9月2日(日) 官尊民卑の国から夜の函館へ

 

 岩洞湖家族旅行村キャンプ場の朝

 

 2時30分と4時に眼がさめたがまた眠り、5時に起床した。朝方冷え込んだがエアー・マットと毛布のおかげで快適だった。ほかのキャンパーはまだ起きていないなか、昨夜残しておいたラーメン雑炊を火にかけて朝食にするが、誠にまずい。それでも金がかからないにこしたことはないから完食した。食器と顔を洗っているとキャンパーが起きだしてくる。早朝の薄く靄のかかったような空気と、夜の匂いののこる森がどこか物憂げだった。

 荷物を運ぶこととし、ヘルメットと三脚を持って木の階段をサンダルで上がっていくと、朝露で濡れた木に足を滑らせて、転倒してしまった。しかも横様に倒れて3メートルほど階段の下まで転げ落ちてしまう。左の太腿と右の膝をしたたかに打ちつけて、痛いのなんの。しばし動けず唸り声をあげてうずくまる。幸いにもただの打ち身で済み、誰にも見られなかったからよかった。

 テントを撤収して荷をまとめ、出発したのは6時15分だった。管理人はまだやってこないから料金は払わなかったのだが、帰宅してから調べてみるとここは無料のキャンプ場だった。盛岡まで45キロとでている。昨夜は暗い夜道で45分かかったから、明るくなった今はもっと早くつくだろうと考えてジャリ道を行く。昨夜は恐々やってきた林道も、明るくなればあっけらかんとした、なんでもないジャリ道だった。

 やがて湖畔の国道にでて、高速コーナーのつづく高原道路を爽快にくだっていく。空気が涼しくて、風を切ってバイクで走ることがたまらなく気持ちがよい。アクセルを一定にたもって直線をいき、カーブの手前ではアクセルをオフにしてギヤを落として減速し、コーナーに進入するとバイクを寝かし込んで、アクセルを開けながらカーブをぬけていく。バイク乗りにしかわからない、バイクを操る痛快さに自然と口元がゆるむ。この心地よさはバイクが味あわせてくれる幸福感とも呼ぶべきもので、気温や場所、ライダーの気分などの条件が重なったわずかなときに、やってくるものだ。ところで盛岡についてみると、かかったのは45分で、夜も昼も変わらぬ所用時間に拍子抜けしてしまった。

 岩手大学農場前は18℃。その先の自衛隊前は22℃だった。気温は低くて革ジャンを着ていても日陰では寒いほどだ。安比高原には7時45分、安代には8時につく。車の流れが速く80キロで走っているとぬかれる。100キロをすすむのに2時間かからないから、山道であることを考えればすごいペースだった。

 安代、鹿角間はすばらしい渓相の川が何本もあった。北海道にいくのを急いでいなければ竿をだしたいところだが、ハイペースの車にあおられ、道をゆずってはついていくことを繰り返していて、川もチラッと見ただけで、釣り人もひとりだけいたのを視野の端でとらえたのみで通過した。しばらく女性ドライバーの後ろも走った。やはり抜かれた車だが、女とは思えない運転をする人で、一時ペースメーカーになってもらった。

 8時50分に鹿角にはいり農協のスタンドで給油をした。26.76K/L。1242円。農協だからだろうか、それとも一見の客は2度と来ないと思っているのか、若い女の店員は誠意のない態度だったが、ツーリング中に接客の悪かったGSはここだけである。鹿角は祭りの準備をしていて、広場に地域の人の軽トラが集まっていた。男だけが寄り合いに集っていて、軽トラは50台はあり、壮観だな、しかし田舎だな、と思う。これがアメリカならばピック・アップ・トラックなのだろうが、日本は4駆の軽トラなのだ。

