9月4日 22年を経て支笏湖キャンプ

 

 

  夕刻を迎えようとする北海道沖の海

 6時30分に太平洋上のさんふらわあの2等寝台で目覚めた。しかしそのまままどろんでいると、闇のなかの道の真ん中にたつ、道路標識がみえてくる。標識の意味するところはわからない。ただ闇のなかに1本だけたっている標識が不気味で、恐ろしくて、そのビジョンを頭のなかでなでまわし、手触りをたしかめているうちに意識をうしない、7時30分に覚醒して起床した。

 闇のなかに浮かんだ道路標識のイメージをひきずりつつ船内を散歩する。昨晩は閉まっていたイートインがあいていた。ここは食事の予約をした人が利用するほか、自動販売機があって、カレーなどを電子レンジであたためて食べられるようになっている。この自動販売機でカップめんが売られていないことを確認して、8時からはいれる風呂にでかけた。

 カップめんを持ち込んでいるので、お湯があれば利用したかったのだ。どうしたものかと考えながら風呂にいくと、早起きの人はおもったほどいないのか、それとも朝から入浴する人は少ないのか2番目だった。展望風呂から海をながめつつ湯船につかるが、よい気分である。これから1週間、仕事のことは考えずに北海道を走りまわれるのだ。こんなことができるのも、ツーリングにだしてくれた家内のおかげだが、つぎの機会はいつ訪れるとも知れず、考えてみれば今は貴重な時間なのだった。

 サウナにもはいってみたがまだ温度がなじんでいなくてひどく熱い。床はものすごく熱いし、イスも焼けている。腰をおろすと、ハッと打たれるほどの温度で、たまらずに退散した。

 朝食は持ち込んだパンとおにぎりですませた。食後に寝台でゴロゴロしているとまた眠ってしまう。ふだんでは考えられないリラックスした時間のつかいかただ。10時におきると船内探索を再開した。外は雨がふっていて甲板は濡れている。今のうちに降るのはよいのだが、北海道についたら晴れていてほしいものである。船は金華山沖をすすんでいるとのこと。甲板にでてデジカメと携帯で海やフェリーの写真をとり、歩きまわっていると、スリッパで甲板にでてはいけないと書いてある。たしかにスリッパではすべって危険だ。だれにも注意されなかったが、あわてて船内にもどった。

 甲板から船内にはいると右手にイートインがある。テーブルが解放されているのでここで過ごしている人もおおい。本やガイドブックを読むのなら、寝台で横になるよりもここのほうが便利だろう。イートインにはお湯がないのは確認済みだが、水とガス・コンロ、コッヘルまで持ち込んでいるので、湯など簡単にわかせるのだが、できればそんなものは使わずにスマートにすませたい。イートインでは銀髪の白人男性がひとりで本をよんでいる。痩身、白皙で北欧の人のような感じで、年は私とおなじくらいだ。またとなりの寝台のバイクの青年も、所作なげにすわっていた。

 壁に船内図がはってあったのでよくよく見てみると、給湯室というものがあった。さっそくいってみると旧式の無骨な給湯器があり、すでにカップめんを食べている人がいて、ゴミなどが捨ててあり、のこったスープをながすときの注意事項も書かれている。わかっている人はもう利用しているので、昼食から私も使わせてもらおうと思った。

 寝台にもどってTMを見てすごし、11時15分にカップめんをたべた。ビールがのみたいが、酒は日が暮れてから飲むものなので我慢する。メモをつけ、TMをめくり13時にまたカップめんをたべてしまう。ほかにすることがないのでやりたいようにすごす。14時にまた風呂にでかけた。浴室にいたのは1人だけでサウナにはいっている。ゆっくりと時間をかけて大きな展望風呂にひとりきりでつかり、サウナにもはいった。温度のおちついたサウナにすわっていると、頭からワラワラと汗がこぼれてきて、脳細胞が活性化されていく。体内に蓄積された重金属が排出されるのでよいとの説があるが、本当のところはわからない。ただ頭はスッキリとして、シナプスのつながりも100%になったかんじで、これだからサウナが好きなのだった。

