9月4日(火) 神威岬と札幌駅の変化に落胆

 

 旭ヶ丘キャンプ場の朝 右がジャンプ台

 

 夜、寒くて何度も眼を覚ましてしまった。長袖シャツは着ていたのだが、シュラフに入らずに寝ていたのだ。寝袋にもぐりこんで毛布を体に巻きつけるが、それでもまだ寒くて、セーターを着込み、ついでにトイレに行こうとして誤ってポールにつまずいてテントをつぶしそうになった。危なかった。なんとか持ちこたえてまた横になったが、まだ寒くて革ジャンまで着たのに震えがとまらない。推定気温は10℃くらいだと思う。

 5時30分に起床した。寒かったので眠りが浅く、起きるのが遅くなったのだが、それでもキャンプ場ではいちばんだ。皆さん静かに寝ているが、昨夜の冷え込みは平気だったのだろうかと思う。このときはわからなかったのだが、相応のシュラフを持っていればなんともなかったはずだ。毛布を持参するよりも、低温対応のシュラフのほうが効果は断然上なのだ。しかしこの冷え込みはこたえた。以後冷えそうな野営地は避けるようになったほど身にしみてしまった。

 羊蹄山がシルエットとなってキャンプ場の正面にたっていた。昨夜大騒ぎをしていた3人組のテントを見ると、自分にご褒美君のバイクは原付スクーターだ。こんなので来たのかと思ったがーー1983年には原付は1台しかいなかったし、スクーターは皆無だったーーその後は原付も数多く見かけるようになった。

 テントは朝露に濡れ、内側の結露もはげしく、シュラフも湿っていた。これでは冷えるはずだが装備が貧弱なのだ。年代物の三角テントに夏用シュラフ、それに毛布なのだから。帰ってからこれらを一新したのは言うまでもないことだった。

 テントを撤収しながら塩ラーメンを食し、7時20分に出発した。出立間際にセロー氏が洗顔にやってきて朝の挨拶をかわす。氏は日本手ぬぐいを首に巻いていた。私はバンダナを愛用していて、風呂もこれで入るのだが、手ぬぐいのほうが合理的なので、以後セロー氏の真似をさせてもらっている。

 昨日積丹半島を諦めたはずなのにまた迷った。私の神、神威岬のローソク岩に再会したいのだ。今日の午前中は尻別川の本流で釣りをする予定だったが、それはなくなったから日程に余裕がある。札幌ー帯広間が200キロであることをたしかめて、今後の予定を検討し、神威岬までの往復300キロを行くことにした。午前中に帰ってこられるだろうと軽く考えたのだが、国道5号線を10キロ走ってそれはちがうと思い至るから私もぬけている。100キロ走るのに2時間はかかるのだ。300キロなら6時間だが、神威岬で神に会うために岬を歩くとすればもっとかかるのは自明の理である。やめようかと思ったが、10キロ来てしまっているし、なによりもどるのは大嫌いだからそのまま進むことにした。

 冷え込んでいて走ると寒い。トンネルに入ると暖かいから、自分にご褒美君の言ったとおりである。倶知安から余市までの20キロが寒さに耐えた時間で、余市に入ると気温は上昇していった。余市は宇宙飛行士の毛利さんの故郷だとあちらこちらに書いてあり、町中がスペースモードだった。

 

 ニッカ・ウィスキー工場にて

 

 1983年に見学したニッカ・ウィスキー工場には8時5分についた。工場の外観を見ても記憶がよみがえらなかったのだが、入口から前庭をながめると、そうだった、こうだった、と思い出す。見学は9時からとのことだが、もとより寄っていこうとは思っていない。となりにあった道の駅『スペース・アップル・よいち』で休み、すぐに出発した。