『汚すまい 国が定めた観光地』。鹿角の町中にあった標語である。思わず吹きだしてしまい、次に情けなくなり、悲しくなってしまった。国が観光地として認めたことが誇らしいのだろうが、国や官を上に見る卑屈な精神や風土が透けて見える。お上から言われたことを金科玉条のように承る人々の生活、それを疑問にも思わずに生きていて、町のメイン・ストリートにあの標語を掲げている精神構造、集団心理がたまらなく嫌だった。 

 

 大湯環状列石 ストーンサークル

 

 大湯環状列石ーーストーンサークルーーに寄り道した。1983年の北海道ツーリングの帰りに見たことがあったからである。行ってみると博物館が建ち、公園のように芝生が張られてきれいに整備されている。昔は直径2メートルほどのサークル状の列石とプレハブ小屋が道路沿いにあるだけだったのだが、今は池のようなところに石がびっしりと埋められている遺跡がありーーこれはじつに興味深く不思議な遺跡で、祭祀に使われたのだろうかーー高床式の住居も復元されていた。ずいぶん変わったなと思うが、池のような大規模な遺跡はなかったから、場所がちがうのだろうかと自信がなくなった。ストーンサークルは各地にあるから三陸で見たのだろうかと考える。しかし帰ってから調べてみると、1983年のルートではストーンサークルはここにしかないから、昔の小さな遺跡が遺跡公園として整備されたようだ。しかし整備されたのも良し悪しで、ストーン・サークル・グッズという俗っぽい看板がでているのを忌々しい気持ちでながめて出発する。気温は上昇して暑くなったのでここで革ジャンをぬいだ。

 東北で見たいところは十和田湖とその先の酸ヶ湯温泉だけだった。高校1年のときに友人3人と自転車で東北一周のサイクリングにでて、そのときの思い出がここにあるためだ。あのときは青森から八甲田にむけて長くて辛い登り坂をすすみ、泊まったのが酸ヶ湯温泉キャンプ場だった。その晩から集中豪雨がやってきて、翌日はテント内での停滞を余儀なくされたが、当時使用していた家型テントはグランド・シートが一体式ではなくて、大雨でテントの床を水が流れるようになり、バンガローに避難した。そして雨で狭い空間に閉じ込められているうちに、私たちは日頃の不満をぶつけあってしまった。旅にでて10日目くらいだっただろうか。毎日朝から晩までいっしょにいて、互いにどうしても我慢がならない気持ちが高まっていたところに、雨の停滞が重なったのである。私たち4人のパーティーは空中分解して、翌日バラバラに走りだしたが、ときに2人になったり、3人になったり、また1人きりになったりしながら南下し、数日後に帰宅した。今となれば良い思い出だが、それから私はソロで旅をすることにしている。

 

 発荷峠から十和田湖を望む

 

 十和田湖にむかう国道103号線で山をのぼっていくが、これまでに高度をかせいでいたようでおだやかな坂道だ。その国道をすすんでいくとカーブに先に突然十和田湖があらわれた。発荷峠だ。十和田湖は引き込まれるような色をしているので、思わずバイクを歩道に乗り上げてとめた。湖のなかには岬のように張り出している浮島がたくさんあって、水の色と島の緑、それに空の色がたがいに引き立てあい、それぞれがひとつの風景におさまることで眼のはなせない遠景となっていた。快晴だった、と記憶しているのだが、あらためて写真を見ると不穏な雲がわきだしている。私の背後には展望台があって、そこにはたくさんの観光客がいて私と同じように十和田湖を見ている。私は彼らに見おろされる形となっていて、気分はよくないから展望台にいこうかと思ったが、ふつうの観光客のなかにひとりだけ異質な存在のライダーの私が入っていくことに気後れを感じて、足をむけなかった。

 飽きることなく十和田湖をながめる。湖は遠くから見るにかぎるというのが私の持論だ。遠くから眺めれば美しいが、近づくと細部の見たくないものまで眼に入ってしまい、神秘性が失われてしまうからだ。湖は遠くから見るにかぎる。腕を組んで十和田湖に見入った後でまた走りだした。