 風呂からあがりイートインにいってガイドブックをよむ。外人はまだいるがとなりの寝台の青年はいなくなっている。左手に下北半島をみながらフェリーはすすむ。下北半島は青函ルートでは仏ヶ浦が見える景勝地だが、太平洋側の風景はただ山なみがつづくばかりで見るべきものはない。携帯のムーバはずっとつながっているが、フォーマは圏外のままだ。フォーマの受信エリアはせまいということを実感する。これでは都会でなければ役にたたず、北海道でも私がいこうとしているところでは使えるとはおもえなくて、ムーバを持ってきてよかったと思うのだった。

 16時すぎに寝台にもどって横になっているとまた眠ってしまう。こんなにのんびりしたことはないので船旅もよいものだ。30分ほどで目覚めて荷物の整理をする。TMをつかうことにしたので、もう1冊の地図とガイドブックは不用だ。タンクバックからだすことにした。17時すぎにまたもカップめんをたべてしまう。食べすぎだが、これで持ち込んだ食料はすべてなくなり、荷物もスッキリした。

 17時30分から夕陽の写真をとりにいった。甲板は風がつよくなっていて寒いので、革ジャンを着ていくとちょうどよい。時間をおって変化していく空の色をカメラに記録していく。写真は趣味ではなく、ふだんはこんなことはしないのだが、夕陽はそんな私にシャッターを切らせるほど美しかった。まわりでもたくさんの人が写真をとっている。イートインにいた外人もいるが息子といっしょだ。子供は20くらいに見えるが、外人は日本人よりも年上にみえるので、私の子供とおなじ16くらいかもしれない。外人の親子は自然に会話をしている。私と息子の対話は最近ぎこちないので注意をひかれた。母親はきていないのだろうか、ふたり旅なのだろうかと考えた。

 

 

 

 船は左手に北海道の大地を見ながらすすんでいく。都市や道路はなく山ばかりがつづいている。強風がふいていた。私は革ジャンをきて風をふせいでいるが、まわりはTシャツの人ばかりで、彼らはかなり寒いはずだ。甲板の奥にすすむとラウンジがあった。テーブルとイスがあり、ここでも人々がくつろいでいて、となりの寝台の青年はここにいた。私もソファにすわって窓のそとの落陽をみつめる。太陽がしずむのを見ていたのははじめてだ。ほかにやることがない船上だからこうしていられる。そうでなければ何かしらやることをみつけてしまって、じっとしていることのできない私だった。

 ラウンジにはテレビがあり天気予報をやっているが、台風14号が接近していて、9月7日の水曜日くらいに北海道に上陸するかもしれないと言っている。気がかりだが、どうせそれていくだろうと楽観的に考えた。

 18時30分に寝台にもどって荷物をまとめだした。あとすこしで上陸なのだ。19時45分に放送がはいり、地下4階におりて下船の準備をはじめる。やがてフェリーは着岸したが、バイクの順番はいちばん後で、20時05分に北海道に上陸した。すぐにターミナルにいって帰りのフェリーを2等室から2等寝台にかえてもらおうとするが、対応した若い職員は、すでにいっぱいです、と言う。この社員は木で鼻をくくったような受け答えをする、役人のような男だった。人間の幅がまるでない。あとは当日問い合わせてもらうほかないと言うし、今の仕事に不満だが、辞める踏ん切りもつかなくてしかたなく勤めている感じの、後ろむきの人間と話すのは不快なので、早々に立ち去った。

 いっしょにフェリーをおりたバイクたちはどこへ行ったのか、1台もいなくなっていた。近くのライダーハウスかホテルにでもはいったのだろうか。私は長いあいだフェリーにのったので、すこしでもよいから北の大地を走りたいと思っていた。支笏湖にモーラップ・キャンプ場があり、夜でもはいれるとのことなので、北海道初日はそこまで走行するつもりだった。

 埠頭をでてR36にはいるとすぐに山岡屋があった。カップめんをたべたばかりで腹もすいていないのだが、ここではいらないと次はいつになるのかわからないので立ち寄る。たのむのは正油ラーメン580円、味濃い目の油おおめだ。でてきたラーメンを上陸して圏内になったなったフォーマのカメラでとり、メールに添付して家内におくる。たべてみると豚くさくてあまり美味しく感じられない。味はまえと変わらないのだが。メールが家内からかえってきて、お気に入りのラーメンをたべられてよかったね、とあるが複雑な心境でそのメールをよんだ。