 国道299号線をすすんで神威岬を見たら、18年前には道がなかった積丹半島の先端部をまわりこんで一周し、当時はジャリ道から舗装されたばかりの当丸峠をこえ、古平町で国道299号線にもどり、また余市に帰ってくるつもりだった。走っていくと『狭小トンネル走行注意』の看板がたくさんでている。狭小トンネルの地図まである。その狭小トンネルは片側1車線の古いがどこにでもあるトンネルで、狭小とは思えない、本州では標準的なトンネルだ。なぜわざわざ狭小トンネルなどと否定的な名前で呼んでいるのか疑問に思う。18年前は狭小トンネルしかなかったが、今は新しく作られた広いトンネルが多くなり、古いものは少数派だ。新しいトンネルを掘りたいがために、建設工事がしたいがために、こんな宣伝めいたことをしているのではないかと感じてしまった。

 じっさい、工事がしたいがために、と思ってしまうほど道路工事は多かった。路肩の草刈り作業もかなりの頻度でやっていたし、なかには除草工事というものもやっていた。道路や歩道の継ぎ目に生えている雑草を、手や鎌で除去しているのだ。これにはびっくりしたが、こんなことをやっているのは北海道だけではなかろうか。それだけ経済が停滞しているから、北海道庁もできるかぎりの公共工事を発注して、仕事を作っているのだなと感じられた。

 古平町に入っていくが貧しい町並みである。ここはバブルの恩恵もなかったのではなかろうか。R299をすすみ道道913号線にはいって積丹岬にむかう。ここは通ったことのない道だと思っていたが、やがて18年前を走った道路だと気がついた。1983年のレポートにも書いたのだが、このルートの左コーナーをぬけていると、ライダーがふたり歩いていて、バイクはヤマハの1台しかとまっていないから、なんだかおかしいなと感じたのだ。コーナーを通過しながらミラーでふたりを見ていると、道の下におりていったのでピンときてバイクをUターンさせた。もどってみると思ったとおりで、道の下の草地にカワサキZ400LTDが横倒しになっていて、ふたりのうちのどちらかがカーブを曲がりきれずに道から飛び出してしまったのだ。

 ふたりは40くらいの作業着の上下の人と、私と同年くらいの男性だった。私もZを押すのを手伝ったが、Zのライダーは40男のほうで、自分の失態が恥ずかしいのか、大学生の若造ふたりに助けられて不本意なのか、仏頂面で黙り込んでいた。どうしたんですか?、と聞いても返事をしないのだ。Z氏がハンドルを握り、私とヤマハ氏が後ろからZを押して、道路へとバイクをもどしたが、3人なので難なく路上に押し上げることができたが、ふたりなら苦労したはずだ。Z氏は口をきかないのでヤマハ氏に事情をたずねてみると、積丹岬から走りだすと、後ろにぴったりとついてきたので、このコーナーを目一杯のスピードでぬけると、ミラーから消えてしまっていた、と言う。思わず笑ってしまったが、Z氏は礼の一言もいわずに憮然としていて、人間としてなっていなかった。礼ぐらい言えよ、と思ったものだが、私もあのときのZ氏くらいの年齢になってしまった。若者に笑われないようにしなければならないと思うが、このルートはそんなエピソードのあったところだと、走っていて思い出した。

 

 積丹岬の海 

 

 道の横は熊笹が生い茂り、その奥は原生林で熊がでそうなところとなった。前後に車はなくて1台だけで走っているから緊張するが、すぐに積丹岬につく。駐車場にバイクをとめて、人がやっとひとり通れるほどの、正に狭小トンネルをぬけると、眼下に美しい海と岩礁帯がひろがっていた。海水の透明度が高く、岸から30メートルまでの浅瀬は底が見えていて、その透き通る海は沖にいくにしたがって、薄いブルーから濃い青色へとグラデーションで色合を変えていく。惹きこまれるように見つめていると、後からやってきた人たちも歓声をあげていた。

 海岸に下りていく階段があった。おりるのは簡単だが、登りはかなり苦労しそうな坂と距離である。それでも青のグラデーションに近づきたい気持ちがまさり、行ってみた。『マムシ注意』の看板がたくさんでているが、熊にくらべればマムシなど恐くもなんともない。カメラをセットした三脚を持っているので、いざとなったらアルミの足で殴りつけてやるつもりだったが、強くなった日差しの下にでてくる蛇などいるはずもなかった。

