 というようなことを言った気がした。あの人が管理人なのかと振り返って見るが、特に何かを言ってくるようではないし、私のことを見ようともしない。それよりもその女性はいままであったことのないタイプで、バサラな雰囲気の女であった。30くらいの女性だったが、男ふたりのなかにひとりでいて、不自然で、不健全だった。普通の女性はそんなことしないでしょう。ふしだらなような、自堕落なような、捨て鉢なような性格がにじんでいた。当時のキャンプ場は山登りの人か、バックパッカーなどのカニ族か、自転車かバイクの旅行者しかいなかった。しかも男だけの世界だ。後年ファミリー・キャンプが流行ることになるが、それは何十年も後のことで、女性がキャンプ場にいるのは奇異な感じさえした時代だった。

 三人の男女は太い倒木のかたわらで焚き火をしてウィスキーを飲んでいた。山を登るような人たちではなく、キャンプが好きだというのでも、自然派という雰囲気でもない。キャンプ場では見ない人種だ。ときおり無遠慮な大声をだす。三人を観察しながら荷をはこび、ガスコンロで湯をわかしてカップめんを作り、パンといっしょに流しこんだ。疲れていたのだろう、テントのなかで横になるとすぐに眠ってしまった。

                                  走行距離 406キロ 


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