7月25日(月) 深夜の盗難事件発生、開陽台、日本縦断男

 バチン、という音がした。耳につく嫌な音だ。バス停小屋の壁をへだててとめてある、バイクの方から聞こえてきた。しかしまたウトウトと寝込んでしまう。

 バチン、という音がまたした。ドサッ、と何かを投げだす音もする。なんだろうと、今度は目が覚めた。音をたてないようにゆっくりと起きあがり、シュラフからでて、ガラス窓から外のバイクを見てみると、黒いジャージ姿の男が私のテントを左手でかかえ、GSXに積んである荷物を物色している。

 若い。同い年くらいだ。物音がしたときに、泥棒かもしれないとは考えたのだが、じっさいに盗人が目の前にいると、体が硬直する。数瞬見つめていると、気配がつたわったのか、男が振りかえって目があった。とたんに男は身を翻す。私も財布とカメラをつかんで靴もはかずに追いかける。小屋から飛び出すと、50メートル前方を黒い影が疾走していく。テントをかかえたままだ。泥棒、と声をあげようとするが、喉がひりついて、声はだせない。

 男は角をまがった。足は速い。私もつづいて路地に走りこんだが、盗人の姿はない。さらにどこかの路地にはいったのか、それとも暗がりに潜んでいるのか。後ろを振り返りながら先にすすみ、唐突にもどってきたりを繰り返すが、泥棒は見つからない。見失ってしまった。

 バス停にもどって時計を見ると3時だった。バチン、という音は荷物をとめていたゴムバンドを切断した音だった。無残に切られている。被害を調べてみると、テントとカメラ用の三脚がなくなっていた。テントはこのツーリング用に買ったものだが安物、三脚も何年も使った傷だらけのものだが、なければソロの私は自分の写真がとれないし、テントがなければキャンプもできなくなってしまう。

 怒りがこみあげてきた。人のものを盗るなんて、信じられないし、許せない。同年くらいの男だったが、貧しい旅人の荷をあさるなんて、なんてさもしい根性なのか。もう二度と根室にはこない。

 根室に罪があるわけではない。荷物を積んだままにした私も悪かったのだと、2002年の今は思う。しかし安物のテントと三脚を盗んでいったのは、あの時代だったからだ。いまなら落ちていても拾わないのではないか。それにしてもあの男、背中に目がついているような緊張感、身のこなし、足運び、相当場数を踏んでいた。

 男はテントをかかえていたが、三脚は持っていなかったような気がした。なにかが落ちる、ドサッ、という音がしたから、バス停横の草地に投げ込んだのかもしれないと考え、30坪ほどの雑草のしげった空き地をくまなく探してみた。しかし、ない。空はしらみ、夜が明けてきた。夜明けにこんなことをしている自分を鑑み、心底情けなくなってきた。

 不条理だ。北海道の果ての根室で、こんな目にあわなければならないなんて。せめて写真でもとってやろうと、カメラを何かのうえにおいて、自動シャッターで撮影した。

 

  そのまま早朝の出立となる。4時であった。空は、怪しい雲がわいている。私の気持ちもすっきりしない。きのう夕日に染まっていた風連湖をかすめて、内陸に進路をとり開陽台にむかった。

 今回のツーリングでは北海道を一周することが一番の目的なのだが、開陽台と知床は、ぜひとも見たかった。本来なら開陽台でキャンプをしたいところなのだが、テントをなくしてしまった今となっては無理となってしまった。それにいまからむかえば朝のうちに到着してしまい、そのまま泊まるのはあまりにも時間がもったいない。とにかくライダーの聖地を見なければとGSXをはしらせたのだった。 

 雨が降ったりやんだりするなかを、カッパを着て走っていく。前後にいる車は少ない。国道からそれて、道道にはいると周囲に車はいなくなってしまった。

  雑誌で見たとおりのまっすぐな道がつづいていた。開陽台の入り口まで、何十キロもの距離があったが、その間には何もない。あったのは農場と牧場のみで、人はひとりも見なかった。牛と、巨大な牧場用か農業用かわからない機械と、サイロで、人家はなかったと思う。

