9月5日 ただいま命の洗濯中

 

 

 支笏湖の朝

 

 5時40分、カラスの鳴き声で眼をさました。松の木の下にテントをたてたのだが、この木の上に何羽ものカラスがやってきてカーカーと大騒ぎをしている。テントの外にでるとカラスは逃げていったが、いつのまにやってきたのか、すぐ横の駐車場にはステップワゴンがとまり、私のテントの奥、湖のちかくに1人用のテントがふたつたっていた。カラスは傍若無人にもそのテントの上にも何羽もがとまり、カーカーと鳴いている。木の下にテントをたててよかった。木がなければ彼奴らは私のテントの上にもとまったのにちがいない。テントにカラスが舞いおりて、その震動と鳴き声でおこされたら、さぞかし魂消たはずだ。

 山にかこまれた湖なので陽がさしこまず、まだ薄暗かったが、しだいに明るくなってきた。キャンプの朝食の定番、インスタントラーメンをつくっていると、カラスにとまられたテントから人がでてきた。でてきたのは昨日のフェリーでいっしょだった外人の父子だ。父親が歩いてきたので挨拶をかわす。日本語でだ。先方は私のことなど覚えていないだろう。しかし、ステップワゴンなら車の中でふたりは眠れると思うのだが、ひとりずつテントをはって就寝するのが彼らの流儀のようだ。私ならテントはたてずに、息子と車のなかで寝てしまうだろう。明けていく湖畔にたつ彼らは、絵になっていたので写真をとらせていただいた。

 テントを撤収して出発の準備をしていると、奥のサイトに幕営していたバイクの青年がやってきた。北関東の人だ。彼はDRは荷物がたくさんつめるし、足も長いからいいですね、と言う。250オフロードにのっているものとばかり思い、いや同じくらいつめるでしょう、と答えたが、よくよく話してみると、彼はスクーターのほうでチョイノリできているのだった。たしかにチョイノリにくらべれば、DRは荷物はつめるし航続距離も長い。彼はかなりの北海道好きらしく、若いのに私とおなじ渡道5回目で、短期間の今回は9月1日に上陸して5日の今夜のフェリーで大洗にむかうとのこと。彼といっしょの250オフローダー氏は林道で熊をみたそうで、それが私も心配の種なのだった。(この青年はおかちゃんで2011年に再会を果たすこととなる。)

 チョイノリ氏は快速旅團のトレーナーを着ていたので、夕張のお店にいったのですか、と聞くと、行ってきました、とのこと。私もいってみたいが時間があるかどうかわからない、と答えると、もし行ったら、チョイノリの奴は元気にやっていましたと伝えてください、とたのまれた。行けたら伝えます、と言って、旅團のステッカーをはったバイクを、都内で1台だけ見たことがあります、とつづけると、北関東では皆無、まだ無名です、とのことだった。チョイノリ氏はまだ話したそうだったが、せっかちで先を急いでいる私の気持ちを、眼の動きや手のはこびで察して去っていった。神経の細やかな青年で悪いことをしてしまった。これが私のいけないところで、いつも前のめりに旅をしてしまうのだが、もっと余裕を持たなければいけないと、反省、後悔するのだった。

 7時に出発する。キャンプ場の係員は見あたらないので無料で利用させていただいた。昨夜来た道をもどり、R453にはいって支笏湖の北側の道をいく。昔有料道路だったところで、ほどよくカーブをえがく快走路だ。気温もすずしく爽快で、草の匂いがただよっている。夏の草いきれではなく、高原にかすかにながれる草の香りだ。

 走っていると例えようもないほど気持ちがよい。北海道をバイクではしるときに感じる、感動的なまでの爽快感だ。湿り気のない、ひんやりとした大気の感触と、湖畔のカーブをバイクでぬけていく躍動感が一体となって、胸がいっぱいになる。あまりにも気持ちがよいので絶叫する。バイクを操りながら、ヘルメットのなかで2度、3度と。こんなことをしたのは何年ぶりだろうか。バイクに乗っていて感じる最高の気分だ。幸福感がつきあげて、絶えなかった。


 

 ポロピナイキャンプ場

 7時20分に1983年にとまったポロピナイ・キャンプ場についた。一目みていきたいと思っていたのだが、入口にはロープがはってあり、中には宿泊者でなければ入れないと書いてある。はいれずとも雰囲気はつかめた。昔のキャンプ場は現在の入口部分で、駐車場になっている広場だと思う。しばし昔のキャンプ場とおぼしきところを歩き、写真をとって往時をしのんだ。キャンプ場の入口には札幌ナンバーのドカなどが3台とまりくつろいでいる。また入口にある食堂からは川魚を焼く匂いがもれてきていた。