 山岡屋をでるとすぐにR276への分岐があり、右折して北上していく。支笏湖まで24キロと表示されているが、交通量はとたんにすくなくなる。街灯もなくなって、すぐに市街地はきれ、白樺林をぬけていく道となった。この道は1983年のツーリングのときにも走っていて、あのときは暮れていく時間に泊まる場所も決まっていなくて、支笏湖までがとても遠く感じられたし、左右の白樺の白い木が神経にさわったのをおぼえている。視野のはずれを白い木がながれていく連続が、精神にさざ波をおこし、私をゆさぶったのだ。いま、20年以上の時をへだてて、おなじように支笏湖のキャンプ場にむかっていくが、白樺は私に何ももたらさない。ただおだやかな林であるだけだ。あのときはまだ若くて、感受性が鋭敏すぎて、気持ちに余裕がなかったのだ。

 街灯はすくないが、このツーリングのために買いかえたヘルメットのおかげで視界は良好だった。オフロード型なのだがフルフェイスになっているものだ。このヘルメットなら夜でも雨のなかでも往生することはない。以前はオフロード・ヘルメットにゴーグルの組み合わせだったのだが、これは夜と雨にはまったく無力で、苦労させられたものだ。新しいヘルメットで長年の弱点だった夜と雨を克服することができた。

 夜間走行は鹿などのとびだしが恐いので注意して走るが、後方からハイスピードの車がどんどん追いついてくる。100キロ以上で疾走する車は先にいかせて、80キロ〜90キロで巡行する車のうしろをついていった。24キロの距離でこのスピードなのですぐに支笏湖にさしかかった。

 R276は支笏湖の手前で左にまがり湖の南をはしっていく。その左折する直前でバイクが2台おいついてきた。私が左にまがるとついてくる。モラップにはいってキャンプ場の看板にしたがって湖畔にむかうと、やはりついてきた。おなじキャンプ場かと思ったら彼らはライダーハウスだった。

 2台のバイクと湖畔でわかれ、21時20分にモーラップ・キャンプ場に到着した。地名はモラップで、キャンプ場はモーラップなのだ。日曜の夜なのですいている。キャンプをしているのは夫婦で酒をのみ、大声で話しあっているふたりだけのようだ。彼らはキャンプ場の中心で、たき火をしながら怒鳴るように語りあっていた。はじめは喧嘩しているものとばかり思ったほどだが、そんな大声が彼らにはふつうらしい。この夫婦からはなるべく離れたいし、手早くテントをたてたいので、入口近くに幕営地を決めた。夫婦はずっとおなじ調子で喚きあっているが、これを自宅でもやっているなら近所迷惑だろう。都市部に住んでいればの話だが。都市に暮らしている人にはこんな人間はいないが。

 テントの設営をしていると若い男性キャンパーがカンテラをさげて歩いてきた。夫婦のテントの奥からやってきたのだ。彼の話を聞くとこのキャンプ場は奥がふかく、かなり広いとのこと。土曜日だった昨日は120張りものテントがあったそうだが、今晩は5張りとのことだった。 

 21時45分にはキャンプの準備はおわり、おまちかねの焼酎を一杯やる。そして奥に広いというキャンプ場を見にいってみた。たしかに湖にそってキャンプ場はつづいていて、さっき会った男性のテントの奥に、250オフローダーと原付スクーターの人のテントがふたつたっている。スクーターにはカバーがかけられていて機種はわからない。またキャンプ場の入口にはボート乗り場の駐車場があって、ここにも3台の車がとまりPキャンをしていた。

 テントにもぐりこむと本格的に飲みはじめ、家内に電話をする。首都圏は台風14号の影響で大雨とのこと。テントの天井を見上げながら酒をのみ、ラジオに耳をかたむけ、北海道1日目の夜は更けていく。エアマットやシュラフの肌触り、キャンプの感触をしみじみと楽しみながらすごす時間だった。

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