 やがて見えてきた開陽台入り口の看板。そこから見あげる開陽台は小山のようだった。こんもりと木の茂った山で、登っていく道は赤土状の未舗装路だ。雨でぬかるんでいたが、走りづらいというほどでもなく、200メートルほどの距離をのぼっていく。行き止まりの、荒れた感じの、まだ整備されていない広場にでると、円筒形のコンクリートの建物だけがぽつんと建っていた。

 バイクが7・8台とまり、自転車も3台ほどあった。テントはひとつもたっていない。円筒形の建物は一階建だった。屋根の上、つまり二階部分が展望台になっている。これは2002年現在の展望台から、キャンプ場を見下ろすとたっている建物だと思う。当時はキャンプ場のしたからこの建物をめざして登ってきたのだ。2002年現在の立派な展望台は、木の茂っていた山の頂上部分だと思う。木を伐採して整備したのだろう。いまはある上り下りが別になっている舗装道路も、当然なかった。

 (追記 これは記憶違い、勘違いであると2005年ツーリングで確認した。現在の展望台から見える、キャンプ用の炊事施設が昔の展望台だと勘違いしたのだ。昔の展望台は現在のもののすぐ横に立っていたと、売店の女性に確認した。したがってやまの山頂部に木が茂っていたというのも、記憶ちがいであった。ただ道は、未舗装路があっただけだった)

 着いたのは8時ころだった。バイクや自転車はあるのにテントはなく、人もいない。どうして? と思い、ヘルメットを脱いで展望台にちかづくと、人の声が聞こえてきた。
「よーし、今日こそは出発するぞー」
「俺もだ。今日はたつ」
「おお、いいぞ。行け、行け」
「行ってみろー」
「雨だぞ、雨でも行くのか?」
「嘘だよ、行かないよ」
 展望台の中にはいると、コンクリートを打ちっぱなしにした床になっていて、そこに10人ほどの男がシュラフをならべて横になっていた。自堕落な感じだ。

 挨拶をして二階の展望台にのぼってみる。景色が有名なのだが、雨のせいで視界はきかない。落胆したが、それでもしばらく周囲をながめ、男たちが雑魚寝をしている一階におりていった。男たちはすでに起きだしていて、シュラフも片づけられていた。観光地に泊まっているので、昼間は観光客の邪魔になってはいけないという自覚があるらしい。ほうきで床を掃いている者もいた。そのうちのひとりと話をした。彼は東京からまっすぐにここに来て、以来9日間開陽台に泊まっているという。バイクの人間はほとんどそんな調子だった。

 せっかちで貧乏性の私には信じられないし、やりたいとも思わないが、当時はそういう人間がたくさんいた。現在よりもはるかに多く存在した。休暇をどのように使うのかはその人の勝手なのだし、ふだんまともな生活をしているならなおさらで、たまにはそんなことをしてみたくもなるのかもしれない。定職もなく、学生でもない、北海道浪人という人種は理解できなかったが、開陽台にいたのは私とおなじ学生ばかりだった。

 この当時こんなことをしていたのは若者だけだった。現在のように多様な年代の人が北海道遊民となっていることはなかった。最近は老人までキャンプ場に長期滞在していて、驚いてしまう。よい年をした大人がやることではなかったのだが、時代は変わった。たしかに、面白いからやめられない。

 開陽台にとまっていたバイクは、ホンダVT250初期型やスズキGSX400E、カワサキZ400FX、ヤマハXJ400あたりだった。当時は大型免許を取ることは非常に難しく、まず無理だと諦めている人が大半で、400以上のバイクはほとんど走っていなかった。250か400のオンロードが主流で、大型バイクがいれば、それがどんなに不人気なモデルでも尊敬され、羨望のまなざしで見られたものである。ちなみに出発からここまで400以上のバイクは見ていない。今でも覚えているが、このツーリング中にであった大型バイクは3台だった。

 サイクリストは雨をついて出発していくが、モーター・サイクリストは動かない。開陽台はたしかに野宿ライダーの聖地かもしれないが、私は時間を無為に過ごすことができない性分だ。30分ほど滞在しただろうか、彼らととりとめのない話をして、写真もとらずに出発した。

