7月21日(木) 雨の東北道、函館上陸
十和田湖 発荷峠から望む
出発は7月21日の午前零時ときめた。ロング・ツーリングに出かけるときは、零時発というのが自転車小僧のときからの決め事である。今日中に北海道に渡るつもりだ。2年前に自転車で行ったときは、竹芝桟橋(だと思う。当時は東京発があり、自転車で銀座をぬけていった。)からフェリーで苫小牧につき、帰路は釧路から東京だった。今回は東北道を飛ばしていくつもりである。これがいちばん早いし、青函連絡船に乗ってみたかったのだ。
出発して東北道にのるとすぐに雨が降りだした。夜の高速ではげしい雨。前車の巻きあげる雨がしぶきとなって渦をまき、視界がきかない。しかもヘルメットが安物で、シールドに光があたると乱反射してさらに視野がせまくなる。そのような豪雨のなかを強引に飛ばしていった。
首都圏をはずれてみちのくにはいると交通量は激減した。バイクで走っているのは私だけ。ほかはほとんど大型の長距離トラックだ。トラックは2・3台でかたまって走っていて、100キロで走行車線につらなり、水の渦を後方にまきちらしている。追いついてぬいていく私は120キロ。トラックの横にならぶと視界がひろがる。当時は照明はすくなく、行く手は闇に沈んでいた。横のトラックを見ると、タイヤが猛烈ないきおいで回転し、水を巻きあげはね飛ばしている。視界がきかないなかを、センターラインと右のガードレール手前の白線をたよりにトラックに追いすがってきたのだ。つかのま恐怖心にとらわれたが、すぐにアクセルを握りなおし、闇のなかに突っ込んでいった。
夜明け前に二度睡魔におそわれて、どことも知れぬPAにはいった。すこしだけでも眠ろうと、一度はベンチにすわり、もう一度は建物のかげで横になって目を閉じたが、若くて細い神経が邪魔をして眠りにはいっていけない。いずれも20分ほどで諦めて、雨の本線にもどった。PAでは自動販売機で170円のハンバーガーと80円のコーヒーをとっている。朝食はやはりPAでカップヌードル、150円と記録されている。
盛岡付近で雨はあがった。カッパをぬいで東北道終点の安代をめざす。当時はここまでしか開通していなかった。高速をでたのは9時である。8900円という高額の高速代を支払った。
雨のあがった高原をはしるのは爽快だった。交通量もすくない。自分のペースですすみ、高校一年のときに東北サイクリングで通った、懐かしい道にはいっていった。あのときはいまと逆コースで、青森から八甲田にのぼってくると、集中豪雨にはばまれて酸ヶ湯で2日間の停滞を余儀なくされ、雨の去ったあとで奥入瀬、十和田湖とぬけていったのだ。十和田湖も奥入瀬もあのときと同じように美しく、甘酸っぱい記憶がよみがえる。自転車ではじめてのキャンプツアーにでた私たち4人は、疲れと、雨にふりこめられた焦りやエゴでぶつかりあい、酸ヶ湯で空中分解して、ばらばらに帰宅した。
苦い思い出のある酸ヶ湯にさしかかるとまた雨となった。高校生のときに泊まったキャンプ場が見たかったのだが、道路や地形が変わっていて、判然としない。横目で見て通過する。カッパを着こんで青森にくだるが、カッパは新聞配達用の安物で、すぐにびしょびしょになってしまう。ラーメン屋の出前持ちが着ていたので、ラーメン合羽ともいったっけ。
青森駅に着いたのは昼頃だった。さっそく青函連絡船に乗ろうと、駅に隣接した乗船口にむかう。船にはすでにたくさんの車が乗船していた。しかし、私は拒まれた。バイクは青函連絡船に乗れないというのだ。車がよくて、何故バイクがいけないのか。どう考えたっておかしい。合理的な説明をもとめたが、国鉄の職員は公務員の石頭で、決まりだ、ダメなものはダメだ、と言うばかりである。それならばどうすればいいのかと問うと、民間の会社があるから、そっちへ行け、と言う。当時の国鉄は一事が万事この調子だった。客の利便性などまったく考えず、自分の都合だけで商売をしていた。それもひどい態度で。私は自分の準備不足、知識不足を棚にあげて、だから国鉄はダメなんだよ、と毒づきながら、民間のフェリー会社にむかった。
教えられて着いたのは東日本フェリーという会社だった。学生二等1400円とバイク2200円の合計3600円を支払い手続きをするが、つぎの便までだいぶ時間がある。これでは何のために雨の高速を飛ばしてきたのかわからないと、憮然とする私だった。
待合室で450円のチャーハンを食べ、大学生の分際で、生意気にも250円のビールを飲んだ。まだ社会の厳しさも、生活のたたかいの苦しみも、金の重みも何も知らない青二才である。ようやくフェリーに乗船すると、すぐに風呂にいった。フェリーに乗ると、かならずそうすることにしている。国鉄にくらべると東日本フェリーはふつうに客商売をしていた。国鉄がひどすぎたから、かなり有利だったかもしれない。後年になって東日本フェリーは倒産するが、その直前にまた青函フェリーに乗って、ひどい態度に驚愕した。昔の国鉄なみだ。青函連絡船がなくなってライバルがいなくなるとこうなってしまうのか。まさに時代はくりかえすのだ。しかしそれはまた、そちらのツーリング日記に書くことにする。
函館で船をおりたのは薄暮のころだった。『早めライト点灯』の看板がたくさんでていて、この北海道でしか見られない看板を見て、北の大地にわたったことを実感した。いっしょにフェリーに乗っていたライトバンで、家族5人が乗り、荷台にキャンプ道具を満載しているのが目についた。お父さんは40くらい。子供がふたりにおばあちゃんもいっしょだ。ファミリー・キャンパーは当時非常に珍しかったので、印象深い。この人たちとはこれから何度も会うことになった。とくに話はしなかったが、北海道一周という旅のスタイルがいっしょだった。
函館市街にむかうがとつぜんエンジンが不調になってしまった。パワーがなくなり、バラバラとばらついている。回転もあがらない。函館駅がちかいので、なんとか駅まで乗っていって点検してみると、プラグが一本ゆるんでいて、一気筒死んでいた。プラグを締めこめば修理完了である。一日で長距離をはしったからゆるんだのだろうが、明らかな整備不良であった。しかし直ればホッとした。
函館駅前は北海道にきた、と実感できるところだった。木造の風格のある駅舎も味があるし、となりには憎き青函連絡船もならんでいる。なにより駅前の観光客むけの土産物店兼食堂が大音量で流しつづけている、北島三郎の『函館の人』がすごい。耳が痛くなるような音量なのだ。通過するだけの旅人の私が、こんなにうるさくて苦情は来ないのだろうかと、心配になるほどだった。
『函館の人』を流している店に敬意をはらって夕食にはいった。食べたのはカニ定食800円である。贅沢だと感じたが、カニの美味さよりも食べる面倒くささのほうが印象にのこった。当時はカニなんてほとんど食べなかったから。
自転車小僧だったころから、野宿の第一候補は駅だった。国鉄のことを罵倒しておきながら自己矛盾しているが、テントをはる手間がはぶけるし、そのころの駅には誰かしら野宿仲間がいたものだった。しかし函館駅には私ひとり。これから移動しようにも近くにこれほど大きな駅はない。完徹の重い頭をかかえて駅に人気のなくなる時間までまち、駅のはずれ、青函連絡船の前、現在の朝市の向かいあたりの軒先に、ひっそりとシュラフをひろげたのが北海道一日目の夜だった。
走行距離 771.6q