  ポロピナイ・キャンプ場をでて北上していく。樹林帯にはいり別荘が点在する地域になった。ここから札幌まで42キロとのことなので、ここに住んで札幌で仕事をすればリゾート暮しがたのしめるのだ。すばらしい環境である。そんな生活もしてみたらさぞかしよいだろうと想像しながらはしると、80キロから100キロの速度で、信号も前後をいく車もないので、5キロはあっという間にすぎてしまう。首都圏の時間感覚ではかんがえられない進度で距離をこなしていく。それがまた痛快で、爽快感も何乗にもなっていくのである。休暇をとってきてよかったと思う。1年に1週間くらい開放感につつまれて、好きなことだけをしてすごしたい。それくらいはゆるされてしかるべきだと思う。そして今、命の洗濯中だとつよく感じたのだった。

 山からくだっていくと真駒内にはいった。ここは札幌のベッドタウンのようで、住宅がたちならび、サラリーマンや学生が通勤通学しようとあるき、バス停にならんでいる。サラリーマンのスーツの質感やバッグの品質、センスは都内とかわらない。しかし女学生の靴下がみなそろって黒のハイソックスなのがめずらしい。これは札幌中でこうと決まっているようだ。首都圏は色も長さもバラバラなので、統一されているのは保守的で自由のない印象だが、私はこのほうが規律がしっかりしていると感じられて好みである。しかし札幌は革新政治のイメージがあるので、保守的な面に触れると意外感があった。真駒内は収入や学歴のたかい人があつまっている感じで、住宅や住民のレベルも高く、地方都市にいる感じはせず、都会の香りがした。

 すすんでいくと車が徐々にふえてきた。バス停にならんでいるサラリーマンやバスにつめこまれている人と眼があうと、遊んでいる自分がなんだか悪いことをしているように感じてしまうから、私も相当な働きバチだ。革ジャンを着て走っていても寒いくらいなのだが、地元の人はポロシャツ1枚でバイクにのっている。これもまた信じられない感覚だった。

 札幌市街にはいっていくと去年もPキャンの旅できているので、見覚えのある建物や施設が眼についた。札幌をつきぬけて石狩湾にでるつもりなので直進していくと、昨年昼食に利用した札幌プリンス・ホテル・タワーがみえてくる。タワーの写真をとろうとバイクを路肩にとめていると、警備員が近づいてきた。プリンスの係員かと思ったら雰囲気がちがう。タワーのとなりの中央区役所の警備員だった。長くとまるの? と聞かれたので、写真をとったらすぐにいきます、と答え、中央区役所の前だったんですね、とつづける。すると警備員は、地方から来たの? と言い、DRのナンバープレートをみて、なんだ首都圏からか、と言う。札幌だって地方である。地方から来たの、などと言われたことのない私は、カチンときた。無礼な物言いである。

 札幌の人の北海道での首都意識はたかいのだなと思う。しかしたとえば、都庁のある新宿区役所の警備の人はこんなことは言わないと思うので、これは全国でも北海道の札幌の人にだけ特有の、優越意識なのだと感じた。

 しかし、地方から来たの、の一言が水にながせない私は、写真をとりおえると警備員の詰所まであるき、件の警備員をつかまえてたずねた。
「このちかくに、CSIという会社があるはずなんですが、知ってますか?」
 警備員は聞いたことはあるがわからないと答える。そこで、
「東京のマザーズ市場に上場しているCSI、電子カルテをやっている有望な新興企業で、北大も出資している会社なんですよ」
 とつづけた。詰所のなかにいた上司もでてきたがわからないとのこと。
「北海道の札幌本社で、しかも中央区で、全国区の会社はほとんどないと思うけど、それでもわかりませんか。たしか」南のほうを指差して、「あのあたりかと思うが」
 自分で話していて大人気ないことをしているなと思う。こんなことを言って警備員をへこませてみても、なんの意味もないのだから。ところでこの会社はちかくに実在する。私は自ら望んで、この会社と特別な利益共有関係をもっているのだ。

 我ながら愚かなことをしたなと思いつつ札幌市街をぬけていく。しかし東京の新宿区役所の警備員なら、全国区の会社の本社などたくさんありすぎてわからないだろうが、札幌の中央区ではいくつもあるまいに、それを知らないというのは怠慢か慢心だろう。