 発荷峠は距離は短いのだが、湖畔から峠までスイッチ・バックするように一気にのぼる急坂の峠だ。自転車でのぼったときは泣きたいほど辛かったことを覚えている。その坂をDRで下っていくと、急坂と急カーブでブレーキをかけると荷物が前にずれて、背中にドカンとぶつかってきた。こんなことも最初で最後のことだったが、生意気な荷物を腰で押し返し、どやしつけておいた。

 十和田湖畔にはホテルやキャンプ場が点在し、観光客もたくさんいた。道の上には樹木が生い茂り緑のトンネルをいくようだ。すぐ左手には湖があるが、木々にさえぎられてよく見えないし、湖は遠くから眺めるものだから、身近になってしまった十和田湖には執着はない。国道103号線をすすみ休屋から八甲田にむかう。休屋には高村光太郎の乙女の像があるし、その先の子ノ口はみやげもの店などでにぎわっているが、そういうところには興味がない。関心があるのは酸ヶ湯と12時30分発のフェリーだった。12時30分の次の便は16時30分になってしまいーーこれは間違いだったーー4時間もあいているからである。青森ー函館間は3時間40分かかる。12時30分の船に乗れば函館に16時10分につき、余裕をもってキャンプ場にいくことができるが、16時30分発のフェリーでは函館に到着するのは20時10分になってしまう。それからキャンプというのはいかにも厳しいから、なんとしても12時30分の便に乗りたかった。

 奥入瀬に入った。たしかに美しい渓谷だが、ふだん渓流釣りをしている私から見ればバイクを止めるほどではない。しかし先にいくと渓流を歩きなれた私でも見入ってしまうような素晴らしい場所もあった。さすがに天下の景勝地で、ここで写真をとりたいと思ったのだが、先を急ぐ身ゆえ通過した。奥入瀬は何キロにもわたってつづく。狭い道に観光バスがとまり、沢沿いの遊歩道には人々が感嘆の表情で、あるいは忘我の姿で、風景を見つめている。遊歩道を散策したらかなりの時間がかかりそうだが、それだけの価値のあるところだった。

 奥入瀬をぬけるころから雨が降りだした。空は明るいし雨は弱いから、カッパは着なくとも大丈夫だろうと考えて走りつづけると、雨足は強まったり、まったく止んだりを繰り返す。そろそろ腹が空いてきた。フェリーに乗る前に食事をするとすれば、山のなかでラーメンを作るのがベストだ。青森の市街地まで下ってしまったら、昨日と同じく煮炊きをすることはできないだろう。いずれにしても酸ヶ湯についたら休もうと考えてすすんでいった。

 その酸ヶ湯の手前で雨足が強まった。しかし山の下は晴れているから、雨具はつけずに酸ヶ湯にいたる。昔キャンプ場だったところは駐車場になっていて、バンガローともども跡形もないーーその奥に現存していることを後年確認したーー千人が入れるという男女混浴で有名な酸ヶ湯温泉の木造の建物は以前のままだが、雨が強くなってしまったので、思いを残して通過した。

 このときにカッパをつければよかったのだが、雨から逃げられると考えたのが裏目にでて、すぐに土砂降りになってしまった。しかたなくその雨の下でレイン・ウェアを着るが、もう手遅れなほど濡れてしまっていて、とくに靴は水浸しになっていたから、ブーツカバーはつけない。身支度を整えると、強い雨が路上を流れている山道を青森に下っていった。

 高原地帯の菅野茶屋付近は濃霧も発生していた。混んでもいるのでスピードが出せず、フェリーの時間がギリギリのタイミングとなって焦るのだが、思うように飛ばせないのがもどかしい。そして八甲田を下りると雨も濃霧もきれいになくなり、青森市街は夏の強い太陽がでている。なんだよ、と思うが山の天気はこんなもの。カッパを乾かすために着たままで走るが、なんとかフェリーに間にあいそうになってきた。フェリー内の食事は高いので、ローソンでパンとおにぎりなどの昼食を買って、フェリー・ターミナルに急いだ。