 海に近づくとグラデーションは消え深い青色だけとなる。上から見たほうが美しかったが、それでも十分きれいだし、近づかなければ海水に触れることはできない。手をつけて海水をなめてみると塩辛くない。非常に薄い塩味に驚く。さらにびっくりしたのは海水がべたつかないことで、サラッとしている。私の知っている東京湾のものとはまったくの別物だった。そして海は、ただ空の反映などではないと、透き通る海水を見て思った。

 坂道をのぼって駐車場にもどると、朝露に濡れたテントとシュラフ、それにウェーダー(釣り用のバカ長)を干した。日差しは強く駐車場は空いている。朝からのメモをつけ終えるとテントとシュラフは乾いていた。

 神威岬にむかう。道道から国道299号線に入り、10キロの道のりで神威岬が見えてきた。前にも書いたが、神威岬の沖には神秘的な姿のローソク岩がたっている。その岩が神のように見えて、感動したことが鮮やかな印象となって私の記憶に刻まれていた。

 18年前は道がなかった岬にいたり、驚くほど広大な駐車場に入っていく。ここは昔の、見わたす限りの草原だった地をつぶして作ったのだろうかと眼をみはってしまった。当時は立ち入り禁止で、清らかな聖地だったこの地を、駐車場や観光用の建物を作るために、なくしてしまったのかと。

 心を波立たせて、荷物を満載して重心の高くなったバイクが、あまり傾かないでとめられるところをえらんで駐車する。観光バスが何台もやってくる。熟年のツアー客が大勢バスからおりてきて、バスガイドが、ここでのお時間は30分です、と告げている。たったの30分で神に会うつもりなのかと驚いてしまうが、観光バスでやってくるような人は、岬に思い入れなどはないのだろう。

 岬につづく坂道をのぼっていく。昔は女人禁制だった、とバスガイドが言っている。たしかにアイヌの時代には、道のなかったこの地は険しく、何より神々しいまでの神が住む聖地だから、女人禁制だった。18年前でも岬に近づくことはできず、何キロも手前から遠望するだけだったのだ。それが今では岬の先端まで遊歩道が作られ、観光客が列をなして歩いている。手つかずの緑の草原の聖地だった岬に、観光客が歩くための白い轍がつけられて、無惨なことになっていた。しかも岬の先端までいった人々は、神の岩を見おろしているのだ。

 大切な思い出の岬のあまりの変わりようと、神がないがしろにされて神秘性を失っていることにショックを受けてしまった。こんなに自然を、聖地を破壊してよいものなのだろうか。岬の入口にある門までいったが、どうしてもその先に歩をすすめる気になれず、後ずさりして、岬からはなれた。私の神威岬はここで見るべきものではないのだ。昔あった、遊歩道につづくと思われる道が、積丹岬方向に伸びていて、そちらにいけば、昔見た、私の神に会えると思った。

 昔、むかし、と何度も書くと嫌われてしまうかもしれないが、18年前は岬の5キロほど手前で道はなくなっていて、駐車場から丘にのぼり、手堀の真っ暗なトンネルをぬけていったのだ。このトンネルはまっすぐではなく、入ってしばらくすると直角に右にまがり、そのまま行くと次は左に直角にまがるクランク状になっていて、中は真っ暗闇だった。手探りですすむこの暗闇のトンネルは『念仏トンネル』という名だったが、このトンネルをぬけて高台にのぼると、神威岬が遠望できたのである。そして岬一帯は立ち入り禁止になっていて、何キロにもわたって草原が続き、岬を見にきた観光客も2・3人しかいなかった。半島を一周することのできなかった積丹半島は、観光コースからはずれていたのである。ここに来るのはよほどの物好きだけだったのだ。

 18年前に神威岬を遠望したのと同じような景色を求めて丘をのぼっていく。昔のようすを知る人もいて、私と同じように以前の神の姿をながめようとする人たちと、7人ほどのグループとなって眺望のきく東屋についた。振り返ると神威岬が見える。昔のままの神が、神々しい岩が、海中にたっていた。感無量だった。ここなら無粋な観光客の姿も、踏みしだかれてしまった岬の草原も眼に入らない。思い出の岬と神の姿が眼前に再現され、ことばをなくした。