 雨があがったのでカッパを脱いで野付半島のトドワラに行く。ちかづいていくと弓状になった半島が見える。バイクをとめて遊歩道を散策した。三脚がないので、カメラを固定できるところをみつけてはセルフ・タイマーで写真をとる。人に頼もうにも、トドワラにいたのは私のほかに車が1台だけで、その車のふたりは遠くを歩いていた。

 知床にむかう。開陽台とおなじように楽しみにしていたのだが、標津をすぎると雨がふりだし霧もでてきた。またカッパを着込む。ブーツ・カバーもつけるので忙しいことこの上ない。海岸線にでると北方領土が見えるとのことだったが、この天候では当然影すらのぞめぬ。きのうの納沙布岬とおなじで、本当に見えるのか、と疑った。羅臼峠で肉丼700円の朝食をとる。羅臼を通過して一気に知床峠にのぼった。

 峠についても周囲は霧のなかで何も見えない。白い世界をながめ、やはり北方領土が見えないことを確認するまでもなくたしかめて、むなしくウトロにくだっていった。知床五湖の看板がでていたので寄ることにする。当時は無料だった駐車場にバイクをとめ、案内板をみると、五湖を一周すると1時間ほどかかるとでている。旅の一興である。カメラをぶらさげて歩いてみることにした。

 

 二湖

 雨は落ちてこないがいまにも降りだしそうだし、脱ぐのも面倒なのでカッパのままいく。ブーツ・カバーもそのままだ。ひとつめの湖には観光客がいたが、ふたつめに向かう人はほとんどいず、さらにすすむと完全にひとりになってしまった。湖はうつくしく、周囲の林も原始のおもむきだが、逆に熊がでそうで恐い。

 くさむらが不気味だ。とくに遊歩道の角、さきの見通せない場所は嫌だった。口笛をふいたり、歌をうたったりしていく。五湖はすばらしい景観なのだが、ふたつ、みっつ、と見ていくとどれも同じにみえてくる。最後は歩きつかれて駐車場にもどった。人のまったくいない空間から、観光客のいる場所にもどると、肩にはいっていた力がぬける。緊張して神経がはりつめるほどのくさむらの濃さ、森の深さだった。

 駐車場でコケモモ・ジュースを100円で買い、ウトロにでる。寂れた感じの漁港で写真をとりさきにすすむ。ウトロの街は沈んだような雰囲気で、活気が感じられなかった。

 オシンコシンの滝をみて、小清水原生花園につくとまた晴れてカッパを脱ぐ。天候はよくなりそうになってきた。

 網走の街にはいっていくと、制限速度が40キロになった地点でまたネズミ捕りをやっていた。いつものように厳戒態勢をしいていたので問題なく通過。取り締まりはこれで四回目だが、効果はあるのかはなはだ疑問だ。

 北海道の町はどこでも市街地、住宅地が40キロ制限で、町をでていくと、50キロ、そして制限速度が解除され、バイクや車は60キロとなる。町にはいるときはその逆で、60キロから50キロとなり、最終的には40キロとなって、そこで道警のお巡りさんがレーダーをかまえている。2年前に自転車で来たときもおなじ、2002年現在でもおなじで、ふつうの人間はつかまらないと思うのだが、それでも車がたまに切符を切られているから不思議だ。

 昼食はハンバーグ・ライスにコーヒー付きで960円だった。喫茶店のような、レストランのような店だった気がする。網走では当然刑務所にいった。たいへんな人出で写真をとるのに苦労する。みんなが写真をとりたい、刑務所の看板の前は順番待ちになっていて、人に頼んでシャッターを押してもらったが、三脚がないと不便で、市内のデパートで3600円で購入する。これは痛かった。一日分の予算に匹敵した。

 雨で泥だらけになったバイクを洗車する。ついでにヘルメット、ブーツ、ブーツ・カバーもあらい、チェーンを張ってオイルも注した。チェーン調整はツーリングにでて二度目。およそ1000キロ毎に作業をした。

 夕刻の網走湖を見にいく。夕暮れにしずんでいく光のなかの湖がうつくしい。さっそく買った三脚で写真をとる。夕日の色が、汚れを落としたマフラーのメッキにあたって、にぶく暖色に反射している。見つめていると旅情をかきたてられた。