 案内板にしたがって青森駅前につくと、青森ブリッジをわたればフェリー乗り場となっている。しかしその青森ブリッジは県民マラソン大会のために通行止めになっていた。12時15分だった。フェリー乗り場は目前である。青森ブリッジの先を見て、方向を読み、橋の下の道をつないで埠頭にすべりこむ。フェリーはすぐそこに停泊している。間にあった、と思うとそこは大間行きのフェリー乗り場だった。函館ナンバーのヤマハの3人組もやってきたが、やはり彼らも間違っていて4台で走りだす。私が先頭だ。

 警官がいたので聞くと、青森ブリッジをわたればつくから戻ればよい、と言う。通行止めではないのか?、と聞くと、それでいいんだとの答え。警官が断言するので疑問に思いつつも青森ブリッジに引き返すが、やはり通行止めだ。どうしたらいいんだよ、まったく!。青森ブリッジの入口にいた警官にたずねると、国道から行け、と言う。国道はどこ?、聞くと、なんにもわからないの?、という信じられない言葉がかえってきた。わからないから聞いているのだ。こんな警官には初めて会ったが、バイクに乗っている人間を見下しているとしか思えず、首都圏には20年ほど前まで存在し、その後絶滅した、官尊民卑の意識のぬけない警官が青森にはまだ生き残っていることを知らされた。しかし道をたずねて間違いを教えられたのは警官の思い違いだろうからよいとしても、なんにもわからないの?、正確には、なーんにも、わかんねの?、と発言した青森の警官の言葉と態度は、ずっと心にのこった。

 国道をぶっ飛ばしていくが、フェリー・ターミナルに着いたのは12時35分で、岸壁をはなれたばかりのフェリーがすぐそこに見えていた。じっさいには12時20分に到着したとしても乗船できたかどうかわからないが、このときは青森のバカヤロー!、と思っていた。県民マラソン大会をするなら、わかりやすいように迂回路の表示を出しておけ!、無能な青森県警と地元の人間のことしか考えない視野の狭い青森県人め!、と。

 

 フェリー・ターミナル 濡れた服を干す 中央はヤマハの3人組

 

 ちっくしょう、せっかく間にあうと思っていたのに次の船は16時30分かよ、と思っていると、次便は14時20分だった。4時間も待たなくてすんだが、それでも2時間もある。乗船手続きをしてカッパを干しながら、コンビニで買ってきたパンを食べていると、函館ナンバーの3人組がやってきた。ヤマハの大型アメリカンに乗っている、50くらいの人たちだ。彼らは、
「早かったね」と話しかけてくる。
「いやぁ、でもフェリーには乗り遅れましたよ」と答えると、
「そうなんだ、それは残念だったね。しかしさっきのおまわり、間違いを教えていただろう」
「そうなんですよ。通行止めの橋をわたれと教えられて、逆に時間食っちゃって」
「俺たち後ろにいてさ、こりゃ間違いだってんで、ほかにまわったんだ。それにしても、県民マラソン大会か何か知らないが、失礼な話だよな」
「まったくですよ」
 彼らは室蘭行きに乗船していった。室蘭行きは函館便の前の出港だった。

 フェリー・ターミナルのトイレで雨に濡れた服を着替えて、濡れた衣服はカッパのとなりに干し、東北の地図と北海道のものとを入れ替えていると、ホンダCBR400の女の子がやってきた。ひとり旅なのかな?、と思っていると、派手なカラーの外車に乗った男性がやってきたからカップルのようだ。そのほかに函館ナンバーのオフロード・バイクが30台ほどと、以前はまったくいなかった大型スクーターが何台かいるが、スクーターでツーリングをする人は初めて見たので、なんだか場違いのような、不思議な感じがした。このころまでスクーターはツーリングをするものではなく、もっぱら都市での移動手段でしかなかったのだ。こんなものでーー失礼ーーツーリングをするという発想がなかったが、その後バイクのオートマ免許も出現したから、この頃はスクーターが市民権を得るはしりの時期だった。

