9月8日 敗退と転進の日 親切と悪意の1日

 

 

 台風一過の屈斜路湖

 眠っているあいだに猛烈な雨風がつづき、何度も眼がさめた。とくにバンガローの屋根をたたく雨音がすさまじい。キャンプをしなくてよかったとあらためて思う嵐の夜だった。

 一夜明けると雨は去り、晴れていた。風はまだ強いが雲はきれている。5時15分に起床して、バンガローの外で顔をあらっていると、ほかのバンガローに泊まっている青年が露天風呂にあるいていく。私もタオルを提げていってみた。

 露天風呂についたのは5時40分だった。老人がふたりいて観光客の夫婦と話をしている。老人のうちのひとりは全裸だ。バンガローの青年も裸になって風呂の端に胡座をかいているが、誰も湯にはいっていない。熱くてはいれないようだ。手をつけてみるとものすごく熱い。これではとても無理だ。昨夜はぬるかったのに、排水の具合などで湯温が変わるらしい。全裸の老人は地元の人だが、野人のように叫んでいた。
「この俺がはいれないんだから、ほかの誰もはいれっこない」
 老人は皮のかむった小さなものをさらけだしている。夫婦が湯に手をいれると、
「手をつけたってダメなんだぉ、俺がはいれないんだから、誰もはいれないと言ってるだろう」と叫ぶ。ガキ大将がそのまま老人になったような人だ。都会にはいないタイプの男。もうひとりの老人は服をきていたが、排水の按配をかえて、早くて30分、遅くとも1時間後ならはいれる、と言うので、昨夜は断念した探勝路をあるいてくることにした。風呂にはいれないでいる青年に聞くと、1時間くらいで歩ける、とのこと。また半島の奥にある公衆風呂は、こことおなじくらい熱いとのことだった。

 サンダル履き、タオルをさげた格好であるいていく。和琴半島は環境省の管理しているじつに美しく、景観のよいところだ。人の手のはいっていない昔からの自然がのこっているし、屈斜路湖につきだした半島なので、周囲は湖がひろがり、対岸にはゆるやかにうねる山なみが見え、水と山の色のコントラストが旅情を刺激する。朝からのんびりと散策するのもたまにはよいものだ。いつも前のめりに生きていて、旅にでても欲張って、せっかちに先へ先へと行くのはよくないと思う。そんな旅行をしているから、こんなによいところにも気づかなかったのだ。1983年に屈斜路湖にきたときも、湖のほとりで写真を1枚とっただけで立ち去ったのだった。

 探勝路は湖の水際の平坦地をいくのかと思ったらそうではなく、かなり登りくだりのある、ハイキングコースなみのルートだった。左右の森はふかく、熊笹が生い茂っていて熊がでてきそうな感じだ。じっさいにはいるわけがないと思うが、ときおり口笛をふいたり、声をだしたりしてすすんでいった。

 半島を左回りに歩いていくが、昨夜来の風雨でたくさんの枝がおちていた。大きなものは拾って左右の森に投げこんでいく。私が林道をはしるときも、だれかが木をどけてくれているかもしれないので。しかし枝は無数におちていてじきに疲れてしまい、よほど大きなものでないとどかさなくなる。やがて半島をまわりこみ公衆浴場にたどりついた。ここは露天ではなく小屋になっている。なかにはいってみると無人で、湯に手をつけてみると、とんでもなく熱い。入浴どころか湯をあびることさえ不可能で、早々に小屋をあとにした。

 和琴半島はミンミンゼミ生息の北限の地だと、説明板に書いてあった。古代の北海道はいまよりも暖かく、全道でミンミンゼミが生息していたが、その後冷帯化し、道南の一部をのぞくほとんどの地で、温暖でなければ生きていけないミンミンゼミはほろんだのだが、冬でも積雪がなく、温泉がわいて地熱のたかい和琴でだけ、生きつづけることができたと言う。

 歩いているとセミの声がして、木の上からミンミンゼミがおちてきた。羽がやぶれてしまった個体だ。木につかまっている力もなくなり、もう命がつきるのだろう。木から地上におちてきた透明な羽をもつセミをしばしみつめ、お前は子孫をのこすことができたのか? とたずねてから歩きだす。セミは地上から私のことをジッとみつめているように見えた。このまま土の上にいたら、ほかの虫に襲われてしまうだろう。しかし手はださず、そのまま立ち去った。

 

 

 和琴半島の露天風呂

 露天風呂には6時35分にもどってきた。探勝路は55分のたどりだったが、風呂には誰もいない。老人も夫婦も青年も。さてはもう一風呂あびて帰ったかと、湯に手をつけてみると、さっきとおなじで飛びあがるほど熱い。老人たちは湯温を下げられずにあきらめて帰ったのだ。私も朝風呂は断念した。