 大通り公園をぬけて札幌駅前を通過する。北海道立近代美術館がちかくにあって気になるが、今回は入館をみおくった。駅のすぐ東の道路が国道5号線だがそのように標示されていない。新琴似と表記されていたと記憶する。ここのはずだと思って進入し、すすんでいくと5号線と表示された。これだから札幌の道路標識はわかりづらい。市街の地名を表示するので観光客にはわからないのだ。素直に5号線とか、となりの市の名前を示してくれればわかりやすいのにといつも思う。

 セイコマでアルカリイオン水を158円で買い、ゴミを捨てさせてもらった。R231との分岐には9時すぎにつく。札幌をはなれていくと空が大きく広がりだした。真青な空に白い雲がポカリ、ポカリとういていた。

 

 

 海沿いの快走路

 R231をすすみ石狩市をぬけていくと、丘状のゆるやかな起伏をくりかえす快走路となった。左手に海をみながら走行していく。また開放感がもどってきた。バイクで走る爽快感と幸福感も。毎日仕事ですこしでもおおくの業績をあげようとして、またできるだけ所得をえようとして、あくせくしているのが馬鹿らしく思えてくる。金なんて、こうして北海道ツーリングにこられるくらいあればいいのだ。もっと多く、すこしでも上へと、無理することはない感じたが、この考えは仕事にもどると半日で消えてしまった。

 衆院選挙がちかいのでポスターがはってある。ここは町村外相(当時)の選挙区だった。都会的な印象の人なので北海道の郡部からでていて意外だった。

 80キロから90キロで走行していると、後ろからきた若い女性ライダーのホンダVFRにぬかれた。真紅のレーシーなバイクで直線を120キロくらいのスピードで走っていく。一般道でよくやるよと思っていると、丘のカーブにかかると極端にスピード・ダウンしている。カーブとカーブをつなぐ直線でもギクシャクしているので、コーナーでアウトから一気にぶっちぎった。とはいえ、私は80から90の一定速度で直線もカーブも走行しているだけなのだ。VFRはたちまちバックミラーから消えたが、直線がつづくとまた追いついてきて先へいく。そしてカーブで手こずっているところをぬく、ということを繰り返す。これが男なら一度ぶちぬかれると二度とちかづいてこないのだが、女性は男にぬかれても当り前だと思っているようで、何度もおなじことをする。邪魔なんだよね。

 TMには新日本名木100選のミズナラ、千本ナラの木がこのさきにあるとでている。国道から片道6キロと看板もでていたので寄っていくことにした。きょうは小平町にある鰊番屋を見学し、初山別の海岸で往時の鰊漁をしのび、天塩温泉か美深でキャンプをする予定である。寄り道をしても時間は十分にあるはずで、またそうしなければおもしろくない。

 国道をはずれるとすぐに山へのぼっていく。直後にキタキツネにあう。こいつは逃げていったが、すぐさきで道路端にねているキツネがいた。死んでいるのだろうかと思ったがそうではないようだ。眼をつぶっていて動かないが、どこか体がわるいような感じだ。肉体だけでなく、気持ちも病んでいるような印象だった。キツネはふて寝をしたように動かないので、横目でみてとおりすぎた。

 千本ナラの木は3本のミズナラの巨木だった。林野庁がえらぶ森の巨人だそうで、たしかに大きな木で、どれほどの樹齢をかさねているのかわからないが、かなり痛んでいる部分もあり、これからも長生きをしてもらいたいものである。ここは人気のないところだと思ったが、ホンダ・ジェイドにのった青年の先客がいた。レンタカーのふたりの若い女性もあとからやってきたので、巨木は人をひきつけるようだ。

 道路でねていたキツネが気になるので引き返すことにした。山をくだっていくとキツネはいなくなっていて、さきにすすむと道にたっている。バイクをとめて写真をとろうとすると寄ってきたのでDRを発進させた。エサをもらいたがっているようだが私にその気はない。見たところはやはり肉体的にも精神的にも病的なかんじで、人に依存して生きているような印象である。かわいそうだが何も与えないことが正しいことなのだ。もう1匹のキツネも道路脇にいたので、やはりエサをもらっているようだ。エサをねだる物欲しそうなキツネと、考えが足りずに食べものをあたえてしまって、結局キツネを不幸にしてしまう人間がいると思うと、物悲しい気持ちになってしまった。