 乗船開始は出港の30分前の13時50分だったので、待ったというほどのこともなく、船中の人となった。フェリー代は4090円。2等室の大部屋だがこれで人間とバイクが北海道にわたれるのだから安いものだと感じた。

 船員にDRを固定してもらうが、荷が重いので車体が大きく傾く。バイクが船の揺れで倒れるのではないかと心配になるほどで、コンテナ・ボックスの上に載せている大型ダッフルバックをおろしておいた。乗船はバイクがいちばん先だ。入浴の準備をしておいたので混まないうちに風呂にいく。フェリーに乗ったらすぐに風呂というのは昔からの流儀だ。1983年は風呂に入れたのだが今はシャワーのみとのこと(たまたまこの船だけそうだったのかもしれない)。それでも昨日は入浴していないので飛んでいった。シャンプーは持っていたが面倒なので、備えつけの石けんで頭から足の先まで洗う。サッパリとして清潔な服を身につけて船室にもどると、車の人たちが乗り込んできていたが、船内は空いている。混雑する8月を避けて9月になってから来て正解だと思った。

 やがてフェリーは出港した。そう、港をでる前にシャワーを浴びてしまったのだ。船内で2等の大部屋に横になって函館についてからのことを考える。函館に上陸するのは18時過ぎだから、近くのキャンプ場に直行するしかないだろう。ガイドブックで調べてみると、函館の西隣りの上磯町にキャンプ場がある。フェリー・ターミナルから10キロほどの距離で無料だから、今夜の宿はここに決めた。

 船内から甲板にでてみると、右に夏泊半島、左に津軽半島が見える。そしてたくさんのカモメたちがフェリーについてきていた。写真をとっている人が多いので私もシャッターを押してもらう。風に吹かれていると気持ちがよい。海上で風景をながめながら海風にあたっていると、ものすごく開放的で、清々しい気分になる。日常とはかけ離れたことをしていることから感じる、旅の空の下の幸福感だ。船室にもどってしばらくすると、右手は下北半島の仏ヶ浦と呼ばれる断崖絶壁のつづく景勝地となった。すばらしい絶景なのでもう一度甲板にでて仏ヶ浦をながめる。そしてこれを見なければいけないなと思う。この海峡と下北半島を眼にして、放浪の非日常のときめきを味あわなければ生きているとは言えない、と。そして今が人生のハイライトだなとも感じたのだった。やはり旅行はしなければいけないと思う。今は受験の真っ只中にいて、脇目もふらずに熱中している家内や息子にも、この海峡と半島と絶勝を見せ、海風を受けさせて、同じ幸福感を味あわせてやらなければいけないなと思うのだった。

 陸奥湾をぬけて津軽海峡にはいると船はわずかに揺れた。甲板は強風となる。それでもカモメはついてきていた。船内で横になって記録をつける。ついでに残金をかぞえ、使った金額を合計し、持ってきた総額を計算してみた。手持ちは78327円で、持って出たのは86767円だ。じつに心許ない金額だが、予定通りにケチケチツーリングをしていけばなんとかなるだろう。

 函館に近づくと揺れはおさまったから、船が動揺していた時間は30分もなかった。17時45分には下船準備のアナウンスが入り、すぐに船倉におりて、下ろしておいた荷を積みなおして出発の準備をするが、この時点で周囲のトラックや乗用車はアイドリングを開始している。フェリーは着岸しても船体を固定するのに時間がかかるし、バイクが下船するのは最後だから、船倉には排ガスが充満してむせかえるようだ。後年、車のエンジン始動は下船の直前になったが、このころまではライダーへの配慮はまったくなかった。下船したのは18時10分だったが、こんなに待たされたら排ガスで死んじゃうよ、ほんとうに。