 旅はまた天国の時間にもどっていた。ラジオでNHKニュースをききながら定番のラーメンをつくってたべる。ニュースは台風の被害についてふれていて、糠平観光ホテルに裏山から雨水がながれこみ、消防団が排水作業をした、と伝えていた。糠平の住民の話では、35年ここに住んでいるがこんな大雨ははじめてだ、とのこと。きのう通った糠平だ。250のオフロード・バイクがとまっていたホテルがあったが、あれだろうか。地獄の雨天走行の記憶がよみがえる。

 バンガローと屈斜路湖の写真を携帯のカメラでとり、家内と母にメールでおくる。しっとりと濡れている革ジャンはバイクのハンドルにかけて干した。やはり濡れている荷物のパッキングに手こずったが、最後にバンガローのなかを整理して床を水拭きする。北野氏の顔をつぶすわけにはいかないので、汚れやゴミがのこっていないのを確認して鍵をかけた。

 ぬれている革ジャンははじめに袖をとおすときだけ気になったが、すぐに慣れた。8時10分に湖心荘で奥さんにキーをかえして出立する。屈斜路湖畔林道をはしって津別峠にのぼり、屈斜路湖を見おろしたいので、時計と反対まわりに湖ぞいをいく。気温は24℃だった。

 砂湯をぬけて川湯温泉にはいり、林道に進入するまえに給油をした。22.1K/L。133円で1713円。林道の入口をさがすがわからず、川湯温泉のなかを行ったり来たりして団地に迷いこみ、たまたまいた60くらいのお母さんに聞いてみた。するとよくわからないからと、ご主人を家のなかから呼んできてくれる。それだけでも恐縮だが、ご主人に林道への行き方をたずねると、わかるかなぁ、と考えて、いいや、案内してやる、と呟いて車のキーをとりに家にもどってしまった。

 こんなに親切な人に会ったのははじめてでびっくりする。お父さんは車のキーをとってきてエンジンをスタートさせ、ついてこい、と言う。好意が身にしみる。川湯温泉の裏手にある団地から、複雑に右左折をくりかえして湖岸へいく。ゴルフ場のようなリゾート施設の、広大な緑の土地の横をはしっていった。お父さんの車のあとをついていくと心底ありがたい。そして団地に住んで、お母さんがいて、車があれば心ゆたかに生きていけるのだと思う。私はもっと多くのものを欲しがって、毎日あくせくしている。しかしほんとうの人間らしさは、こうした優しさなんだと感じた。

 お父さんは3キロほどすすんでパーキングに車をとめた。その先の道が林道だ、と言う。お礼をのべると、熊がでるかもよ、と言われた。熊がでるからね、と。熊のことを忘れていた。重ねてお礼をいってはしりだす。林道は根上峠林道と表示されていた。幅2メートルほどの細い道だ。これはわかりづらい。熊が恐いので、森のなかの薄暗い林道をおそるおそるすすんでいく。昨夜の台風のせいで枝がたくさん落ちている。腕くらいの太さの木はそのまま乗りあげても大丈夫だが、それよりも太くなるとフロントタイヤがすべってあぶない。大きな倒木があるとバイクをとめてどかしてすすむ。しかし倒木は100メートルから200メートルごとにあり、そのつどバイクから降りてどかさなければならず、わずらわしいのであった。

 

 

 根上峠林道の倒木

 林道は森をぬけて湖畔にでて、名前も屈斜路湖畔林道にかわった。湖ぞいの道は明るくなり、熊の気配はなくなったが、たおれている木はさらに大きくなる。何本かどかしてすすんだが、林道はこのさき24キロもあるのだ。手にあまるような木も動かしているし、このさき何本の倒木があるのかわからないので、この林道をあきらめることにした。

 案内をしてくれたお父さんには悪いが9時30分にひきかえした。林道は往復で8キロはしっただけである。台風の翌日に林道を走行するのは無理なのだと悟りつつ転進する。もどってみると道道102号線からはわかりやすいところで、私の進入地点がわるかったのだとわかった。

 津別峠から屈斜路湖を見おろしたいので来た道をもどっていく。キンムトーにむかう池の湯林道があるがはいるのはやめておいた。気温は26℃に上昇した。また和琴にもどっていってさきへいく。道道588号線の津別峠への道へ左折し、山をのぼっていくとゲートがしまっている。昨夜の降雨量が既定値にたっしたので通行止めとなっているのだ。いまは晴れわたり、土砂崩れもないようなのに道路はとざされたままである。点検しているのだろうか、それとも主要道が先で、ここは封鎖されたまま放置されているのか。いずれにしても先にはすすめないので、ここでこれからの予定を考えた。

