7月28日(木) 何もない富良野、そして札幌駅の夜

 

 当時のガイドブックが手元にのこっている。山と渓谷社の『たびんぐ』シリーズの北海道、1983年版である。その稚内の紹介は、
「町を歩いていると、がっしりした樺太犬が荷車をひいている姿にもしばしば出会います。そんなときににわかにさいはての旅情が深まってきます。」
 樺太犬と荷車は見かけなかったが、こんな時代であった。

 今日も雨である。天候は悪いが今日のうちに札幌までいくつもりで、気合をいれて走りだす。6時だった。当時日本海側をはしるオロロンラインはなかったと思う。国道40号線を南下していく。手塩町で海岸線にでて雨のなかを走りつづけて留萌にいたる。稚内駅でいっしょだった外人とツーリング・ライダーは、この留萌のどこかの工事現場にはいるのだと思って景色を見るが、留萌はひろく茫洋とした印象しか得られない。ここから内陸に進路をとり東進する。まっすぐに札幌にいっても面白くないので、富良野を経由していこうと考えていた。

 当時の富良野は観光的にまったく無名だった。ガイドブックに富良野のページはないほどだ。『たびんぐ』だけでなく、家内が1982年に購入した山と渓谷社の『トラベルJOY』にも記述されていない。わずかにラベンダー畑が人口に膾炙されているくらいで、たずねる者もすくなかった。行ってみようと考えたのはラベンダー畑を見てみたい気持ちが8割、TVで放映中だった『北の国から』の舞台にたってみたい気持ちが2割だった。

 内陸にはいっていくと雨はあがり気温も高くなってきた。カッパを脱いでここ数日ずっと着ていたトレーナーもとるほどに暑くなる。ここからの記憶はあいまいで、間違っているかもしれない。富良野の駅にいった記憶である。駅が町の中心地なので、とりもなおさず駅をたずねるのが習い性だったのだ。富良野駅はおどろくほど小さく、みすぼらしい建物だった。改札のまえに切符売り場と待合室があるだけの典型的な田舎の駅で、駅前広場もない。細い道の突き当たりに駅はあり、商店もほとんどなく、駅前の家の壁にはタールが塗ってあって、暑さのなかでそのにおいがして、タクシー一台いるわけでもなく、GSXをとめるとそれでいっぱいになってしまうような空間で、私はすぐに立ち去った。この記憶は正しいのだろうか。

追記 これも記憶ちがいであった。2005年のバイクツーリングで、駅入口に30年住んでいるという女性にたしかめたが、駅は昔のものも今と同等の大きさで、駅につづく道も、拡幅はしたが、私の記憶している2メートルほどということは、断じてないとのことだった。

 

 富良野にきたのだがラベンダー畑はない。もっとさきかと進んでいく。富良野にはいったのは昼時をすぎた、食堂などが休憩時間になっているころだった。国道をいくとログ建築の洒落た喫茶店があり、その店のまえの歩道にバイクを乗りあげているツーリング・ライダーがいる。対向車線だったが、私も急ブレーキをかけて、バイクをターンさせ、歩道に乗りあげて、彼のとなりにバイクをとめた。ただおなじツーリング・ライダーというだけで、すぐに友達になれるので、ためらわずにそうした。
「こんにちは。何をしているんですか?」
 ヘルメットをとりながら話しかけると、彼もにこやかに答えた。

 彼は関西の人だったと思う。バイクはアメリカンだったと記憶する。休憩中の喫茶店が夕方にひらくまで、あと4時間ほと゛、待つか思案しているところだった。喫茶店をおとずれたツーリング・ライダーを店主が写真にとり、店のなかに飾ってくれるという。私も雑誌で読んだような気がしたが、せっかちで貧乏性のさがゆえ、4時間も時を無駄にしたくない。それに店内にはられた写真を、また見に来ることができるのかはなはだ疑問だ。つぎにいつここに来られるのか見当もつかないのだから。いろいろと話していると彼は言った。
「五郎の家には行きました?」
「北の国からの? いや、行ってないし、だいいちどこにあるのかも知らないのだけれど」
「富良野の駅から、砂利道を15キロばかり登っていったところですよ。急坂で、えらい道です」
「行ったんですか?」
「行きました」
「どうでした?」
「どうって、誰も住んでない小屋が、森のなかにポツンとたっていて、なかに撮影で使ったような、いろいろなガラクタが放りこんであるだけで……、行ってみます?」
「道は厳しい?」
「かなり」
「それじゃ、やめときます」

 簡単にあきらめる私だった。道道でもない砂利道を、それも急坂を15キロも走るのはご免だった。どんなにひどい道か、想像がつく。彼はその付近でナンバーをつけていないトラックを見たと言う。警察がくることも稀なので、車検なし、ナンバーなしで、私有地から公道まで走っていると言うのだ。
 
