9月10日 富良野にあそぶ

 

 

 航空公園キャンプ場の朝

 4時55分に目覚めた。ラジオをつけるとNHKのラジオ深夜便がおわるところだ。きょうはついに北海道をはなれる日、最終日になってしまった。テントからでて、備えつけのテーブルで朝食のラーメンをつくってたべる。まだ活動をはじめた人はいないが、そのうちにトイレそうじの女性が、昨日とおなじ時間にバルーンのイラストのはいったバンであらわれた。

 食器を洗い、荷物をまとめて、リヤカーにつんで駐車場にはこんでいく。芝生が夜露でぬれているので靴を濡らさないように注意してあるいた。テントはバイクにかけて朝露をぬぐう。6時になると隣のサイトにいた若いカップルがおきてきた。冷え込んだのに、Tシャツに短パン姿のおそろいだ。ふたりでいると暖かいのだろう。ならんで歯磨きをしているが、まことに健康的な、好ましい若夫婦(恋人同士か?)だった。

 駐車場にはスズキのガンマ500に刀のカウルをとりつけたカスタム車がいた。オリジナルのほうが好きだが、これはこれで迫力があり見入ってしまう。すごいことをする人がいるものだ。また昨日パターゴルフ場でいっしょだったNSR、風呂にいたBMWもとまっていた。

 テントとフライの水分をふきとって撤収し、6時48分にいちばんでキャンプ場を出発した。きょうは夕方の18時すぎのフェリーに乗るので、17時には苫小牧についていなければならないのだが、富良野にあそびたいとおもっていて、富良野から苫小牧までの距離をしらべていないので、それを気にしながらの出立だった。

 昨日通ったまっすぐな道をいく。玉ねぎを畑一面にしきつめている農家がある。玉ねぎはこのようにしてつくるのだろうか、それとも収穫なのか。いずれにしてもすごい量の玉ねぎだった。道道337号線から国道274号線をつかって鹿追町にはいるとセブンイレブンがある。はいろうとしたがゴミ箱がないので入店せず、すぐさきにあったセイコマにながれた。ゴミを捨てさせてもらって買物をしたのは7時39分でここでセーターをぬいだ。 

 R274からR38へすすむ。この分岐で昨年からいきたかった富良野の三日月食堂の営業時間をみてみると、11時からとなっている。11時よりもかなり早くつきそうだが、フェリーの時間にまにあうのなら、ここのラーメンをたべていきたい。まにあうのか、あわぬのか、自分でもわからずにすすむ十勝清水だった。

 十勝川は台風の影響がのこり、増水していて泥濁りだった。R38をすすんで新得へいくと屈足からきている道道がある。これのほうが近道なのでこの道をつかえばよかったと思う。国道は味気ないので。

 サホロリゾートの看板がたくさんでているなかをすすんでいく。佐幌川は支流で開発されていないのか水が澄んでいる。いまここで釣りをしたら相当よい思いができそうだが、時間がない。1合目、2合目と看板のでている狩勝峠にかかるがまわりの車のペースは速く、100キロでながれている。この速度で一気に峠までのぼっていくのだが、こんな峠道は本州にはないだろう。しいて言えば東名高速の御殿場への登りだろうか。しかしあれは高速道路だし峠でもないのだが、雰囲気は似ている。

 8時25分に狩勝峠についた。ひさしぶりなので駐車場にはいってみると、奥の売店でメロンの産直をやっていたので見にいく。中標津のカニで失敗しているので慎重に観察した。店はやはり第一印象が大事だ。直感で内容はほぼつかめてしまうものなので、行きがかりで利用することなく、ダメだと判断したらすぐにやめることが肝心だとつくづく思う。開店準備中の店の商品を見ても、ぴんと来ないので買物するのはやめ、ならびのみやげもの店にはいってみた。すると店番の老人がレジでタバコをすっているので、すかさず店をでる。仕事をしながらタバコをすうような人間は客をなめている。タバコがすいたければ別室にいけばよく、かわる人がいなければ我慢すべきなのだ。こんなことは商売の基本以前の問題だろう。