 国道にもどって北上していく。石狩〜留萌間の海岸線はこれまでたずねたことがなかったので、西の知床ともよばれるこの地域をはしってみたかった。奇岩が点在するが、積丹や知床ほどではない。陸の孤島とも言われていたそうだが、いまは道路が整備されていて、昔日の面影はのこっていなかった。パーキングでVFRの女性ライダーが休んでいたので、ここがチャンスとアクセルをあけて先行する。もう会わないですむようにと祈りつつ。

 川釣り、渓流釣りをするかもしれないので、エサのブドウ虫を買うために釣具店があれば寄っていこうと考えていた。走っていくと集落によろず屋をかねた釣具店があったのではいって聞いてみると、あつかっていないとのこと。しかし3キロ先の店にあるとのことなので礼をのべてすすむと、2キロいかないところに釣具店があり、これではないだろうと通過するとそれだった。もどるのは嫌なのでそのまま行くが、北海道ではあるところで確実に手に入れておくことが肝要で、このあと入手にてこずってしまった。

 昼近くになったのでどこかで食事をしたいとおもった。TMをみてみると、留萌の蛇の目寿司が握り寿司が安いとでている。ここをめざしていってみると、うまくみつけることができた。蛇の目寿司は国道から30メートルほどはいった、気づかずに通りすぎてしまいそうなところにあるが、ゆっくりと左右を見ながらすすんだので看板をみつけることができた。北上していくと信号のある交差点を左にはいったところである。

 

 

 留萌の蛇の目寿司

 店のまえには広島ナンバーの大型スクーターが2台とまっていた。11時45分、すこし敷居がたかいと感じる格子戸をあけて店内にはいる。なかにはカウンターがあり、板さんが3人たっていて威勢よく、いらっしゃい、と迎えてくれた。個室もあるがひとりなのでカウンターにすわり、お品書きを見てみるとたしかに安い。握り寿司は、並565円、中680円、上1080円、極上1575円、超極上2500円くらい。ほかに並チラシ1160円ほど、上チラシ1600円前後がある。

 極上の寿司をたのむと、板さんは壁にかけてある木札をしめし、これですね、と確認する。それで、とお願いした。でてきた寿司は1575円とは思えないネタだった。ホッキ、ウニ、本マグロ、カニ、アワビ(ツブ貝かも)もあって非常に美味しい。写真をとりたかったが、まえに板さんが3人たっていたので恥ずかしくてやめたことが残念である。寿司ネタとなった甘エビの頭のはいった澄まし汁がついていた。これは昨年はいった小樽の寿司店とおなじだが、小樽の店のものは生臭かったのにたいして、この店のものは匂いはなく上品な味つけだった。

 私のあとから62・3のライダーらしき男性がはいってきた。横のカウンターにすわるがTMを見てきたような感じである。TMに載ることの影響力の大きさを感じるが、客が途切れることなく来るようになっても、料理の質や接客の誠意をうしなわない店の姿勢も好ましかった。

 となりの男性は並チラシを注文した。すると板さんはまた木札をしめし、これですね、と確認している。癖のようだ。実直な店と寿司に満足してそとにでた。店のまえには東海ナンバーのハーレーFLHがとまっていて、男性はコイツでやってきたのだ。荷物は左右のサイド・ボックスにはいっているのか見あたらない。ホテル利用のソロ・ツーリストのようだが、60をすぎてハーレーでひとり旅というのも粋である。

 留萌からR232の天売国道を北上するつもりが、まちがってR233をすすみ北竜方向にいってしまった。幌糠で気づいて道道550号線にはいり、軌道修正するが、この中幌峠をこえていく道は畑と廃屋があるだけの、荒涼とした風景がつづいていた。

 小平の町にはいりホクレンがあったので給油をした。燃費は21.45K/L。132円で1782円。セーフティー宣言に署名して、青旗とスタンプラリーの用紙をもらう。フラッグがうれしい。若い店員と話をすると、台風14号がまっすぐ北上してきているそうだ。稲刈りの時期なので困っていると彼は言う。スタンドをやりながら米もつくっているようだ。昨年も台風の雨風で稲がいたんだそうなので、心底心配していた。ツーリングで遊びにきている私も台風がきては困るのだ。しかしやってくるかどうかわからない台風よりも、いまは釣りエサのほうが気にかかる。彼に町に釣具店はあるのかときくと、金物店に仕掛けがすこしあるとのこと。それでは渓流釣りのエサはとてもありそうもないのでさきにすすんだ。