 暑くなってきた。紫外線もつよくなり、ひなたで地図をみていると眼がいたくなるほどだ。TMをながめていると開陽台が気になる。昨年は多和平にはいったのだが、開陽台には立ち寄らなかった。そして近くにある虹別林道がストレート・ダート13.5キロと書かれていて、台風の翌日は林道はダメだと悟ったばかりなのに、虹別林道経由開陽台いきと決めた。

 10時20分に津別峠入口のゲートを出発した。三度和琴のまえをとおり弟子屈へむかう。気温は25℃である。弟子屈からR243にはいり、途中から道道885号線に左折して養老牛をめざす。まっすぐな道である。直線の道で虹別につくがまたしても林道の入口がわからない。TMは大雑把なのでもともとわかりづらいのだが、何本もある未舗装路の奥に林道はあるので、どの砂利道にはいっていっても、奥にすすんでいけば虹別林道にはいれそうである。国道から分岐した距離と地図にある川をたよりに、牧場のわきをはいってみた。するとすぐ先に林道がある。これだろうかとすすんでいくと、狭いがしまったジャリダートで、たまに昨夜の台風の名残りで大きな水たまりがあると、両足をあげて低速で水を切っていく。奥にいくと分岐があり、交差しているのも林道で、よくよくまわりを見てみると、砂利道が縦横に無数にはしっていた。

 地図ではこの網目状の林道のいちばん奥に虹別林道はあり、からまつの湯までつながっている。分岐のおおい網目を奥へおくへとはいっていくと、いちばん奥の林道にいたり、入口からようすを見てみると雨のながれで道が掘れてしまっていて、あまり使われた形跡もなく、廃道の雰囲気さえただよう。しかし道はこれしかないのではいっていくと、泥の道でぬかるんでおり、フロント・タイヤをとられる。何度かフロントがすべったが、バタ足走法でしのいでさきへいった。

 

 

 廃道の雰囲気のただよう道

 左右は背のたかい草と熊笹である。水たまりをぬけ、泥のぬかるみを何度かバタ足走法で乗りきったが、13.5キロという距離を考えて、大きな水たまりの前でひきかえすことにした。水たまりと泥ですべる路面が多すぎて、いつか転倒してしまいそうなので。やはり台風の翌日の林道はダメで、またしても転進だ。

 バタ足走法で林道をもどり道道885号線にかえった。開陽台にいくことにしてすすむと『西別岳入口』という看板がでていて進入路がある。どうやら虹別林道の入口はここらしく、さっきの道はやはり廃道のようだが、台風の翌日に林道にはいる気は失せていて、虹別林道に再挑戦することなく通過したのだった。

 ふたたびまっすぐな道をはしる。2001年にもここを通ったはずだと記憶をさぐりながらすすむと、見覚えのある建物もあった。しかし開陽台が近づくとカーブが連続することは忘れていた。ただただまっすぐはしったものと思っていたがそうではなく、グネグネと道はまがっている。そして道道からそれて開陽台にいたるのだった。

 開陽台の手前でDR・BIGとすれちがった。宗谷岬で会ったBIGとおなじカラーで、最終型だといっていた珍しいものだ。もともと数の少ないバイクが2台もいるとは考えられず、宗谷の彼なのだと思う。彼はあの日に網走までいくと言っていたので、台風の日はそのまま停滞していたのだろう。ふつうは嵐のなかを走ったりはしないから。

 3度目の開陽台についた。あまり混んでいないことがうれしい。バイクは4・5台とまっていて、そのなかにホンダXL250Sがいてなつかしかった。このバイクは1983年の北海道ツーリングで会った日本縦断男がのっていて、雨のなかをはしるとリークし、エンジンがストップしたものだと思い出す。XLは道内ナンバーで学生のように若い男性がオーナーだった。バイクにどうにも心をひきこまれてしまうので会釈をかわし、昔雨のなかでリークしたけど大丈夫? と聞くと、きのう台風のなかをはしったがまったく問題なかった、とのこと。それはそれで嬉しい。何年型なのかたずねてみると1979年製で、部品は頑張れば入手できるのだそうだ。どう頑張るのかは聞かなかった。

 開陽台は26℃だった。私はXLが気になったが、彼はまわりのバイクが首都圏ナンバーばかりなのが気になるようだ。言われてみれば道内組は彼だけで、ほかのバイクは私もふくめてすべて首都圏ナンバーである。彼は地元勢がすくなくて不満のようだが、昔からこうなんだよね、と答える私だった。もちろん首都圏だけではないのだが、道内のバイクはすくなくて、内地のもののほうが昔から断然おおいのだ。

 

 

 

 休暇中の自衛官の皆さんのあとから開陽台にのぼっていった。防風林にかこまれた牧草地が、北海道遺産に登録されたと看板がでている。元気いっぱいの自衛官のあとから階段をのぼり、展望台からの景色をながめた。晴れているので全方向の風景が見わたせる。牧場の緑が眼にしみて、空が大きい。あちこちの景色をカメラにおさめ、また家内と母にメールでおくった。