 

 神威岬 海中に神が立つ

 

 北海道で見るべき価値のあるところは多いが、神威岬はかならず訪ねるべき場所だろう。昔の神秘性は失われ、岬に道はつけられて、女人禁制の聖地は痛ましいまでに俗化してしまったが、遠くからながめれば美しさは変わらない。また昔の姿を知らぬ人は、現在の岬とローソク岩を見ただけで感動することだろう。

 しばし神を見つめ、すぎた18年の年月に思いをはせる。我が身の変転を考えずにはいられない。大学生だった私は40男となってここに帰ってきたのだ。何を得て、何物を失ったのだろうか。バブル景気に浮かれて、酒やゴルフや株に金をつかったが、バブル崩壊と平成大不況の時代になって、経済変動の非情さと、人の酷薄さを身にしみて知った。私はけっきょく何も得ず、何物も無くしていないのかもしれないが、少なくとも妻と息子が得られたことはだけは確かだ。

 神に会って厳粛な気分になり、駐車場にもどっていく。それでも浮世の定めからは逃れられなくて、レストランとみやげもの店が入っている建物に公衆電話があるのを見て職場に電話をいれた。状況はさらに厳しくなっていて、それを聞いてもどうしようもなく、すべてを託して電話を切ったが、後味は悪かった。

 駐車場にもどるとサイドスタンドがアスファルトにめりこんで、車体が傾いていた。もう少し時間をかけていたならバイクが倒れてしまうところだったが、北海道のアスファルトは軟らかく、こうなることが多い。重い車体を立て直しているとセロー氏がやってきた。私と逆周りで積丹半島をまわってきたとのこと。たがいに自分の走ってきたコースを語り合うが、次につづく言葉はなくて、それに気づいて間があいてしまい、では、と挨拶をかわして別れた。

 積丹半島を一周するのは時間の関係で断念することにした。もとより神威岬だけが目的で、半島一周はついでだったのである。来た道をもどっていくが腹が空いてきた。ラーメンをつくれそうな場所を物色するが、またしてもない。そこで時間を節約する意味からも弁当を買うことにした。古平のスーパーに入ってみると魚が安い。生のホッケが1匹260円、カサゴかメバルも260円だ。しかしここには弁当がなかった。弁当がないスーパーは珍しいが、売れないということだろうか。

 余市のスーパーに移動して弁当とサーモンの刺身をもとめ、朝休憩した道の駅『スペース・アップル・よいち』の駐車場の奥、人気のない芝生で食べた。これまで自分で作ったまずいラーメン雑炊ばかり口にしていたから、この弁当はとてつもなく美味しく感じられる。なんでもない弁当なのだが、このときは感動して味わった。何日か粗食をするだけで、人はこんなにも謙虚になれると身をもって知ったが、いつもは決して手をつけない刺身のツマまできれいに平らげてしまった。ところで物価は魚だけでなく全体的に安かった。サーモンの刺身は270円だし、弁当は400円だ。のり弁の値段で幕の内が買えるような感覚だった。

 

 小樽

 

 北海道は3回目だが小樽は見たことがない。人気の運河を散策してみようかなどと柄にもないことを考えて、いってみることにした。その小樽運河についてみると、一帯は大観光地で、車をとめるスペースはおろか、バイクさえ駐車できない。歩道には観光客があふれ、車道にはタクシーと人力車が集まっている。運河に面してたつレンガ倉庫の裏にまわってみると、ここは原宿か横浜かという俗化した街がひろがっていた。ミニサイズの原宿、横浜だ。レストランやカフェ、雑貨屋にみやげもの店が原色の看板をならべたてていて、観光客がそこを歩きまわっている。ロココ調の装飾、蛍光色の文字看板、アールデコ風の店と、滅茶苦茶な街並みだ。大多数の日本人はこういう街が大好きなのだが、私は大嫌いだ。したがって少数派の私としてはここを去るほかない。写真を1枚とっただけで走りだしたから、小樽には5分といなかった。