 駐車場のむかいには展望台があったのでのぼってみた。十勝平野が遠望できるが、見えるのは山肌の樹海がおおく、眺望にひろがりがなくてよろしくない。風景としては日勝峠のほうが広々としていてはるかによかった。道路をわたって駐車場にもどるが車のながれは100キロである。遠くに見えても車の姿があったら横断は危険だ。バスできていた観光客は添乗員の合図で道をわたりだすが、動作のにぶい人ははねとばされそうで、見ているほうが恐かった。

 狩勝峠をくだっていくと幾寅の駅がある。ここが映画のポッポ屋の撮影場所だそうだが、私の好みは芥川賞系(芸術系)の作品なので、直木賞(大衆小説系)のこの小説はよんでいないし映画もみていないので、感情移入するべくもなく通過する。私がたずねたいのは、さきごろまでテレビで放映されていた倉本聡のドラマ、『優しい時間』の舞台となった『森の時計』である。『森の時計』は富良野プリンス内にあって、テレビドラマとおなじように客が自分でコーヒー豆をひき、飲むことができるとガイドブックにでていた。

 富良野をめざして山をくだっていくと、山部にメロン農家がたくさんあった。ここで実家にメロンをおくろうと思い、1件の農家産直店にはいる。客がひとりもいない店は入りづらいので、車が2台とまっているところにしたのだが、車は買い物客のものではなく店のものだった。しかしここの40くらいのお母さんの対応がよいので、そのまま商品をえらんだ。1500円のメロンを3個、送料1000円でおくる。ここは料金ははっきりしているし、なにをきいても答えが即座にかえってきて気持ちがよい。お母さんと話しつつ宅急便の伝票に住所などを記入していると、
「お兄さん、時間ある?」と聞かれた。ドキッとすることばだ。誘われてもこまるのだが、無論そういう意味ではない。
「時間はないんだけど、どうして?」と聞きかえすと、
「きずもののメロンがあるから、切ってあげようかと思って」
 気持ちはうれしいが、私はお金には細かいのだが、きずもののメロンなどは口にしない。
「フェリーの時間とかあるの?」と問うので、
「そう、18時のフェリーに、苫小牧から乗るんですよ」
「苫小牧まで、3時間もあればいくよ」
 ほかにも行くところがあるので、と辞退したが、お兄さんと呼ばれると調子がくるう。そんな年ではないし、年下のお母さんからみればお兄さんかもしれないが、違和感がある。こういうときは、お客さんと呼んでほしいものだ。

「台風はすぐにいっちゃってよかったよね」とお母さん。
「そうだね。1日だけで助かったよ」
「そうよね。この辺は、去年の台風がひどかったから、ほんとうにあれで済んでよかったわ。あ、そういえば、ニュースで首都圏の犬からエキノコックスがでたって言ってたわ」
「ほんとうに? それはたいへんだ、犬に感染するとは聞いていたけど、どうなっちゃうんだろう」
「旅行に連れてきたペットの犬が、感染することも多いみたいよ」
 阿寒横断道路にいた、ヨークシャー・テリアをつれたキャラバン氏のことが頭に浮かんだ。
「キツネはこの辺にもたくさんいるのよね。悪さをしなければいいのだけれど、いろいろやるし、寄ってくるから、困るわ」
 会話をしているといつのまにか距離感がちぢまっている女性だった。発送をたのんで店をでようとすると、ゆできびを1本くれた。左党の私はほとんどたべないのだが、好意なので受け取って出発した。 

 お母さんに苫小牧まで3時間と聞いて心がゆるんでいた。ならば富良野でゆっくりして、三日月食堂でラーメンをたべて走りだしても、フェリーにまにあう。山部の町を通過しながら、そういえばテレビドラマの北の国からで、山部のじいさんが、という科白があったことを思い出しつつすすみ、五郎一家がはじめて富良野についた布部駅入口を通り過ぎた。

