9月1日(土) 一般道をひたすら北へ

 

 国道4号線沿いのパーキング 一関付近にて リヤ・タイヤが驚くほど磨耗

 

 4時30分に起床した。もっと早く起きようと思っていたのだが、目覚ましをかけずに自然にまかせていたら、この時間になった。気温は低く肌寒い。バイクを家の前に引き出して荷物を積んでいくが、量が多くて重いので、バイクがサイドスタンドで立っていられずにひっくり返ってしまいそうだ。それほど大量の荷をバイクにしばりつけたが、荷物が多いのはキャンプ道具のほかに釣り道具があるためである。

 早朝のテレビでは臨時ニュースが繰り返しながされていて、新宿の風俗店の入っている雑居ビルで火災があり、12人が死亡し、多数の行方不明者がでていると伝えている。物騒な事件だなと思ったが、これが放火による火事で、死者が44人にもなったと知ったのは数日後のことだった。そして犯人はいまだに逮捕されていない。

 寒いので北海道についてから使うつもりだった革ジャンをはじめから着て、5時30分に出発した。走りだすと荷物が重くてふらついてしまう。タンデムをしているような重量感で重心も高いから、運転がしづらい。ハンドルは重いし、ふらつくのを力ずくで支えるから、腕と肩に力がはいって痛み、首と腰も凝ってくる。ブレーキのききも悪いし、信号待ちで止まっているあいだもバランスをとるのに気をつかう。走りだして10キロほどはこれで北海道まで行けるのかと不安になったが、それもしばらく走れば慣れてしまい、気にならなくなった。

 埼玉県を通過して国道新4号線に入ると、片側2車線の広い道となり、流れも速くなって高速道路のようになった。宇都宮、矢板と通過していくが、お尻が痛くなったのでちょうどあったコインスナックで休憩をする。ここでは何も買わずにトイレだけ利用させてもらったが、今回のツーリングはとにかく金をつかわないことを第一としていた。旅費が心許ないからだが、ツーリングには何が起こるのかわからないから、なるべく多くの金を残して旅をつづけたいと思っていた。金にシビアな私としてはーーケチとも言うーーそれが自然なことではあるのだが。

 白河を通過し9時30分に郡山にいたると混んできた。10時になると気温があがってきて信号待ちでとまっていると暑い。走ればちょうどよいのだが、赤信号は我慢の時間だった。

 昼時となり腹が空いてきたが、今回は徹底的に金をつかわないようにするため、食事はすべて自炊するつもりだった。そのために格安で買ったインスタントラーメンと無洗米を持参しているので、ラーメンを作れる場所をさがすが、4号線沿いにそんなところはない。何かないかと道路の先を見つめて走るが、めぼしい場所はないし疲れてもきた。そんなときに『あただら清流センター』の看板があったのでここに行ってみると、公園かと思ったら地域センターのような立派な施設で、大きな建物と芝の張ってあるきれいな庭はあったが、とても火を使えるような雰囲気ではなく、水だけ飲んでまた走りだした。

 その後も自炊ができる場所を物色していったのだが、思うようなところはなく、諦めて吉野家に入った。計画がはじめから狂うのは誠に無念だが、牛丼並280円を昼食としたのは12時30分である。ーーこのころは不況の真っ只中で給料を減らされる者や職を失う人が多く、世相も暗かった。社会全体が自己防衛のために金をつかわないように萎縮していて、マクドナルドとロッテリアのハンバーガーが平日半額の65円の時代だったが、マックでハンバーガーを2個だけ買って飲みものは注文せず、店のトイレの水を飲んで食事を済ませるサラリーマンの話が新聞やテレビに取り上げられたりしたほどで、私がこんな旅をしたのもあながち極端なことではないと思う。私は自分がケチなことは否定しないが、一応時代背景を申し添えておく。

 吉野家を出ると革ジャンを脱いだ。元々暑くなっていたのだが、食事をしたら着ていられなくなったのだ。革ジャンは大きな荷物のそのまた上に縛りつけておいた。北上を再開し13時50分には仙台につく。ここまでは最近も来ていたが、この先は1983年以来である。それを意識して、1983年やそれ以前の東北の旅を思い起こしながらすすんでいった。