 思い出深い札幌駅を見にいくことにした。札幌駅は自転車でやってきた1981年に4日、バイクできた1983年に1日泊まっている。当時の札幌駅は若い旅行者の情報交換の場であり、北海道最大の旅の拠点で、宿泊場所だった。いつでも自転車やバイクの旅人が集まり、夕方も日があるうちから『サッポロ・ハイソフト』という安い焼酎で宴会がひらかれ、そして夜になると駅の庇の下に何十人もの野宿者がシュラフをならべていたものだった。今はどうなっているのか。青春の思い出の地にとにかく行ってみたかった。

 札幌まで36キロと表示されていた。ライダーにフラッグをくれると話に聞いていたホクレンがあったので給油をする。GSの名前として、ホクレンという名称を記憶していたのだが、農協なのだとこのとき初めて知った。26.08K/L。99円と安く1278円。しかし旗をくれないぞ、どうしてなのか。フラッグをつけて走るのは恥ずかしいのだが、欲しかったのだ(在庫がなくなるとそれでお仕舞いとなるのだ)。領収書のあて先が『ライダー様』となっているのが北海道らしかった。

 今朝から荷物を固定するストレッチ・コードが使用限界になっていたので、バイク屋をさがしながらいくが、急に体調がおかしくなった。喉がいがらっぽくなり、頭も重くなる。気にすると熱っぽいようにも感じられてくる。風邪だろうか、それともまさかエキノコックス? しかし私は旅行中は緊張しているので、決して病気にならない人間だ。ケチで貧乏性だが頑健なのである。体調をおしはかりつつ走っているとスズキのバイク・ショップがある。立ち寄ってみたがストレッチ・コードはない。コンテナ・ボックスの上に大型ダッフルバックを固定するのにストレッチ・コードを使っているのだが、いざとなったらボックスを縛っているコードでもろともにとめればよいだろうと考えた。

 札幌駅に近づくと交通量は急増した。街並みもビルやマンションばかりとなり、さすがに北海道の首都だと思う。これならば盛岡よりも大きくて、仙台にはおよばない規模だろうか。資本も蓄積されているようで外車が多く、豊かさが伝わってきて、さっきまでいた積丹の貧しさとの落差を埋められない。漁業や農業収入は相対的に低いのだろうかと考えてしまった。

 大繁盛しているラーメン店があり、ライダーもひとり食事をしているのが見えた。国道を標識にしたがって札幌駅方向に左折すると渋滞がはじまる。車のあいだをすりぬけていくが、体調はいつの間にか気にならなくなっていた。たぶん限られた時間のなかで、できるだけ走りたいという気持ちの焦りと、疲れによる錯覚だったのだろう。

 駅まであと少しというところで道を間違えてしまった。道路表示はあっただろうか。札幌の街の案内はひどく不親切で、観光客にはわかりづらいのだ。左斜めにいくところを直進してしまい、もどろうとするが一方通行が多くてままならぬ。どうたどったら駅にでられるのかわからず、バイクをとめて地図を見ていると、同年輩のサラリーマンがふたり通りかかったので、聞いてみた。私はいつもスーツにネクタイで仕事をしているから、同じような人間だと思って話しかけたのだが、彼らはそう感じなかったようだ。
「すいません、駅はどう行ったらよいですか?」
 とたずねたライダーの私を胡散臭げに見て、何でお前が俺たちに話しかけてくるんだよ、という態度を露骨にだし、馬鹿にしたそぶりで、他の人間に聞けよ、と言っている。私は20年近くバイクに乗っているが、こんなに失礼な対応をされたのは初めてで、びっくりしてしまった。
「あっちだよ」とひとりが乱暴に指差したが、そんなことはわかっている。一方通行をどういくのか知りたかったのだが、彼らと話すのはやめた。北海道には親切な人もたくさんいるが、こんな権柄ずくの人間も多い。ライダーと見ると、その人間がふだんどんな生活や仕事をしているのか想像することなく、見下した態度をとるのだ。こういう視野の狭い人間は田舎に多いが、北海道では札幌に多い印象である。そういう風土がある気がする(他の年の札幌での体験を重ねてそう感じています。具体的にはそれぞれの旅のレポートに書いてあります)。