 そして以前から気になっていたことを確認しにいく。1983年の北海道ツーリングでも開陽台をたずねたのだが、以前の展望台は丘の中腹にあったと記憶していた。現在の展望台からキャンプ場を見おろすと下に見える、円筒形の建物がそうなのではないかと思っていたが、それをたしかめたかったのだ。円筒形の建物はキャンプ場の水場のようだが、あらためて展望台から見てみると、小さなもので、昔の展望台と見るには無理がある。近くまでいって、しかと見きわめることにした。

 展望台からおりて建物をまわりこみキャンプ場にいく。すると水場が見えて、これが昔の展望台でfないことはすぐにわかった。以前の展望台はなかで人が7・8人眠れる大きさで、じっさいにライダーとチャリダーが寝泊りしていた。しかし水場は小さいし、中にはいることもできない構造だった。

 このままでは帰れないので、昔の展望台がどこにあったのか真相をさぐるべく、ふたたび展望台内にむかった。売店の女性は私よりも年上にみえる。この人に聞けば正確なことがわかるだろうと思い、何も買わずには話しづらいので、120円の缶コーヒーを購入して聞いてみた。
「昔の展望台は、もっと下にありましたよね?」
「いいえ、昔のはこのすぐ横、ほら」窓ガラスの外を指差して、「この向こう側にありましたよ」
「え? そうでしたか。もっと下のほう、丘の中腹ではなかったでしたっけ」
「ちがいます、このとなりです」
 昔の展望台も丘の頂上にあったのだ。中腹にあったというのは、私の記憶ちがいであった。
「道は、いまのと反対側からの、砂利道だけでしたよね?」と私。
「砂利道はまだありますよ。キャンプ場につづいています」ちょっと会話が噛み合わない。
「そうですか、20年前に来たのですが、記憶が一致しないもので」
「前の展望台は、10年前に建て替えられて、この建物になったんです。…‥そうですか、20年前ですか」
「ええ、20年とすこし前の話です」
「それは、それは」

 1983年の北海道ツーリングに、訂正の追記をいれなければいけないなと思いつつ、展望台からおりる。しかしここは昔からライダーの聖地と呼ばれているが、たしかに特別な感情移入をさせられる場所だ。牧草地のつらなりが見えるだけなのだが、抗いがたい引力をかんじる。ここで一度キャンプをしてみたい。星もよく見えるらしいので。若者ばかりでも、キャンプなら大丈夫だろう。

 XLの彼に会釈をして開陽台をあとにした。北19号線にすすみ写真をとる。ここに来たのははじめてだが、たしかに絵になる直線だ。そのまま北19号線を走行し、直線のアップダウンをなぞって道道150号線へ右にターンして、中標津市街にむかう。昼時となったので、TMにのっていた中標津のすしロードで回転寿司をたべようと考えていた。

 中標津空港があり、予想以上に大きな市街をもつ中標津にはいっていく。道道150号線から道道69号線にはいり、標識にしたがって右左折をくりかえしていると、どこを走っているのかわからなくなり、さらにおなじくTMにのっている中標津の食堂『やまや』と『すしロード』を混同して、『すしロード』を見つけられずに、R272を知床方向にすすんでしまった。

 道が正しいのか自分でもあやしいと思いつつはしっていくと、道路わきにカニ販売店の手書きの看板がでている。カニをみやげに送ろうと考えていたので、このカニファー〇にいくことにした。R272から住宅地にはいっていくと、駐車場と工場の前の行き止まりとなり、砂利道となったそこに店はあった。

 小さな店である。新築のログハウスの入口につくりつけた店舗だ。店は無人だし、ほかに客もいないのでどうしたものかと思っていると、店の奥、ログハウスの庭で大工仕事をしていた主人がでてきた。とりあえずカニを見ることにすると、店のまえの砂利道におかれたクーラーボックスのなかに商品ははいっているのだ。こんな店はあるのかと思ったが、カニは意外にも豊富ですべて花咲だった。

 カニの種類は3種類だった。内子とよばれる卵をもつカニがいちばん高くて1パイ1800円、つぎのものは2ハイで1500円、そして3バイ1000円のものである。どうちがうのかたずねると、内子がはいっているものは別格で価格がたかく、あとは身のはいり具合で値に差がでるとのことだったが、私には見分けはつかなかった。

 迷ったがこれも何かの縁なのでカニファー〇をつかうことにした。首都圏までの送料をたずねると、えーと、えーと、と言いながら電卓をたたき、2000円くらいです、えーと、2080円です、と答える。大丈夫かよ、と思いつつ、内子のはいった1パイ1800円のカニと、2ハイで1500円のカニを3バイセットにして、自宅と家内の実家におくることにした。