 海ぞいの天売国道を北上していくが虫がおおくなった。DRのフロント・カウルやヘルメットに無数の昆虫がぶつかるようになる。小型のものは眼にもとまらないが、大きな虫があたると視野に残像がのこる。なかでもヘルメットではなく、革ジャンの胸にぶつかった大型の蝶は、私の胸にぶつかると、数瞬空気抵抗にさからって前方にはねとばされ、直後にバイクの後方に飛び去っていく。虫がぶつかって前方にはねとばされている、ごくわずかな時間の残像が、印象にのこった。何もないときに眼にしている世界はアナログの連続のようだが、虫がはねとばされている一瞬は、デジタル画像のようにコマ送りの、2コマか、3コマの画像が網膜に焼きつけられるのだ。大型の蝶が回転しながらはねとばされて、後方に消え去っていく。私のまわりをつつんでいる時速80キロの気流が、複雑な経路で蝶をはこぶ。虫の死の刹那の姿態が眼にのこった。

 

 

 小平鰊番屋

 ほどなくきょうの目的地の小平町の鰊番屋に到着した。13時20分である。ここは道の駅が併設されていて、駐車場には観光バスがつぎつぎにはいってくるが、番屋を見学していく人はいない。観光客はトイレをつかっては去っていく。はいってきたバスのフロント・ガラスには無数の虫がぶつかってひどいことになっている。DRの前部もおなじような状態で胸をいためた。

 道の駅には鰊のおよぐ水槽があり、レストランがある。ニシン定食があるので昼食はここでもよかったかと思いつつ、奥にたつ番屋にあるく。入場料は350円でなかにはだれもいない。見学者は私ひとりだった。

  鰊漁というと前近代的で、どこか野蛮なものというイメージを持っていたのだが、高村薫の『晴子情歌』をよんでから認識がかわった。その時代の人々が生きるために、商品価値のあるものに金と力をあつめて、集団でたたかった生産的な営みが鰊漁なのだ。昔の北海道で商品価値のあったものは、ニシンとサケ・マス、昆布に石炭くらいなものではなかろうか。

 この番屋は明治時代にたてられ、最盛期には200人前後の人が生活し、鰊漁に従事したという。200人の人間が暮らした空間に、ニシンを処理するための道具類が展示されている。ニシンがとれだすとヤン衆は船のうえで食事をし、船上で眠ったという。とれたニシンをヤン衆が船で浜ちかくにはこぶと、女子供はモッコを背負って一日中ウロコだらけになって魚を運搬し、ニシンは大釜で煮られて干され、出荷されたが、それらにつかわれた道具類が往時を雄弁に物語っている。そしてモッコで魚をはこんだ給料は、ニシンの現物支給だったと説明があった。子供、女、男で現物支給の魚の量が細かく決められていたそうだ。

 番屋は巨大な柱でくみたてられた雄荘な建築物である。この番屋は小平町が約2億円の費用と3年の月日をかけて解体修理したものだそうだ。前述の『晴子情歌』は初山別の鰊漁について書かれている。ここよりもすぐ北のことなので受付の年配の係員にたずねてみると、本のことは知らないとのこと。話題になったこともないそうだ。この番屋を運営していた花田家は、最盛期には18ヶ統の定置網を経営した大規模経営者だったそうだが、1ヶ統だけの、高村の小説にでてくるような零細経営者は、それこそ無数にいたそうだ。

 ニシンは砂浜に産卵するのかと思っていたが、係りの人が説明してくれたところによると、磯にだけ生えている特有の海草に卵を産みつけるそうで、漁は磯でやり、浜までニシンをはこんだそうだ。したがって初山別でおこなわれていた鰊漁の場所も、どこの磯であったのか、容易に特定できるのだそうだ。そんなことも教えてもらわなければわからないことであった。

 鰊漁の現実にふれて、先人の苦労をしのびつつ天売国道を北上していく。ところで番屋の手前で夫婦ふたりのチャリダーをぬいた。年のいった夫婦で、ご主人はトレーラーをひいており、そこにビーグル犬をのせていた。犬連れのチャリダーはもちろん、夫婦で年配のチャリダーもはじめて見たが、時代はかわったと思った。そしてこれまでチャリダーということばは品がないと嫌って、サイクリストという昔の呼び名にこだわっていたのだが、もうそんな時代ではないと感じたのだった。サイクリストはチャリダーになり、モーター・サイクリストはライダーに、カニ族・バックパッカーはトホダーになっているのが今の時代で、それを受け入れないのは頑なにすぎると思うのだった。

 国道からたくさんの風車がみえる上平グリーンヒルで写真をとり、天売島と焼尻島を左手にみつつ羽幌の町をぬけていく。そして高村の小説の舞台となった、初山別の天文台下には15時に到着した。