 

 建設中の札幌駅

 

 不快な気持ちを引きずりつつようやく札幌駅につくと、昔の駅はなくなっていた。高層の駅舎と隣接する百貨店が同時に建設中で、昔日の面影はない。もちろん駅前に集う若い貧乏旅行者の姿もなく、車どころかバイクさえ止められない状況だ。駅で大勢の若者が野宿をしたり、宴会をしたりしていたのはたしかに異常だったろう。風紀や美観もそこねていたことだろう。しかしこうも何もかも変わっていると寂しいものだ。裏通りにバイクをとめて駅に歩き、あらためて建設中の高層ビルを見上げてみた。遅かった、と思う。もう1年早く来ていれば、昔の駅を見ることができただろうに。

 バイクや自転車が何台も乗り上げていた、駅前広場で立ち止まる人もいない。仕事中の人は足早に歩み去り、旅行者も駅に頓着していなかった。駅の写真を数葉とると札幌を後にする。滞在時間は10分あまりか。時計台も大通り公園も北大も、ラーメンにも興味はない。札幌は駅だけが目的だったのだ。

 国道275号線で江別方向にでようとするがうまくいかない。江別とか石狩などの周辺市の表示がなく、札幌市内の地名しかでていないからだ。これでは地元の人しかわからないが、観光客のことなど考えていないのだろう。迷って走りまわり、やっと国道12号線に入ったが、今度は市街をグルグルとまわらされてしまう。交通行政の都合でそうなっているのだろうが、利用する人のことを考えていない、石頭の官僚主義が横行している印象だった。

 札幌の街はずれでコインランドリーをみつけて立ち寄った。ところで私はコインランドリーを利用したことがないのだ。そこで使用説明を読んでみると、洗剤は自動投入されるというから持参のものが使えないし、料金は800円もかかるとある。これは高いのではないだろうか。さらに乾燥機の利用は10分で100円かかるとのこと。コインランドリーを使用したことがないから比較できないが、この料金には納得がいかないから別の店をつかうことにした。

 昨夜焼酎を飲み切っていたのでコンビニで買うことにする。セイコーマートという地元のコンビニがあるが、使いなれたセブンイレブンに入った。焼酎は懐かしのサッポロ・ハイソフトがあり、安かったので買おうと思ったのだが、となりに飲みなれたビッグマンがあったのでこちらにする。我ながら行動が保守的になっていていけないなと思う。焼酎は2リットルで999円。タバコも手に入れて、とりあえずザックに入れたらひどく重くなってしまった。

 進んでいくと酪農学園大という大学があった。北海道らしい大学でキャンパスは広大で清潔であり、学生も真面目そうな若者ばかりだ。しかし卒業生は全員酪農家になるのだろうか。学生は酪農家の子弟ばかりなのか。そうではあるまい。酪農にあこがれて全国から集まってきているのだろうが、勉強しても夢はかなわず、サラリーマンになる者もたくさんいるのではなかろうかと、いろいろと考えてしまった。

 江別をぬけて岩見沢に入った地点で今日の宿泊地を決めることにした。時刻は17時である。たまにはキャンプ場でゆっくりすごしたいと思う。ガイドブックを取り出して、サイトにバイクを乗り入れられるのか否か、料金はいくらかなどを考えて、近くにある『いわみざわ公園キャンプ場』にいくことにする。料金は1000円と無料ではないが、岩見沢の先は山岳地となるので冷え込みを恐れたのである。寒くて何度も目覚めてしまった昨夜のことがあるので、なるべく気温の下がらない地点でキャンプをしたいと考えていた。