 ところでカニはここで食べることもできると書いてある。ならば昼食にカニをたべてもよいかと考えてきくと、9月になって客がすくなくなり対応できないとのこと。あまりやる気がないのか、それとも商売はこんなものだと思っているのか、それならいい、と言って宅急便の伝票に住所などを記入した。そのあいだに主人は何度も電卓をたたいていて、書き終えた私が、おいくら? と聞くと、13680円です、と言う。ちょっと高いのではないのかと感じて顔をみると、もう一度電卓をたたき、そうです、13680円です、とのこと。ふたたび大丈夫かよと思ったが2度たしかめていたので金をはらった。しかし、あれ、これは、と言って私が記入した伝票をみている。どうしたのかと思っていると、ちがう伝票をわたしてしまい、これは使えないのだが、あとで自分が書き直しておくので大丈夫です、だって。

 ここは食事ができないのですしロードの場所をきいた。すると走ってきたR272を反対方向にむかえば、信号4個目の交差点にあるとのこと。3度も4度も信号の数をかぞえなおしておしえてくれる。えーと、えーと、と言いながら。まあ悪い人ではないが商売人なのに数字に弱いな、と思いつつ、じゃあよろしく、と店をでると、サッサと裏にもどって大工仕事をはじめてしまった。こういうときは客が出立するまで見送るものである。主人の態度とカニの値段に疑問をいだきつつカニファー〇をでた。

 カニの料金がどうも釈然としないまま信号をかぞえていくが、4個目をすぎてもすしロードはあらわれない。さてはまたまちがいなのか、ほんとうにこっちでよいのかと疑いつつすすむと、信号6個目くらいですしロードに到着した。思ったよりも地味な建物だが、駐車場がひろいのが北海道らしい。さっそく店内にはいって席につくが、ここは絵皿の種類がおおい。どの色がいくらなのかチェックしつつお茶をそそぎ、とりあえず大サービス品のサーモン100円をとって口にいれると脂がのっていて美味しい。汁物は大好きなのでカニ汁300円をたのむと、タラバと花咲の足が2本ずつはいっていてお得で味もよかった。すしロードではこのカニ汁がいちばんだった。

 すしロードの寿司は値段に幅があり、たべたいものをえらんでいくと料金がはねあがってしまうので抑制が必要だ。私は1417円だった。カニ汁300円がはいっているが、これなら留萌の蛇の目寿司のほうが数段上である。すしロードはネタは大きいが格別うまいというわけでもないし、とくに安くもない印象。ほかの店にはもっとお得で美味いものがあるかもしれない。寿司はネタが大きければよいというものではないだろう。

 すしロードの駐車場には小さなログハウスがあり、休憩所になっていた。ここで地図をみてこれからのことを考える。南にくだれば釧路である。釧路は1981年に自転車で北海道に来たときに、駅で野宿してフェリーにのり、東京にかえった思い出の地だ。それ以来なので駅をみてみたい。そして釧路から海岸線を南にいけば、昆布刈石のダートがある。ここは見晴らしがよいと評判のダートだ。またしても台風の翌日であることを忘れ、性懲りもなくダートをはしって帯広にぬけ、上士幌の航空公園でキャンプすることに決めた。時間に余裕があれば、さらに先にある、鹿の湯で有名な国設然別峡野営場までいけるかもしれないと、欲張るのも忘れないのだった。

 13時50分にすしロードを出発した。90キロさきの釧路をめざす。R272を南下していくが、ひっかかるのはカニ代のことである。1800円+1500円は3300円で、それに送料の2000円をたしても5300円にしかならず、2件で10600円のはずが13680円と、3000円ほど数字があわないのだ。どうにも納得がいかず、あとで伝票をみてみると送料は1770円となっていた。どうしてこういう計算になったのか考えてみると、カニファー○の主人はまちがって送料を倍とったのだ。つまり1800円+1500円+1770円+1770円=6840円。これが2件で13680円だ。まったく数字に弱い商売人である。よほど電話をしてやろうかと考えたが、私の手元にあるのは領収書ではなく、使えないという宅急便伝票の控えだけで、ここには運賃1160円、料金210円+400円(クール代、箱代だろう)、合計1770円としか書かれていない。カニファー○の主人は私がわたした金をそのまま手提げ金庫にいれていたから、いくら受け取ったのか記録していなかったし、もとより覚えているようなタイプでもないので電話をかけるのはやめた。もともと数字にはめっぽう弱いのだから。多少高くてもよいのだが、金は気持ちよくつかいたいものである。これはこのツーリング中にふたつだけあった不快なことのひとつだったが、もうひとつにくらべれば軽いものであった。

 釧路にむけて80キロから90キロの速度で南下していく。ときおり台風の名残りのつよい風にあおられる。少々さきをいそぎすぎ、欲張りすぎて、はしることが辛くなっていることを自覚する。こんなことではいけないのだ。もっと心に余裕をもって、ゆったりと、北海道ツーリングをたのしまなければいけない。せっかちで前のめりになってしまうのは悪い癖だ。カニのことを考えて腹をたてるのもよくない。