 ガスがリザーブとなったので給油をする。いつもはハイオクを入れているのだが、店員との行き違いでレギュラーを入れられてしまった。ハイオクにすると低速でのノッキングが軽減され、わずかに燃費もよくなるので、ずっとハイオクを使ってきたのだが、レギュラーのほうが安いから、これでよかったのかもしれないと思う。24.3K/L。94円の単価で合計1599円。ふつうに走るにはレギュラーでまったく問題ないから、これ以降ハイオクを入れるのはやめてしまった。

 GSでは休憩をとった。缶コーヒーを買ってソファに座っていると、
「北海道に行くの?」と若社長に聞かれる。45くらいの人だ。
「ええ」と答えると、
「ここがちょうど東京と青森の中間で、あと6時間かかるな」と教えられた。青森まで6時間とは思ったよりもかかる。
「ただ、この先は空いているから、思ったよりも速く、楽になる」とのことだった。

 再び4号線を北上していく。15時30分に一関を通過して、道路わきにあったパーキングで休憩をとる。荷物のバランスが悪いので積みなおしてポリタンクの水を飲むが、水は買うなどもってのほかで、無料の水道水利用である。生ぬるいがタダほど美味しいものはない。ところでここでタイヤを見てみると、驚くほど減っていた。タイヤはこのツーリングに備えて前後とも練馬のボンバーでーー漫画の『あいつとララバイ』に登場する店であるーー交換してきたのだが、リヤ・タイヤの山がすでに半分以下になってしまっている。フロント・タイヤはリヤほどではないが、この勢いで磨耗するようでは前途が不安であった。

 夕刻が近づいたので宿泊地を検討する。計画では安代の手前の高森高原にある無料キャンプ場に行きたいと思っていた。ここは道がわかりにくそうなのがネックなのだが、それでも問題なく着けるはずだと考えていた。日暮れは19時30分くらいだろうと踏んでいたが、これが誤算だった。9月に入ったばかりだというのに、季節はいつの間にか日を短くしていたのである。

 15時50分に中尊寺を通過して17時に花巻についた。日暮れは19時30分と読んだのに、とてもそこまでもちそうにない空を見て、急ぎ足で町々をぬけていく。石鳥谷(せきちょうや)の道の駅があったので立ち寄ったのは17時25分だった。石鳥谷をなんと読むのかわからなくて、案内板を見て読み方を確認した。『せきちょうや』とはとても読めない地名である。この印象的な地は帰路にもツーリングの記憶をきざむポイントとなるのだが、ここにいたって日暮れが近いことが明白となり、今夜の宿泊地の最終決定をしなければならない時刻となった。候補地はふたつである。ひとつは前述の高森高原キャンプ場で、もうひとつは盛岡からルートを東にそれた、岩洞湖にある岩洞湖家族旅行村のキャンプ場である。ツーリングの日程を考えれば少しでも先にすすんだほう、高森高原がよいに決まっているが、そこまでは距離があるし、国道をそれて分岐をいくつもある山道を行かねばならない。昼間ならともかく、これからむかえば夜道となり、真暗な山道を道をたしかめながらすすむのは億劫だ。岩洞湖も山道を行くがこちらは国道である。また、高森高原キャンプ場は無料だが岩洞湖はわからない。いろいろと考えたが、より無難にいけそうな岩洞湖に泊まることにした。

 盛岡の街に入ったのは18時10分だったがすぐに暮れてきた。盛岡は岩手の首都で大きいことはわかっていたが、思っていた以上の大都市で驚いてしまう。その市街地から龍泉洞へといたる国道455号線にはいり、このルートで岩洞湖にむかうのだが、私の記録では県道と記されているから当時は国道ではなかったか、あるいは私の記録ミスなのか。いずれにせよ道は山道の登りとなり日は暮れてしまった。

 暗い山道を行くが、キャンプ場についても泊まれるのかどうかわからないから不安だった。家族旅行村というものもどういうところなのか想像もつかないし、そこにあるキャンプ場も学校が始まったばかりの土曜日だから空いているはずだが、それも着いてみなければわからない。車の乗り入れはできないとガイドにでているが、情報はそれだけだ。誰もキャンプしていないところにひとりきりというのもゾッとしないものだし、もしかしてキャンプ場はやっていなかったらどうしようかとまで考えてしまう。心配の種は尽きないが、とにかく泊まるところが決まっていないことが気分を落ち着かなくさせる。DRのライトが思ったよりも明るいことと通行量があることが救いだった。車が1台も来ないようでは不安もつのるが、次々にすれちがう車が心強く思えた。