 

 夕刻の網走湖

 今夜は網走駅で泊まろうとおもう。なんだか家に帰りたくなってきた。泊まる場所を心配しなくてすむ自宅にもどりたい。彼女にも会いたい。でも、まだ北海道にいたい。様々な感情にふりまわされてしまう。

 2年前に旭川のユースでかかっていた『佐藤宗之』の歌の歌詞を思い出した。
 ♪こんな、辛い、旅なんか、もう嫌だ、旅を終えて、家に帰ろう
 そこでしか聞いたことがない。正確ではないかもしれない。ユース・ホステルの歌なのだと思う。野宿しながらの旅は、いつもこんな気分になるときがある。2年前に自転車に乗り、ひとりで旭川ユースにいたときがそうであり、また今日がそうなのだ。

 暮れていくなかを網走駅に走り、コインランドリーで洗濯をした。夕食をとった記録がないが、朝が遅くなって、時間がずれたために食べなかったのだろう。

 21時46分、駅のベンチで最終電車がでるのを待っていた。ものすごく眠い。しかし駅で寝るにはまだ時間が早い。大きな駅の最終は23時過ぎだ。人がおおぜいいる大きな駅よりも、小さな無人駅か、もしくはバス停のほうがよいかもしれないと、今朝テントを盗まれたことも忘れて考えた。こんな時にメモ帳に記録をつけて時間をやりすごしていた。

 手帳をつけていると、夜の国道からひとりのライダーがあらわれた。こんな時間に、唐突に。私よりも年上の27.8の青年で、カッパのズボンだけはいている、泥臭い感じの人。聞けば日本縦断を成し遂げたところだと言う。驚いていろいろと話を聞くと、鹿児島の佐多岬をでて、132時間で宗谷岬に到達し、南下中とのこと。高速は一切つかわず、一般道だけで、無事故無違反で達成したというのだ。132時間とは、5.5日だ

 それは大記録のはずだ、と私はXL氏に言った。彼はホンダXL250Sに乗っていたのだ。私は自転車小僧だったので、自転車による縦断記録は雑誌でよくみていて、知悉していた。しかしバイクによる挑戦は聞いたことがなかったし、バイク誌に掲載されたこともない。

 ぜひともレポートにして、雑誌に投稿すべきだと私はXL氏に言った。そうすればXL氏はバイクによる日本縦断記録のパイオニアになれるし、じっさいパイオニアなのだが、この快挙はモーター・サイクリストにひろく知られるべきだと思うし、その価値がある、と。私は自分のことでもないのに熱くなって語った。

 しかしXL氏は人に知ってもらうよりも、自分で満足できればそれでよいという主義だった。氏は『モーター・サイクリスト』を出版していた八重洲出版にあらかじめ電話して、バイクによるこの種の記録、挑戦がまだなされていないことは確認済みだと言う。それならなおさら、と私は言ったが、欲のない人だった。

 XL氏は栃木か群馬の人だった。高校を出てからずっとスーパーでバイトをしてきたそうだ。稼いだ金はすべてバイクとツーリングに費やしてきたと言う。XLのほかにカワサキZ650LTDも所有しているそうだ。いままでバイトさきのスーパーの社員になれと、何度も誘われたと言う。断ってきたのは、ツーリングにでるためだが、帰ったら、正社員になるつもりだ、と語った。いままではツーリングだけの人生だった、本当に、と。でも、これからは……、いつまでもこのままでは……。

 俺は俺、という文字が氏の手にしたスタンプ帳に書いてあった。氏は駅のスタンプを押すためにここにやってきたのだ。SPIRIT OF ROMANの文字がジャンパーの背にいれられていた。

 XL氏は夜の国道にもどっていった。走れるときに進んでおく、と告げて。下だけはいているカッパのズボンは、路面がぬれていて、泥がはねるのでそうしていると言う。気になっていた私は最後に、何故下だけ、と尋ねたのだが、氏は当然のように返答した。何故そんなことを聞くのか、と言いたげに。私は自分が恥ずかしくなった。そんなこと、どうだっていいことなんだ。私は格好を気にしすぎだ。

 

                                   走行距離 442キロ

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