 バイクはフェリーから一団となっておりた。ターミナルから国道にでると、すべてのバイクは右の函館方向にいく。そこをひとりだけ左にまがり、国道228号線を6キロ、10分ほど西へ走り、道道96号線に入って北上する。日は暮れかけている。すぐにキャンプ場にいたる分岐があらわれて、林のなかに廃屋がたつ山道にはいった。

 北海道に浸透していくが、その実感はなく、日は落ちて不安になる。キャンプ場にひとりだったらどうしよう。熊は大丈夫だろうか。それより野営場はやっているよな? こんなに心配するのは嫌だから、次こそ明るいうちにキャンプ場に入ろうと思うのだった。

 上磯ダム公園キャンプ場は道道の分岐からすぐで、ついたのは19時だった。管理棟の前には首都圏ナンバーのホンダXL250S(懐かしい!)とヤマハのTWがならんでいて、芝生のサイトを見るとテントがひとつだけ立っている。ひとりではなくてよかった、と思う。彼らは若いカップルで、ふたりに軽く会釈をし、彼らのテントからは離れた電灯の下にテントを張った。そこはバイクから50メートルほどの距離があり、荷物をはこぶのに苦労したが、テントの設営はまた5分とかからない。空気を入れるのに時間のかかるエアー・ベットのポンプを踏みながら塩ラーメンを煮る。その塩ラーメンを食べるが足りずに味噌ラーメンもつくり、その間もポンプを踏んだ。やがてベットがふくらんで味噌ラーメンを口にするが、食べきれずに残してしまう。もったいないので無洗米を入れて嵩増しておき、明日の朝食とすることにした。

 視線を感じて振り返ると猫がいる。熊でなくてよかったが、この奥10キロで出没と看板がでていた。食器を洗っているとカップルもやってきた。彼らはちゃっかり管理棟の休憩室で寝ようとしている。同じ首都圏なので、近くですね、と話し合う。彼らは明日北海道をはなれるのだそうだ。林道は走りましたか?、と聞くと、まったく走行しなかった、とのこと。ふたりとも気持ちのよい人たちだ。彼にXL250Sのことを話すと、当然のことながら昔のことは知らない。大ヒットしたんだよね、と言うと、僕は知らないですがそうらしいですね、との答え。彼が生まれたころか、その前のことだから知らなくて当然だった。

 テントにもどると猫がラーメン雑炊に寄ってきていた。追っ払うが、熊の生息地では食料は必ずテントから出すものだが、ここは大丈夫だろうと思い、テント内に置いておく。そしてテントに入って家内に電話をかけた。昨日、母が白内障の手術を受けるために新宿区の病院に入院したのだが、明日見舞いに行くと言う。見舞いの品も派手好きな母の好みにあわせてパジャマを用意してあるのだそうだ。母は明後日に45分の手術を受けることになっている。一度電話を切って父にかけ、母の病室をたずねてまた家内にダイヤルする。15階の病室にいるからよろしく伝えてくれ、と言って電話を終えた。じつはあることで私は父母と不仲になっている。しばらく会っていないし、母が入院すると聞いても見舞いにいくつもりもなく、ツーリングに出たのだ。それを家内が気にかけてくれているのである。

 テントのなかでメモをつけ、焼酎を飲むが21時30分には意識をなくしてしまった。そして熊に襲われる夢を見た。熊はテントのなかのラーメン雑炊をとりにきて、私はそれを熊に投げつけて逃げだし、カップルの寝ている管理棟に走っていく夢だ。帰ってから家内に話すと、眠る前に考えた、そのまんまの夢ね、と言われる。たしかに指摘されればそのとおりで、我ながら単純だと思った。

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