 国道38号線を北上して富良野の街にはいった。『森の時計』と『三日月食堂』の場所を確認するためにバイクをとめ、お母さんにもらったゆできびをたべつつ地図をみる。まだ9時45分なので『森の時計』にさきにいくことにした。国道の温度表示は22.6℃とでていた。

 森の時計のある富良野プリンスは、富良野の街の西側の山にある。台風の影響でやはり泥濁りの空知川をわたり、国道から左におれていく。すすむと北の国からに登場する『北時計』もあるが、とにかく『森の時計』にいきたいのでさきへはしる。案内がでているので、それにしたがっていくと富良野プリンスの駐車場についた。ここから森のなかにログハウスの店が点在するニングルテラスをぬけたさきに、『森の時計』はあるのだ。

 

 

 森の時計

 バイクをとめてニングルテラスをあるいていく。ここも北の国からに登場する場所である。ここにあったのかと思いつつすすんでいくと、ニングルテラスをぬけたさき、森をくだったところに『森の時計』がみえた。私がついたのはちょうど開店の10時で、店の外にならんでいた人たちが、入店しはじめたところだった。

 たいへんな人である。私もあのドラマが好きだったが、テレビの影響力はすごいものだ。店にはいりきれなかった人が30人ほど行列し、店の女性が客の名前と人数をきいてリストにしている。これではいつになったら店にはいれるのかわからない。1時間後か、それとも2時間後なのか。ここへくるまでは、テレビのドラマとおなじようにカウンターにすわってコーヒー豆をひき、それを店の人にカメラで撮影してもらおう、居心地がよければカレーやホワイト・シチューの食事もできるそうなので、昼食をとってもよいかもしれないなどと思っていたのだが、すべては甘い考えだった。きょうは土曜日なので大混雑だが、平日は空いているのだろうか。

 

 

 ニングルテラス

 森の時計にはいることは諦めて、写真だけとってニングルテラスの店をみながら駐車場にもどっていく。ここの店はどれも洒落ていてセンスがよい。鍛冶屋、カード店、万華鏡の店、そしてやさしい時間にも登場した銀細工の店など。そのなかで鍛冶屋の商品に魅せられた。手づくりのナイフ、携帯ストラップ、繊細な音のするベルなど。よほど買おうかと思ったのだが、迷った末にやめて、また後で後悔した。どうもケチでいけない。欲しいと感じた品は手にいれなければいけないのだ。つかってしまう数千円の金よりも、手元に記念の品がのこるほうがはるかに素敵なことなのだから。たとえば鍛冶屋の商品をもとめていれば、この文章を書いているときも、それを見て、触れることもできる。思い出を手でたしかめることができるのだ。しかし、つぎに買物で迷ったときに、かならず買うかどうかは自分でもわからないのだが。

 三日月食堂にいくことにした。富良野駅にむかい、近くにあるはずの店をさがすとすぐにみつかったが、まだ開店していない。そこで富良野駅入口にある、陶器店兼みやげもの店にはいって時間をつぶすことにした。商品をみていくと富良野の名のはいった皮製のキーホルダーが眼にとまる。いま使っているものはだいぶ傷んでいるのでこれに買い換えることにし、レジにいた80くらいのおばあさんに会計をしてもらった。

 店をでると前には有名なレストラン『くまげら』があった。ここにあったのかと見ていると、レジのおばあさんがでてきたので、1983年ツーリングでの疑問点のふたつのうちのひとつ、昔の富良野駅について聞いてみることにした。私の記憶している昔の富良野駅は、小さなもので、平屋の駅舎のなかに狭い待合室があっただけの、駅前広場もないようなものだった。現在の建物の半分ほどの規模だ。駅に隣接する民家の壁にはコールタールが塗ってあり、夏の陽のしたで、その臭いがただよっていた。国道から駅につづく道は、幅2メートルほどの細いものであった。それをおばあさんに言うと、そんなことはない、とおっしゃる。