 

 初山別の天文台

 旅にでる前に初山別村役場に電話をして、高村の小説に初山別の鰊漁が登場するが知っているか、と聞くと、知らない、とのことだった。役場で話題になったこともなく、はじめて聞いた、と。私は文学碑か鰊漁の歴史をしめすような施設があればたずねたいと思ったのだが、なにもなくて、ただ天文台の下が漁港なので、そこが昔の鰊漁の中心だったところだ、と言う。高村の小説のことは村にとって貴重な情報だし、財産にもなりうると思うのだが、はじめて聞いたとこたえた職員は私の話を熱心にきくふうでもなく、高村のなんという本なのかとたずねることもなかった。

 

 

 初山別漁港 沖に島影がみえる。

 天文台の下にはキャンプ場があり、その奥には中学校がたっていた。天文台下の漁港と砂浜、沖の天売、焼尻をながめて小説の世界と現実を対比してみるが、小説は第二次大戦前の時代がえがかれていて、いま中学生たちが教師とボランティアでゴミ拾いをしている状況とは、どうしても重ならない。中学生たちは健康的で明るく、素直そうだ。生活のために自然と闘った時代とはくらべようがない。ただ小説の舞台をたずねたことに満足して、初山別を立ち去ることにした。

 これできょうの予定は終了した。あとはキャンプをするだけだが、まだ時間があるので、明日の日程をこなしてしまえば旅の計画に余裕がうまれる。明日いく予定の音威子府駅の西をはしる物満内林道か、もしくは今回のツーリングのハイライト、道北スーパー林道の最高地点、絶景と評判の函岳山頂までいってしまおうかと考えながら走行した。

 遠別の町にいたり釣具店がないかと注意してすすむと、酒屋と釣具店をいとなむ店がある。ウインドーにマニアックなポスターがはってあり、これならばさまざまな釣具がありそうなので期待してはいってみた。店内には大型のトラウト用ルアー(本来はマス用だが北海道ではサケ、あるいはイトウにも使うのかもしれない)なども売られていて、奥に声をかけてでてきた主人に、ブドウ虫はありますか、と問うと、ある、と即答する。商品は種類、量ともに豊富で、ブドウ虫をだそうとするとイタドリ虫があり、こっちのほうがよいとのことで350円で購入した。それにしてもすごい在庫量である。海ぞいなので海釣り用の道具があるのは当り前だが、渓流用、ルアー用の道具をあつかっている店は北海道ではすくない。首都圏でもこれだけストックのある店はめずらしいほどだ。とくに大型魚用の道具がたくさんあり、北海道らしい大魚の夢がみたい人には涙ものの在庫だろう。

 店主と話をすると、道外からの遠征客も多数くるとのこと。どこで釣るつもりか、と聞かれたので、物満内林道か道北スーパー林道ぞいの渓流でやるつもり、と答えると、天塩川の上流部分では、熊の足跡があるような沢で大型魚の実績があるそうだが、私は熊の足跡の横で釣りをする度胸はない、と言った。道外から釣りにくる人たちは経験豊富で、熊撃退スプレーなどの装備もかためているそうだ。私は危険のない範囲でやるつもりだと言って店をでた。遠別の町にあるこの店は道北では貴重な存在だろう。

 遠別の町をでて道道119号線にはいり、音威子府方向に東進する。途中にある物満内林道をきょうのうちに走ると決めてすすんでいった。道道の左右にはそば畑がひろがっている。音威子府はそば所として有名だが寒冷な地なのだろう。ここはそば畑と廃屋の目立つ道だった。

 音威子府の町の手前で物満内林道に右折するのだが、進入口がわからずに通りすぎ、16時に道の駅『おといねっぷ』についてしまった。ここは去年Pキャンでとまったところだ。ここまで来たら美味しいと評判の、JR音威子府駅の立ち食いそばをたべてみようと行ってみるが、残念ながら店はしまっている。売り切れてしまったのだろうか。私のあとから来た夫婦2台のライダーは、ならば道の駅のそばをたべると引き返していった。

 私は物満内林道にむかった。この林道は数年前から通行止めと聞いていたが、どうなっているのだろうかと思いつつ入口をさがす。林道は物満内川にそっているので川を目印にしていくと、川の堤防から林道につながるルートがあった。

 

 