 いわみざわ公園キャンプ場まで20キロほどの距離があった。これをいくのが長く感じられる。国道12号線から国道234号線に右折して、高速道路の下をくぐると、キャンプ場のある三井グリーンランドという遊園地が見えてきた。ところがグリーンランドについてみると人気がなくて、遊園地は休業しているようだし、キャンプ場がどこにあるのかわからない。遊園地の外周をまわりこんでいくとキャンプ場の入口はあったが、『必ず予約が必要です』と看板がでていて管理がうるさそうである。そしてキャンプ場と管理棟にも人はいない。勝手にキャンプをしてトラブルになるのは嫌なので、ほかに転進することした。

 グリーンランドの正面に移動してガイドブックを見てみると、ここからいちばん近いのは『栗沢町ふるさとの森キャンプ場』で、となりの栗沢町にあり(現在は岩見沢市となっているようだ)、国道234号線をこのまますすめばよいからここに決めた。17時40分になっていた。また日は暮れかかってきていささか焦る。栗沢町まで13キロの表示を見て飛ばしていくと、日は徐々に傾いていった。

 18時に栗沢町の中心部についた。ガイドブックの地図は大雑把に書いてあるのでわかりにくい。地元の人に聞くのがいちばん早いと思い、ゴールデンリトリバーの子犬の散歩をしているおばさんに聞いてみた。すると、
「あそこは、ふたつ目の信号を左にまがれば看板がでていて、あとは道なりに山に入っていけばわかります」とのこと。
「キャンプしている人はいますか?」と気になっていることをたずねると、
「さあ、どうでしょう。夏休み中はけっこういたけど、今はいないんじゃないかしら。水は、それでもでるのかな」
 なんとも心許ない返事がかえってきた。しかし親切な方だったので丁寧にお礼を述べて走りだし、ふたつ目の信号を右折する。たしかに山のなかに入っていって道も狭い。しかしどうも違うようだ。すぐに案内があるとのことだがないし、どこまで行ってもキャンプ場はない。この道ではないと判断して栗沢町の中心部にもどっていく。18時20分になっていた。ほかのキャンプ場にするにはもう遅い時間だからなんとかみつけたい。地図をまたひろげてみるが判然とせず、もう一度人に聞くしかないと思うが、歩いている人間がいないので困ってしまう。しかし直後に『ふるさとの森』の看板をみつけた。そこは信号のない交差点だった。ふたつ目の信号のすぐ手前の交差点だから、おばさんが勘違いをしたのだ。

 その道に入っていくとすぐに公園の入口があり、おばさんが教えてくれたとおり案内もでている。すすんでいくと狭い急坂となった。この先にあるのか? 誰かキャンプしているだろうか? 1人っきりは嫌だなと思いつついくと、小さなキャンプ場にでた。テントがふたつたっている。ようやく着くことができたし、ひとりではないことがわかったホッとしたが、時刻は18時30分で、今日も最後はドタバタだった。

 キャンプ場は狭い。谷間にある、湿地を埋め立てたような三角形のサイトで、両側には小川が流れている。常夜灯が2本たっているので日が落ちても明るいのが助かる。ほかのテントは車の夫婦とサイクリストのグループのものだ。サイクリストは不在で、テントのまわりに3台のマウンテンバイクがぐるりとおいてあった。