 駅は建て替えられたが、昔の建物もいまのものとおなじくらいの大きさはあり、通りも拡幅されたが、昔のものは2メートルということはない、とのこと。考えてみると幅2メートルの道ということはなく、車が楽に出入りしていたので、倍の4メートルほどあったような気もしてきたが、駅舎の大きさが変わらないというのでは、私の記憶ちがいであり、開陽台の記憶もあやまりだったので、ふたつの疑問はともに私の敗北に帰したことになる。これまた1983年ツーリングに追記をいれなければならないなと考えた。

 おばあさんはここに30年住んでいるが、商店街にずっといっしょにいる人は、もはや3軒しかのこっていないと語った。地方都市ではおなじ人がおなじ土地に、ずっと住みつづけているものと思っていたので意外だった。商売の流行りすたりもあるので、商店街の住民も移り変わっていくのだという。ながくづついた不況が人々を押し流してしまった面も大きいだろう。

 おばあさんは、昭和50年に建てた店を建て直したいそうだが、市の都市計画がさだまらなくて、手をつけられないと嘆いていた。駅前の立地なので、建て替えたあとで都市計画が変更される可能性があり、その場合は立て直さなければならないので。私は富良野で生活できてうらやましいと思っていたのだが、人間の営みはどこに住んでいても、そんなに単純ではないことをあらためて知らされた。

 おばあさんと別れて三日月食堂にいく。しかしまだ開店時間になっていないので、むかいにある『ふらのチーズケーキ』と看板をだしている店でみやげを買い足して、ようやく三日月食堂にはいった。ここのラーメンが『るるぶ』に紹介されていて、昨年からためしてみたいと思っていたのだ。席について正油ラーメン600円を注文する。私のあとからも次々に客がはいってきて人気である。そしてほとんどの人が正油ラーメンをたのんでいた。店内には北の国からの出演者のサインがたくさんあり、来店時の写真も多数はられていた。 

 

 

  三日月食堂のラーメン

 ラーメンはすぐにでてきた。2年越しのラーメンである。さっそく食べてみるとあっさりとした味、大人好みの味つけだ。よくある昔風の支那そばではなく、オリジナルな複雑な味。しかし町のラーメン屋としては美味しいが、有名店とはくらべるべくもないレベルのもの。わざわざこれを食べにいくこともないほどでおすすめはできない。北の国からの出演者も、ホテルの食事やくまげらの料理ばかりでなく、たまには素朴なラーメンやカレーライスを口にしたいときもあるのだろうと想像して会計をした。またここは接客が親身ではない。繁盛店は謙虚なものだが、それが欠けているようだ。

 森の時計はまたいつか富良野にきたときにたずねようと考えて、苫小牧にむけて出発した。R38を山部にもどっていく。山部のさきの金山でR237にはいって南下するが、この道は交通量のほとんどない快走路だった。下金山ではテンだろうか、オコジョなのか、黒茶の動物が道路を横切り、直後にキタキツネが前を横断する。ヘッドライトをつけていないからだろうかと考えて点灯した。山のなかのルートをすすんでいくと、ここにもバッタがいてバッタスラロームをしていった。

 12時10分に占冠についた。はやくも運動会をやっている学校の横で地図をみて、日高にすすむ。昨年と2001年に通っている日高国道のR273はさけて、R274の石狩樹海ロードをはしる。林道もあるが最終日にトラブルがあっても嫌なのではいらなかった。トンネルの多い道を進行し、途中にある樹海苑でラーメンをたべたいと思っていたのだが、気がつくと通過していた。もっとも腹はいっぱいだったのでそのほうがよかったくらいだ。