 物満内林道 入口付近 このさき通行止めとでている

 堤防から林道にはいるとすぐにトラックが2台とまり、山仕事を終えたらしい年配の男女が、5・6人くつろいでいた。通行人がくるとは思ってもいなかったようで、あわててトラックをどかしてくれたが、このさき14キロ地点で通行止めになっている、と教えてくれた。さきにぬけるのではなく、林道をはしることが目的なので行ってみます、と答えると、峠をのぼりきり、下って、あとすこしでむこう側にぬけられる、という地点にロープがはってある、と丁寧に説明してくれた。

 林道にはいっていくと森が深い。はじめて北海道の林道をはしるので、熊が気になってドキドキしながらすすんでいく。熊の気配をかんじたり、道がけわしかったりしたら、すぐに引き返えせばよいとも考えていた。林道の入口からの距離をオドメーターで確認しつつ、4・5キロはおっかなびっくりすすんでいく。川ぞいなのですばらしい釣りのポイントもあるが、熊が恐くてひとりで釣りをする気になれないし、第一バイクをとめることさえしたくなかった。

 TMには走りやすいダートと書いてあり、たしかに荷物を積んだままでもいける。なおもビクビクしながらすすんでいくと、道はロング・ストレートとなった。ジャリダートの直線でアクセルをあけてスピード・アップすると、林道を疾走する感触がたまらなく痛快だ。60キロ以上のスピードではしり、フロントとリヤのタイヤがジャリでスライドしたり、ギャップにつっこんでハンドルをとられるのを、強引におさえつけて走ることがたのしい。オフロードを飛ばすことがおもしろくて熊のことをわすれ、引き返す気持ちもなくし、ただバイクを運転することに夢中になった。

 入口からの距離が10キロをこえたので、14キロ地点にあるというロープのはってあるところまでいってみることにした。ジャリダートを飛ばし、水たまりをドブンと横切っていくと、道は急カーブのつづく深ジャリの峠道となった。路面は掘れていて荒れてくる。しかし登りならアクセルをあけさえすれば車体は安定するし、スピードがですぎることもない。アクセルの開閉にメリハリをつけて運転していく。道はせまく先が見通せない。カーブのさきに熊がいては困るので、クラクションを鳴らしながらすすんでいった。

 深ジャリの荒れたのぼりを気分よく走っていく。慣れるとガンガンいける。入口から15キロがすぎたがロープはあらわれない。峠をくだった先にロープはあるとのことだったので、ピークをこえてすすむと、入口から19キロ地点にロープはあった。この林道の長さは20キロなので、ほんとうにあとすこしでむこう側にぬけられるところでの通行止めだった。

 

 

 林道通行止め地点

 17時15分にロープのまえでバイクをおり、ジャリの坂道をおして切りかえし、バイクの方向をかえた。ここはたしかに走りやすい林道でオンロード・バイクでも走れるだろう。ただ大型車やハンドルの低いバイクは苦しいと思う。

 19キロの道をもどっていく。一度はしった道なので気持ちは安定して不安はないが、熊だけが気がかりである。熊のフンや足跡はないが、クラクションを鳴らしながらヘアピンカーブの峠道をこえてくだっていく。深ジャリのくだりはゆっくりと慎重に走行した。やがてロング・ストレートにもどりまた飛ばせるようになる。アクセルをあけて50キロから60キロで疾走した。DRのポテンシャルの高さを実感する。オンもよいのだがオフでは本来の力を発揮するのだ。不安定になる車体をおさえつけて飛ばすのがたのしくて、これがオフロードの醍醐味だ、と思った。

 調子にのってアクセルをあけすぎ、カーブをまがりきれなくなりそうになったり、ギャップにつっこんでふられたりして、自重してすすんでいく。高速のカーブをつないでいくルートとなり、林道の入口まであと4・5キロのところまでもどってカーブをぬけると、200メートルほど前方に、7・8頭のエゾシカが林道上で草をはんでいるのが見えた。アクセルをもどしてクラクションを鳴らすがシカは反応しない。路上で草をたべつづけている。シカの体は大きい。どかない気なのか? と不安になった。ヘッドライトをつけ、クラクションを鳴らしながら接近する。シカは出会いから3秒ほど動かなかったが、急にはじかれたように左右の林のなかにとびこんでいく。しかし1頭だけ森にはいらずに、林道をはしって逃げていく奴がいる。つまり私とおなじ方向に走っているのだ。こちらはバイクなのですぐに追いついてしまう。シカはジャンプしながら林道をくだるが、DRのすぐ前にせまり、お尻にあるふたつの丸い白毛がすぐ眼の前だ。シカはもっと速いものとの先入観があったのだが、時速30キロほどで走っているのではなかろうか。シカ特有のジャンプ走法も遅いものだなと思っていると、シカは左の熊笹のなかにとびこんで、消えてしまった。どうもシカは反応がにぶいようだ。『馬鹿』という漢字があるのも、むべなるかなと感じる。そしてまだ出会ったことのない、会いたくはない熊は、用心深く、敏感なのかもしれないと感じた。

