葬送 平野啓一郎 新潮社 2002年 第一部2000 第二部2300円 ともに税別

 ハイレベルな長編小説、たいへんな力作である。

 フランス、イギリスを舞台に音楽家のショパンと画家のドラクロアの友情を軸にすすむ物語である。日本人が西洋人を書くということは非常に珍しく、困難なことで、果たしてうまくいくのだろうかという読者の危惧を、作者は軽々とくつがえしてみせる。資料は可能なかぎり眼をとおしたとのことだが、資料の収集、時代考証、風俗などの細部をつめて、書きあげるのはたいへんな作業だったと思うが、この作品は読者の期待以上の仕上がりとなっており、成功している。

 ところで作者が大学生でデビューした当時から、文体が古風で、旧漢字を使っていると、様々な毀誉褒貶が集まっていたことは書評をよんで知っていた。若いデビューとその話題性も、商業的な思惑から意図的にながされているのではないかと邪推して、芥川賞を受賞したことは聞いていたが、これまで作者の本には手をださなかった。しかし、その後も作品を発表しつづけている実績をみて、今回はじめて本を手にとった。我ながら疑りぶかい性格である。もっと素直になりたいが、年をとるといろいろなことを考えてしまうものなのだ。

 読みだすとやはり漢字が非常におおい。多用しすぎていると思えるほどで、素人くさいし、数十年前の文語体を読んでいるような印象である。西暦をしめすときでさえ漢数字をつかっていて読みづらく、そこまでこだわる必要もなかろうにと思ってしまった。もともと日本語はやわらかいものだとおもっているので、違和感をおぼえる。詩的な、視覚的効果をねらった、ひらがなを多用した文体が好みでもあるので、はじめは拒否反応がでてしまった。

 文体も文語体のような堅苦しいものだ。慣れるのに何十ページもかかってしまった。しかし一語も手をぬかず、隅々にいたるまで全力で、全神経をつかって構築された文章をよんでいると、作者の妥協しない、生真面目な性格がつたわってきて、息苦しいほどの文体も好ましくなってくる。最近は軽薄な話しことばや若者ことば、擬音をとりいれた、漫画のような小説がおおいことが不満でもあったので、作者の伝統的、正統派ともいえる文体は、読みすすむほどに気にならなくなり、逆に快くなっていった。

 書きだしはぎこちなく、ストーリーもながれずに退屈である。我慢して読みすすめてもなかなか良くならず、投げだしそうになってしまった。しかし小説は徐々に輝きをまし、ついには強力な牽引力で読者を先へさきへと引っぱっていく。すすむほどによくなり、第一部よりも第二部のほうが深みをます。

 ショパンの愛人が小説家のジョルジョ・サンドであり、ドラクロアの愛人は『ナポレオン三世』のいとこ、庇護者でもあった男爵夫人である。フランスが七月王政から革命を経て、ナポレオン三世の第二帝政へとうつっていく歴史も、背景にバランスよく響いている。

 ショパンとドラクロアが主人公なので、音楽と美術の話題、創作の現場、想像力のわきあがり、名曲のできあがる過程、画をかく技法、スランプ、ピアノの演奏技術など、作者の芸術にたいする深い造詣をかんじさせる記述が多数ある。自分で体験した音楽と美術の経験と、本でえた知識をうまく作品中にちりばめた印象だ。

 圧巻なのはドラクロアの作品とショパンの演奏を描写するシーンである。まず第一部のラストにドラクロアが数年にわたってえがいた、図書館の天井画が完成し、画家がその絵を確認する場面がある。多数のテーマでたくさんえがかれたものから構成される巨大な天井画を、じつに多種多様、多彩なことばで語っていくが、ときにおなじ意味のことをことばと論理、語法をかえて、何度もくりかえす。二度も三度も、たたみかけてくる。自在にことばと論理を駆使する才能はたいへんな論理展開力である。

 第二部のはじめに登場するショパンの演奏会のようすにも大部をさいている。ショパンの繊細なタッチ―音が小さいとよく言われたそうだ―その特色を説明するためにことばをつらねていく。演奏を描写しながら、技術と転調の効果、またショパンの音楽的美意識について書いていくが、ここでもさまざまな論法で、息つくまもなくたたみかけてくる。

 絵や音楽、芸術をことばにすることは難しいものである。それを感覚ではなく、論理で説明描写していくところが作者の真骨頂だろう。

 死や老いの要素のこいこの作品を書きあげた力量はたいへんなものである。またこれだけ迫真性があり、緊張感にみちた、濃密な長編小説をしあげた集中力、耐久力も稀有な才能だろう。いくら才能があっても、毎日書きつづけて、努力を積みあげ、作品を仕上げなければ意味がないのだから。作者は作品の出来に妥協しない、できない完璧主義者なのだろう。そしてこの姿勢のまま資質を伸ばしていけば、ほかの世界に浮気しないで創作に打ち込んでいったなら、日本を代表する作家になれるだろうと思われる。歴史に名をのこすことも可能だろう。

 基本的にはもう本を買わないことにしている。もう置く場所がないので。しかしこの作品は手元において折にふれて読みかえしたい。

 読んでいるうちに作者の才能に興奮した書。



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