 やがて岩洞湖が見えてきた。湖は闇のなかに黒々とひろがっている。展望所があり、その駐車場の暗がりが濃くて不気味だ。湖沿いに行くと家族旅行村への分岐点について、案内板にしたがって山のなかにむかう真暗な道に左折し、北上する。家族旅行村まで7キロとでているが2キロすすむとジャリ道となった。もちろん外灯などない林道を走っていく。ジャリ道も昼間ならばなんということもないのだが、夜にひとりで行くのは気分がよいものではない。1キロごとに案内がでていることが心の支えとなった。何もなく走る夜の林道の5キロは長すぎる。

 1キロごとの案内板を見てすすむと、やがて林道の先に明かりが見えはじめ、林をまわりこんでいくとキャンプ場の前にでた。正直ホッとする。テントは5張りほどたっていて、なんだ、けっこうキャンプをしているんだと思うと肩の力がぬけた。キャンプをする人は中央管理棟に届けよ、と表示されているので、奥にある中央管理棟にすすむが、すでに閉まっている。時刻は19時だから管理人は帰ってしまったのだ。ところで盛岡からここまでかかった時間は45分だったことに気づく。もっとずっと長い時間がかかった気がしたのだが、じっさいにはあまり距離はなかったのだ。

 管理人はいないので勝手にやらせてもらうことにする。中央管理棟の奥はオートキャンプ場で、ゲートにはロープが張ってある。手前にあったキャンプ場は出入りが自由になっていたし、料金もそちらのほうが当然安いだろうから、もどることにした。バイクで走っていくと路上にウサギがいる。動物園にいるようなバタ臭い奴ではなく、黒か灰の手足の長い、不格好な日本のウサギだ。日本人と同じくウサギも体のバランスが悪いなと感じられた。

 駐車場にバイクをとめて荷をおろし、テントの設営にかかる。テントは20年も使っているものなので3分とかからずにたってしまう。テントは安物の三角テントで、ドームテントが売りに出される前の年代物だ。つづいて無洗米を炊きつつ、エアー・ベットに空気を入れる。ポンプを踏むのだが、ベットは厚さが20センチほどあるもので、空気を入れるのに時間がかかるのだが、防寒のために持参したのである。このエアー・ベットの上に夏用の安物のシュラフをひろげ、これだけでは北海道の寒さに耐えられないから、毛布も携行していた。

 自宅に電話をして岩手のキャンプ場に落ち着いていることを告げた。炊き上がったご飯をインスタントラーメンのなかに入れて、ラーメン雑炊とするが、ご飯に芯が残っていてひどくまずい。それでも食べるが米の量が多すぎて残してしまう。捨てるのはもったいないので明日の朝食にすることにした。

 荷物をテントに入れて今日の日記をつけつつ焼酎をのむ。手や顔は洗ったのだが風呂に入れないことが残念だ。節約貧乏旅といっても入浴は毎日したいのである。雨がパラパラと落ちてきたがすぐにあがった。冷えてきたので長袖シャツを着てすごす。安代の高森高原に行こうと思えばいけたと思う。ここに来るよりは時間がかかっただろうが、山奥のキャンプ場にもたどりつけたはずだ。どちらにするかずいぶんと迷ったが、落ち着いてしまえばここでよかったのだと感じる。ベストでなくともそれに近い結果となれば、それが上出来の予定のない旅なのだ。

 21時30分には眠りに落ちそうになった。1日の疲れで自然と瞼がとじてくる。となりのテントの夫婦のボソボソとした話し声と、遠くで若い男女が大騒ぎを繰り返しているのが聞こえていた。若い男女は同じ調子で何度も繰り返し盛り上がるので、酔っぱらっているのだろうかと思う。それほど女の笑い声がつづくのだ。そこでよくよく聞いてみると、英語劇の練習だった。同じ場面を何度も稽古しているのだ。どうりで妙なわけだと納得したが、ここは健康的な施設だなと思った後の記憶が消えている。

                                               577.2キロ  2249円