 林道を17時50分にぬけた。19キロにかかった時間は35分である。林道の入口は堤防ではなく、きちんとした道がつけられていた。国道にもどってふたたび音威子府にむかっていく。さっき出会った夫婦のライダーは道の駅でそばをたべると言っていたので、私も行ってみたがすでに閉店となっていた。

 もうキャンプの準備をしなければならない時間だ。天塩川温泉リバーサイド・キャンプ場か、森林公園びふかアイランド・キャンプ場にはいろうと考えてすすむ。そのまえに焼肉か刺身を手にいれて、夜のひとり宴会にそなえたいのだが、店はまったくない。そうこうするうちに天塩川温泉のキャンプ場入口についてしまい、美深まではまだ35キロあるとのことで、さきにいくのはやめ、非常食と酒はあるので天塩川温泉で野営をすることにした。

 18時15分に無料のキャンプ・サイトについた。バイクが10台ほどと車も2台いて、テントが点在している。ここはバイクをとめた駐車場から階段をあがって、一段上の芝生のサイトに荷物をはこばなければならない。暮れてきたので急いで荷をかつぎ、テントをたてるが、そのあいだに同年くらいのライダーと話をした。彼の家は私の自宅のすぐ近くだったので、お互いにびっくりした。彼はCB750Kの最終型というなつかしいバイクにのっていて、外車のアメリカン・バイクにのる女性と旅をしていた。女性のバイクは首都圏ナンバーだが私たちとはちがう。奥さんなのか、それとも恋人なのかと下らないことを考えた。CBを、なつかしいバイクだ、と私が言うと、なんとか動いている、と答える。ずっと乗っているのかと思ってたずねてみると、10年つきあっているそうだ。私もDRに10年以上のっていると言うと、DR650ははじめて見た、とのことだった。 

 

 

  

 明るいうちにそばを200グラムゆでた。これだけは必要と持参したざるにのせて、ざるそばにして食す。テントのまえでイスにすわってたべた。濃縮めんつゆももちろん用意してあるが、米は持ってきていない。米を炊くのは手間と時間がかかるし、食器を洗うのも面倒だからだ。その点そばはゆでるだけで手軽なので、今回の主食はそばにしたのだった。

 キャンプ場に私のあとから来た人はいなかった。私がいちばん遅い到着であった。夕食をおえて食器をあらい、19時20分に天塩川温泉にいく。温泉はキャンプ場のすぐ下にあり、入浴料は300円だ。湯は熱くなく私にはちょうどよい温度だった。

 温泉にはレストランもあり、食事も酒ものめるので、食料がなくともなんとかなるキャンプ場だが、何時まで営業しているのかはたしかめなかった。風呂で汗をながしてテントにもどり、家内に電話をすると、青森まで雨になっていて、北海道も明日まで晴れだが、明後日は雨とのこと。台風14号はそれることなくまっすぐに北海道にむかっているそうで、雨のふる前の明日中にたのしんで、と家内が言うのをきいて電話をきった。天気のことははっきりとはわからないものなのに、やけに断定的に話す家内の口調が気になったが、台風のコースからいって、天候が荒れることは間違いないのかもしれないと思われた。

 空は満天の星空だった。天の川もみえるが、これを眼にしたのは何十年ぶりだろうか。昨年も富良野で星のおおいのに感激したがその比ではない。空には数千、もしかしたら万をこえる星々がちらばっていて、冷えこんでいくテントの外で見ていても苦にならない。あちこちのソロ・ツーリストもテントの外にたって夜空を見あげている。星屑、と言うことば本来の姿をはじめて見た気がした。

 酒をのみながら夜空を見あげてすごすが、昔の天文学者はえらいものだと思った。この数千、数万の星を観察して、運行を記録し、その規則性をみいだすことなど想像もつかない。私とは頭の出来と構造が根本からちがうが、古代の人々の研究とその成果には頭がさがる思いがした。しばらくテントにはいりメモをつけてから外にでてみると、霧がでて、星はもう見えなくなっていた。

                                       428.8キロ

 

 

 

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