 三国峠のように高所にかけられた橋もたくさんある、山深い道をいく。トラックに引っかかるとなかなかぬくことができないが、センターラインが白色になると追い越して快走した。気温は21℃。胸のすくような疾走をつづけ、思わず鼻歌もでるが、ツーリングの初日に感じたほど感激しなくなっている自分に気づく。この爽快感にも慣れてしまったのだ。

 穂別町をつきぬけて夕張の入口、紅葉山の交差点にいたった。夕張といえば快速旅團があり、いってみたいが市街まで16キロと表示されている。支笏湖で会ったチョイノリ氏の伝言も頭にうかんだが、距離があるのでいくのはやめてしまった(追記。2006年に『EOC』で團長さんにお会いし、チョイノリ氏のことはたしかに伝えましたぞ)。R274をすすんでいくと滝の上公園というのがある。こちらは国道の横なので寄ってみた。

 

 荒れる夕張川

 公園内の夕張川に2本の吊り橋がかけられていて、川には千鳥ヶ滝という大小無数の滝があると言うが、台風の影響で大増水している今は、泥色のあばれまわる濁流が、水煙をあげてドードー、ゴーゴーと、恐いくらいに逆巻き、駆けくだっている。それはそれで壮観だが、大あばれする泥色の滝ではおもしろいはずもなく、人はひとりもいなかった。ここには古いレンガ造りの滝の上発電所もあって、ノスタルジックな雰囲気をかもしだしてもいた。

 このさきのホクレンが、フラッグあります、と看板をだしていたので給油にはいった。23.64K/L。121円で1476円。フラッグは何色ですか、と聞くと、青です、とのこと。青なら2本あるからいらないよ、と受け取らずに出発するが、このすぐさきから道南エリアにはいり、フラッグも黄色になるそうだ。残念だが、べつにフラッグを集めにきたわけじゃないし、と上士幌の航空公園であったDF200氏の口調をまねていってみる私だった。ここではスタンプもことわったのだが、やはり帰ってからはなはだ後悔した。

 川端から道道462号線にはいって南下していく。この交通量のすくないローカルなルートにツーリストはいないだろうと思ったのだが、こんな道でもライダーひとりとチャリダーひとりがしっかり走行していた。追分町からR234にはいり、庭を無料キャンプ場として開放している『鶴の湯温泉』につかっていきたいと思ったのだが、案内板があると思ってすすむとなくて通り過ぎてしまった。

 しだいに道幅が広くなり、苫小牧市街にはいると、はやくもフェリー・ターミナルの入口についてしまった。時間はまだあるのでターミナルを通り過ぎ、苫小牧駅にいってみることにする。1983年の駅は木造平屋の白いペンキ塗りの建物だったが、いまはビルになり大きくなっている。駅のまわりも大きな建物やビルはなかったと記憶するが、現在はホテルやスーパー、銀行に証券会社もあって発展していた。1983年とおなじように駅前にバイクをとめ、周辺を歩きまわって写真をとり、ふたたびDRにまたがった。

 フェリーの時間にはまだ間があるので室蘭方向にすすんでいく。じつは気になっているものがあったのだ。それは車にとりつけられている青色LEDランプである。昨年の北海道Pキャンの旅のときから眼についていたのだが、北海道の車で青色LEDのランプを装着している車両はおおい。バイクに装備している人もいるほどだが、最近では首都圏でもつけている人がふえているので、自動車部品専門店があれば立ち寄って、製品を間近に見てみたいと思っていたのだ。青い光は動物よけになるのだろうか、それともただのファッションなのか。

 雲がでてきた。晴れがつづく予報だがあやしい雲である。風もふきだしたが、雨がふることもなかろうと考えて走っていくと、ポツポツとおちてきてしまう。すぐにあがるだろうと高をくくっていくが、一向にふりやまないので、たまたまあったセイコマにはいった。フェリー内での食料、おにぎりやパンなどを買う。セイコマで雨宿りをしていると小降りになってきたが、雲はさらに濃くなってきた。これではターミナルにいたほうが賢明だと判断してはしりだす。15時30分にはフェリー埠頭に到着した。