 バイクのスピードを落としていると、後方から黒いセダンが追いあげてきた。黒や紺のセダンがせまってくると、覆面パトカーが疑われて、本能的にアクセルをもどしてしまう。しかし抜いていったのは家族連れの車だった。北海道はほかの地域よりも黒や紺のセダンの比率がたかいとおもう。自動車の好みが保守的なのだろう。

 釧路湿原をとおるはずだと思っていたのだが、それは1本西をはしるR391だった。R272は湿原らしい風景には会わないままR44に接続し、釧路市街にはいっていく。気温は25℃だ。釧路駅には15時10分に到着した。北海道の駅はどこも建てかえられていているので期待していなかったのだが、釧路駅は昔のままだった。1981年とおなじ姿で2005年の今もたっている。思わずバイクをとめて写真をとった。この駅のむかって右端のひさしの下で野宿をしたのだ。あのときは自転車の私のほかにカニ族のふたりがいた。あのふたりは歩いて日本縦断をする言っていたが、成功したのだろうか。

 

 

 釧路駅 1981年とおなじ姿でたっていた

 駅舎は昔のままだったが、むかって左のホテルがたっているところは、駅前市場だったと記憶する。魚などの海産物がならんでいたと思うが、それはいま駅の裏手にある和商市場だろうか。駅前のロータリーには変化はないようだった。1981年にここで野宿をした夜には、カニ族のふたりと語り合ったものだが、彼らは走って旅をしている男に会ったと言った。男は日体大の駅伝ランナーだったが、4年間一度も箱根をはしることができず、かわりの思い出をつくるために、東京から宗谷岬まで走ってきたとのこと。この話は宗谷岬のバス停で彼らが直接男に会ったのか、バス停の旅ノートに書かれていたものを読んだのか、どちらなのかもう記憶が判然としない。

 そしてカニ族のふたりは長旅で靴をはきつぶしてしまったのだが、金がなくてサンダルしか買えず、これから歩く東北の山々を、これで越えられるのか心配していた。彼らはどうせ縦断するならいちばん困難なルート、奥羽山脈の稜線をいく予定だと語ったが、そんな足ごしらえで乗り切れるはずもなく、8月も終わりかけているというのに、1週間も釧路駅に連泊しているそうで、秋にむかう東北の山地を本気であるくのか、あるかないのか、彼ら自身も成り行きまかせで、わかっていないのだった。あれは1981年、私が大学1年生のときの話だ。

 昔日とおなじ姿の釧路駅をみているとなんともいえない気持ちだった。昨年20年以上の時をへて稚内駅を前にしたときにもおなじように感じたが、そこにはノスタルジーもあるのだが、若いころとおなじ旅をしている自分をかえりみて、いくら年をとっても人間の性根はかわらないなという実感と、進歩がないなという思いがないまぜとなり、微苦笑がうかぶ。しかし人間の本質は変わらず、好みもうごかない。私は老人になっても放浪している人間なのだ。

 古い友人である釧路駅に別れをつげてR38をいく。海岸線の釧路国道を昆布刈石にむかう。すすんでいくと『しらぬか恋問』というロマンティックな名前の道の駅があったので休憩した。ここはアイスクリームが評判なのか行列ができている。海は台風の余波で荒れていた。白波が怒ったように海岸におしよせている。荒れる海の写真をとりまた家内と母にメールでおくる。家内からは返信があるが母からはまったくない。後日聞いてみると、迷惑メールといっしょにすべて削除されていた!

 はげしい海をながめながらR38をはしり、直別から道道1038号線におれようとすると通行止めだった。道道の直別〜厚内間の海岸線が通行不能なので、R38で迂回せよと表示されている。国道で上厚内までいって海岸ぞいの厚内にむかうが、ガスが心配になってきた。リザーブになっても5リットルのこるので100キロは走れるはずなのだが、人気のない道道、GSのない海岸線をいくので気持ちがひっかかった。

 

 

 昆布刈石直前の海岸線 道道1038号線

 厚内から道道1038号線にはいるとさびれた風景だが、海岸線ぎりぎりをはしる道なので風情はもりあがった。しかし無情にもこのさき通行止めと看板がでている。昆布刈石のダートの直前で道道は封鎖されていた。警備員がたっていてUターンを指示するのできいてみると、明日なら工事は終わって通行可能とのこと。私に明日はないのだ。ここも敗北して、きょうはいったいいくつ目の敗退か。むなしく帯広に転進したのだった。

 いまさらながら何キロでリザーブになるのかたしかめてみた。以前は15リットルで380キロはしれた記憶があるのだが、330キロで予備タンとなる。前よりも燃費がおちたようだが、古くなってきているのでしかたがないと思うのだった。