 急いでテントの設営にかかる。今日もきょうとて5分でテントはたつ。しかる後に米を炊きつつエアーベットのポンプ踏みだ。そのうちサイクリストが帰ってきたが、彼らは山の上にあるアスレチック施設で遊んできたようだ。年は20くらいか。もっと若いか。彼らと挨拶をかわすが会話は続かない。あまりにも年が離れているし、茶髪やアフロの若者は嫌いなのだ(当時は)。そういう人間と話したことがないし、彼らが低い音で流しているヒップホップの音楽も好きではない。どうせ話はあわないから、無理に会話をすることもあるまいと考えたのだ。しかし沈黙が重苦しかったのだろう。彼らのほうから話しかけてきた。
「そのポンプ、まだかかるんですか?」とリーダー格の若者が言う。音がヒュッ、ヒュッ、とでているからうるさいのかと思い、
「いや、もうすぐ終わりますよ」と答えると、
「なんなら、代わりましょうか?」と言うではないか。意外な申し出にびっくりしてしまった。これは丁重に断ったが、彼らのことを誤解していたかもしれないと思い、逆に聞いてみた。
「どこから来たんです?」
「○○から」との返事。
「なんだ、こっちは××ですよ」と言うと、
「それはご近所ですね」と話がつながった。
 彼らは林道サイクリングをしていて、いろいろな動物に会ったことやーー熊には幸い出会わなかったそうだーー明日、苫小牧からフェリーで帰ることなどを話し、私はこれまでのコースやこれから十勝、知床といく予定や釣りのことなどを語った。そして最後に気になっていたことを聞いてみた。
「ところで、ここの水は飲んでますか?」
「いや、生水はわかしています」
 キャンプ場の入口には『生水は飲むな』と書かれていたのだが、炊事場の水は大丈夫ではないかと思っていたので聞いてみたのだ。彼ら3人はリーダー格の若者だけが話し、残りのふたりは黙っていた。シャイなのだ。この年齢によくある、素直だが不器用で、愛想よくできない男の子たちで、私は外見で若者を判断する基準をいささか修正した。

 夫婦はテントにこもっていて、妻の咳だけが響いて陰気な雰囲気である。サイクリストたちは食事を済ませていて、テントの前でコーヒーを飲んでいたが、疲れていたのだろうやがて寝てしまった。私は味噌ラーメン雑炊を食べ終えたが、時刻はまだ19時30分で、眠っている人には悪いが、バイクのエンジンをかけて風呂にいくことにした。

 キャンプ場の入口に『ルック栗沢温泉観光ホテル』まで3キロと小さな案内がでていた。入浴料は大人400円、子供200円と。真っ暗な山道を行くとすぐにホテルに着く。鉄筋3・4階建てのホテルだが、古くてさびれ、駐車場にとまっている車も数台だ。中に入ると受付には誰もいず、控え室をのぞくと、お父さんがテレビを見ながらひとりで食事中だった。コーラを飲みながら。このお父さんが経営者のようだが、ほかに従業員はいなかった。

 料金を払うと、風呂は23時までなので好きなだけゆっくりしてくれ、と嬉しいことを言う。それではと、まず公衆電話から自宅にダイヤルする。家内がでるかと思ったら息子がでた。家内は母の病院にでかけて不在とのこと。そこで携帯にかけなおすと最寄り駅から自宅に歩いているところだった。母は今日手術だったのだが、
「昨日は、もう来なくてよいと何度も言ってたけど、嘘だった。来てもらいたかったんだよ」と家内。
 1時間かかったという手術の後に行ったそうだが、眼が安定するように、母はうつぶせで寝ていたという。そして家内がいくと非情に喜んだそうだ。父は、母の来なくてよいという言葉を真に受けて、見舞いに行かなかったそうだが、
「空元気で言ったまでで、毎日来てくれと言えないからそう口にしたまでで、内心は来て欲しかったんだよ」と家内。家内は明日も見舞いにいくと言っていた。

 ルック栗沢温泉観光ホテルは外観も古かったが、風呂も同様だった。広いのだが経営が苦しいのか、それとも気にしないのか、脱衣所も浴室も乱雑で神経が行き届いておらず、将来が危ぶまれる。浴場には先客がひとりいたが、電話中に帰ったので私の貸し切りとなった。

 サウナもあってゆっくりしたいが、遅くなってサイクリストを起こしてしまっては悪いし、私自身も疲れているから早々に切り上げた。ホテルをでるときにテレビを見ているお父さんに、どうも、と声をかけると片目でこちらを見て、右手をサッとあげただけ。こりゃダメだ、と思ってキャンプ場にもどった。

 テントに入って焼酎を飲みメモをつける。昨夜、夜露に濡れたせいかラジオの音がでなくなってしまった(ここは電波状態が悪く、ラジオも入らなければ携帯も圏外だ)。サイトの左右を流れる小川の水量は少ないが、テントに入って文字を書いていると、水流の音がたかまった。

                                                295.3キロ  3207円