 乗船の手続きにいくが、2等を2等寝台にしたいというと、あっさり変更できてしまった。北海道に上陸した夜に、いっぱいです、と役人のような口調で言われたのはなんだったのか判断に苦しむ。キャンセルがあったのかもしれないが、対応が悪かったのでスッキリしない。しかし、いま眼の前にいるのはにこやかな女性社員なので、追加料金の2500円をだまって支払ってバイクにもどった。

 バイクの乗船は17時からの予定だが16時30分にくりあがるとのこと。あと1時間あまりなので早くついておいてよかった。DRのもとにもどって荷物をつみかえたり、メモの整理をしたりしていると雨足が強まり、そとにはいられなくなってターミナルに雨宿りにいった。

 ターミナル内はみやげもの店やレストランなどがあり、時間をつぶすことができる。店をのぞいたり、メモをつけたりしていると放送があって、バイクの乗船開始をつげていた。16時30分と予定通りである。さっそくDRのもとにかえってエンジンを始動するが、私よりもさきに準備がととのっているライダーもいるのに、彼らは走りださない。係員が誘導しようとしているのに、いちばんに行くのは嫌なようで、5・6台で顔を見あわせていた。

 恐いことなんて何もないのに。ならば私がと、いちばんではしりだしフェリー乗船待ちの地点に先頭でならんだ。うしろからだれかがいくのを待っていたバイクがゾロゾロついてきて、メダカの学校のようだ。係員の指示で入船し、メダカたちをしたがえて、船のいちばん底におりていく。地下4階だ。来るときとはちがって、機首を壁につけてとめさせられた。うしろから次々とメダカがつづくので、これでは降りるのは最後になってしまう。

 荷物をもって客室にあがっていくと、いっしょに歩いてきた人も2等寝台ばかりなので、2等から変更しておいてよかったと思う。荷を寝台におくとすぐに風呂にでかけた。順番は2番目である。1番は20くらいの若いライダーで、貧乏長期間ツーリングをした者特有の雰囲気をまとった人だ。トレーラーや乗用車が乗船してくるのを、展望風呂から見おろしつつくつろぐ。十分に汗をながしてから風呂からあがった。脱衣所で体をふいていると、壁に注意書きがはってある。
「コインロッカーの鍵が回らないときには、鍵を逆さまにいれ、まわして下さい」
 微笑してしまった。

 つづいて船内探索を開始した。見つけたいのは給湯室だ。船内図を見てものっていないので手間取ったが、売店でカップめんを売っていて、そこに給湯室の場所が書いてあった。

 任務を遂行したので発泡酒を230円で買い、ロビーのテレビをみつつメモをつける。きょうも記入には長い時間がかかった。発泡酒を飲みおえると寝台にもどってつづきを書く。気がつくとフェリーは左右にゆれていて、知らぬ間に出港していた。焼酎をのみつつメモを書きおえると、船内を散歩してみる。ドライバー・ルームではトラック運転手たちが宴会をしているが、運転手のひとりが絶叫していた。何度も、何回も。この宴会の大騒ぎは22時すぎまでつづき、トラック・ドライバーの体力とストレスのすごさに、おどろいてしまった。

 2等室はガラガラにすいていたが21時に消灯となった。これは昨年利用した東日本フェリーもおなじだったが、商船三井の船は明かりを消すまえに丁寧な放送がある。運営がまるでちがっていて、これではもう東日本フェリーを使うことはないだろう。

 ロビーに日経新聞があるので社会復帰のために眼をとおす。いつも読んでいる新聞だけにつぎつぎに記事にひきこまれる。明日は衆議院選挙があり、結果はどうなるのかわからないというのに、自民党の勝利を先読みしているのか、この1週間でおどろくほど株価があがっていた。酔っているので船の揺れが心地よい。ベッドにもどったのは何時だったのだろうか。

 

 

 

 

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