 ホクレンで給油しようとねばってすすみ、浦幌のホクレンでガスをいれグリーン・フラッグを手にいれた。スタンプも押しますよと言われたのだが、面倒なので断った。しかし押してもらえばよかったと帰ってから後悔した。燃費は20.86K/L。123円で2125円。17時19分だった。ここで上士幌までどのくらいかかるか聞いてみると、1時間くらいとのこと。今夜は航空公園でキャンプと決めて、いそいで走りだした。

 帯広にちかづくと暮れてくる。そして十勝国道のR38では猛烈な突風がふくのだった。そのたびに直線なのにバイクをななめにバンクさせて走行する。防風林がつづくのはダテではない。この風では防風林は絶対必要な生活道具だ。

 ツール・ド・北海道の看板がたくさんあらわれた。帯広を中心に開催されるようだ。またラリーのWGPのポスターもでていた。18時15分に帯広を通過し、上士幌にむけて北上していく。十勝大橋をわたり、昨年Pキャンをした道の駅『おとふけ』の横を通過する。すっかり暮れたので交通のながれをリードするのは危険と判断し、バスのうしろをついていく。バスは上士幌の手前まで私を先導してくれた。

 上士幌の町について航空公園にいこうとするが、人に聞いたほうが早いだろうとまたホクレンに給油にはいった。21.1K/L。123円で489円。すこししかガスは入らないがGSの人は親切におしえてくれた。航空公園への行きかたから、コンビ二、スーパー、風呂の場所まで。

 礼をのべて国道を北へすすむと、教えられたとおり航空公園・ナイタイ高原は左折、と青い大きな看板がでている。左折するとすぐに右にいけとまた看板があるが、まがらずに30メートルいけば教えられたとおりセイコマがあり、食料の買いだしに立ち寄った。ここでビール、アルカリイオン水、牛カルビ200グラム、野菜ミックスを810円で買うが、表のゴミ箱には,上士幌町はゴミはすべて分別、持ち帰りです、と書いてあってキャンパーともめているのかなと感じられた。

 19時01分にセイコマをでて、看板の指示どおりにすすんでいく。するとナイタイ高原は右折と青い看板はでているが、航空公園への指示はなくなってしまった。指示はないのでこのまままっすぐいけば航空公園である。しかしはじめてここに来て、しかも夜で見通しはきかず、これまで両方の案内がでていたのに航空公園への指示がなくなったので、通りすぎてしまったかと思ってもどってみるが、小さな公園はあってもそれらしきものはない。またナイタイ高原だけの道筋がしめされている看板までもどって周囲を見てみるが、航空公園への糸口はみつからなかった。地図をみるよりも人に聞いたほうが早かろうと思い、若い女の子が携帯でメールを打ちながら歩いてきたので、バイクでよっていってたずねた。
「すいません、航空公園はどういけばいいでしょうか」
「それだったら」と女の子はふりむいて、私がはいってきた国道方向をしめし、「あそこを左にいけばすぐです」と言う。
「あそこって、あの信号ですか?」と聞くと、
「どこだって、左にまがればすぐでます」と強い語調で答える。あとになってみれば妙な言いかただった。
「それはどうもありがとう」 礼をいって国道241号線にもどって左、糠平湖方向にはしるが、どんどん町から遠ざかり、光さえなくなる。1キロほどいっておかしいと気づき、ひきかえすが、このときは混乱していて、嘘を教えられたことがわかっていなかった。

 国道をもどってはじめの看板の下にかえった。この看板は女の子に道をたずねた方向に航空公園とナイタイ高原があるとしめしている。セイコマの手前の看板も同様である。そしてすすむとナイタイ高原だけの看板のある、女の子に道をたずねた地点になるのだった。

 地図をみてみると広い範囲を公園として示していて、そのどこにキャンプ場があるのかわからない。看板の下を左折して、町にむかっていき、エネオスにはいってきいてみた。ガスは満タンでいれられないのだが、明日給油にくるのでおしえて、と。するとアルバイトらしき青年は、ここをまっすぐ行けばすぐですよ、とそっけなく言う。まっすく? と聞くと、青い大きな看板がありますから、すぐわかります、と。

 礼を言ってはしりだすと、道は道なりに左にいくが、『まっすぐ』にひっかかって道なりにすすまず、まっすぐな方向、ナイタイ高原方向へのルートをえらんだ。道なりにいけばキャンプ場にでたのだ。青い大きな看板はないが。すすんでいくと当然ナイタイ高原にむかってしまい、昨年利用した立ち寄り湯のできる亀の子荘の案内があって、これまたちがうと、来た道とは別の道路で上士幌にもどっていった。