 またそのころ北の国からの原作者で脚本家の倉本聡が主催する、富良野塾という演劇集団があった。この年はたしか二回生だったと記憶するが、彼は塾生から聞いたといって、倉本聡の人となりを語った。
 曰く、ものすごく我儘で、塾生を人ともおもわぬ態度でこき使い、傲慢で鼻持ちならない、と。私がTVで倉本聡を見て感じていたのと同じ印象だった。それでそうなんでしょうね、と相槌をうった。ただ、倉本聡の作品は『北の国から』はもちろんのこさず見ているし、ほかの作品も気づけば必ず見たいとおもっている。倉本聡の人となりはどうなのか知らないが、昔から作品のファンである。

 彼は喫茶店があくまで待つという。待てない私は出発した。ラベンダーの時期ではないのかほかの花はあるが紫の花はない。一面にコスモスが咲いている畑があって写真をとる。ほかに何もない富良野だった。

 38号線をはしり狩勝峠をこえた。滝川を経由して札幌についたのは5時30分だった。札幌につくと安くて良いというビジネス・ホテルの情報を聞き込んだ。駅にいた野宿旅行者からである。たまには宿に泊まるのもよいかもしれないと思える、3千円ほどの料金だ。さっそく行ってみるが満室で、2年前に4日もとまった札幌駅を今夜の宿とすることにした。

 札幌駅は2年前とおなじだった。ツーリング・ライダーやサイクリスト、バックパッカーが4、50人はいただろうか。サイクリストは年の若い者がおおく、金をかけない人がほとんどで、駅前で米をたき、豆を煮て食事をとったり、どこかのホテルの裏口からはいって、ただで風呂につかって来てしまう豪の者もいた。

 ライダーはライダー同士、自転車はサイクリストで、それぞれグループになっていく。これはどこの駅でも毎晩おこなわれていたことだ。私はVT250初期型君、RZ50君、モンキー君と4人でいっしょになった。VT君は開陽台に連泊していた都内の人だったと思う。ここで再会したと記憶するが、確信はない。

 

   この写真はRZ君が送ってくれたと記憶する。右端がRZ君。

 RZ君は昨夜もここで泊まり、ライダー同士で酒宴をひらいたと言う。VT君は9日間風呂にはいっていないと話す。私がおどろいていると、自宅ではこんなことはしない、でも北海道では平気だ、そうだろう? と同意をもとめる。そんなことないよ、と私。
 
 VT君は体の汚れは気にならないようだかバイクは気にかけていて、帰郷したらどうやって掃除をするつもりかと聞いてくる。タンクやシート、テールカウルまではずして徹底的によごれを落とすと答えると、そうか、タンクをはずすのか、と納得して、タンクもカウルもはずしたことないことがわかった。

 RZ君が飲もうという。まだ早いだろうと一同。陽はまだのこり、通勤通学の地元の人たちがたくさんかたわらを歩いている。モンキー君はエンジン・オイルが減ったときの用意にオイル缶をつんでいた。エンジンが焼けないように40キロで走るそうだが、CBX400Fも持っていると言う。
「なぜCBXで来なかったの?」と問うと、
「まあ、ね」と答えない。

 RZ君がまた飲みたいという。それじゃあ、そうするかと金をだしあう。RZ君が昨夜も買ったという酒の値をいい、四等分する。おどろくほど安い。RZ君は金を集めると、俺が買ってくる、と言って走っていった。
「よほど酒がすきなんだな」
「ずいぶんと飲みたがってたから、嬉しそうだ」
 などと一同。RZ君が買ってきたのは『サッポロ・ハイソフト』という酒だった。これは北海道でしか売っていない焼酎である。一同コップをとりだして乾杯した。場所は札幌駅前である。はじめは大人しくやっていたのだが、しだいに酔って大声ではしゃいでしまった。ふと我にかえると、サラリーマンの大人たちの視線が冷たい。これではいけないと口をつぐむのだが、酔いにのまれてしまい、人目など気にならなくなった。

 私はモンキー君に、どうしてCBXで来なかったのかとしつこく聞いた。モンキー君は口が重い。理由なんてない、と答えない。それではわけはあるが言えないと返事したのとおなじだ。べつに黙っている必要もないと感じるのだが、なかなか真相を明かさない。しかしついに根負けして、
「CRキャブをつけていて、アイドリングをしない。エンジン特性もピーキーで、高回転でないと走らないから、サーキットでないと走りづらい」
「でも」と私。「それでもモンキーよりCBXのほうが楽でしょう?」
「そりゃ、そうなんだけど」
「それならなんで?」とほんとうに執拗な私。
 彼にとっては大切なことだったようだ。軽々に口にしたりしないこと。自分の胸のなかで吟味して決めたことを言いたがらない男はいる。彼が切れ切れに語ったのは、
「こんな馬鹿なこと、若いうちにしかできないから、わざと苦しいことを、好んでやっている」
 そうか、と納得した。モンキー君は硬派だった。

 サッポロの夜、酔いはふかまり、サッパロ・ハイソフトは空になった。4人で駅のひさしの下に移動して、シュラフをならべて眠りについた。

                                 走行距離  503.6キロ 

 

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