 ここまでくるとどうして航空公園がみつからないのか、パニック気味である。しかも、どの人が言っていることが正しいのかもわからなくなってくる。周囲は真暗で見通しはきかず、人はまったく歩いていない。どうしようかと考えあぐね、上士幌の町にもどって信号にさしかかると、交差する道で信号待ちをしているオフロード・バイクがいた。反射的に右折して、彼の横にならび、航空公園の場所をたずねると、彼のうしろ、100メートルほどのところにあるとのことだった。彼は私の話をきくためにエンジンを切って対応してくれた。

 彼は風呂にいくのか、もしくは買いだしにでかけるキャンパーのようだった。礼をのべて走りだすとすぐに右手に公園がひろがりだし、大きな管理棟のような建物のまえに芝生があり、パターゴルフ場と書かれているが、テントがひとつだけたっている。しかしキャンプ場というのに炊事場はないし、トイレも見あたらない。公園のもっと奥なのかとも思ったが、もう20時ちかくになっているので、ここでよかろうとテントを設営した。

 テントに荷物をはこびこみ、きょう一日のメモをつける。酒を飲むまえに、または飲みながら、これだけは必ずやる習慣だ。ヘッドランプの小さな光のなかで文字をつらねていく。ひとつだけあるテントは道をおしえてくれたオフローダー君のものと思っていた。彼がかえってきたら一杯ご馳走しなければ、とも考えていた。

 そのうちとなりのテントの住人が帰ってきたが、オフローダー君ではなく、3人の若者たちだった。挨拶をかわして話をすると、彼らはそれぞれソロで各地から出発し、北海道で知りあっていっしょに旅をしているとのことだったが、22・3の学生のような彼らとは話があうはずもなく、ひととおりの会話がすめば、別々の夜をすごすのは自然のなりゆきである。私はテントの外でイスにすわり、ガスコンロとフランパンでひとり焼肉をはじめてビールを飲む。彼ら3人も芝生では夜露でぬれるので、アスファルトの小道にすわってのみだした。

 

 

 
 ひとり焼肉も文字にすると寂しいが、熱々で美味しいし、夜空のしたでは野趣もあってオツなものである。若者3人組は礼文島にある有名なユースホステル、桃岩荘の歌らしきものを口ずさみ、缶酎ハイをのみポテトチップなどをかじっていた。トイレの場所をきくと、となりの管理棟のような建物のなかにあると言う。そしてここはキャンプ場ではなく、ほんとうのキャンプ場は西側、芝生のさきにある階段をおりた広場だ、とのこと。地域の人にきいたら(この地域の人というのは通りがかりの人のことである)、ここでもいいんじゃないの、と言われたのでここにテントをたてているとのことだった。

 そうこうしているとホンダNSR250のノンカウルというなつかしいバイクがやってきた。彼も22・3の青年だがテントをたてるとどこかへいってしまう。私は気になって、下の広場にあるというキャンプ場を見にいってみた。階段をおりると広大な広場があり、キャンプ用のテーブル、トイレ、炊事場が点在し、テントも5・6張りたっている。これならこっちにキャンプしたほうがよかったと思いつつ水場にあるくと、35くらいのライダーがいてすこし話をした。彼は長髪でハードな革ジャンをきた、勤め人の匂いのしない人だったが、キャンプ場のようすを親切におしえてくれた。

 テントにもどって本格的にのむ。思うのは航空公園への迷走で、なかでもあの若い娘に嘘をつかれたことである。考えていると猛烈に腹がたってきた。ナンパするとでも思ったのだろうか。たしかに彼女の前を行ったり来たりして道をきいたのだが、からかったとでも感じたのか。帰ってから家内にきくと、まさか、たとえそう思ったとしても、嘘はおしえないよ、と言っていた。20くらいのふつうの娘に見えたのだが、あの娘のどこにそんな悪意がひそんでいたのか。酔うほどに腹がたってくるが、これは事故のようなものである。悪意のある人間にたまたま会ってしまったのだ。屈斜路湖畔林道まで案内してくれた、お父さんのような人が北海道には多いから、油断してしまった。これが今回の旅でふたつだけあった不快なことのもうひとつである。カニファー○のほうは計算違いと商売人らしからぬ態度という悪意のないものだったが、娘には底知れぬ心の暗部を見せつけられたようで、最悪の後味をのこした。

 NSR君は夜遅くなってからかえってきた。どこにいっていたのか知らないが、夜に長いあいだいられる場所は、帯広までいかなければないだろうと思われた。3人組はまともなシュラフをもっていず、夜の冷え込みをおそれていた。明日の朝は何度くらいになりますかね、と聞かれたので、冷えてきた夜気から考えて、10℃くらいじゃないかな、と答えると絶句していた。ここなら道北よりも暖かいと思ったのに、と言うので、内陸も冷え込むんだよね、と応じた私だった。

                                     460キロ 

 

 

  

 

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