9月9日(火) 肩の先に水平線
キャンプ場の朝
5時50分に起床した。よく眠った。今朝も霧がでて朝方は冷え込み、シュラフをかぶらないと眠れないほどだったが、これが本来の日本の気候なのだと思われた。
徳島製粉の金ちゃんラーメンをつくる。煮ているときの香りはよくないが、スープを入れるとよくなり、食べれば普通だが、少々チープだ。ゴミを管理棟に捨てにいくと管理人さんが起きてきた。住み込みなのだ。管理人さんは、大学生はうるさなかった?、と聞く。大したことはなかったですよ、と答える。昔の学生のように大騒ぎをするわけではないし、大学1年の息子がいて慣れてますから、と。すると、息子さん大学生なんだ、金がかかったろう、と言う。うなずくと管理人さんは息子が4人いるそうで、ここでしばらく子育てと教育費の苦労話をした。
気さくな管理人さんとの会話で気分をよくして撤収にはいる。干しておいたパンツはほぼ乾き、Tシャツも半乾きの状態だ。暑いと汗をかいて不快だが、洗濯物がはやく乾くという利点もある。大学生が起きてきて軽トラで横を走っていく。荷台に2・3人乗せてゆっくりと走っているが、昨夜使用したBBQグリルの灰を炊事場の火床に捨てようとした。すると管理人さんが飛んできて、管理棟にあるゴミ箱に廃棄するように指示する。大学生たちは指図されて面白くなさそうな顔をしていたが、言われたとおりにしていたから、素直な子たちだった。
管理人さんに挨拶して7時30分に出発する。どうもありがとうございました、の声を背に受けて走りだすが、バイクがおかしい。ニュートラル・ランプが点滅しているのだが、昨年も同じトラブルがあったから原因はすぐにわかった。2007年の北海道ツーリング・レポートにも書いたので、いまトラブルの内容がわかっていらっしゃる方がおられるかもしれないが、原因はバッテリー端子の緩みなのだ。充電システムを取り付けているのでたまにこの症状がでるのである。電流が途切れてニュートラル・ランプが点滅したり、メーターが動かなくなったりするが、そのまま走ることはできる。しかし緩んだボルトやナットを紛失するとトラブルが大きくなるから、キャンプ場の出口にとまって修理をすることにした。荷物をおろしてシートをはずし、バッテリー端子のボルトを締め込めば作業は終了だ。出発したばかりだと、止まることが億劫に感じられるが、旅先のトラブルは常に早目に対処することが鉄則なので、これで正解なのである。
7時35分にあらためて出発した。霧がでていて涼しい。大洲の町におりていくと味のある城が見えてきて心惹かれるが、これから行く内子の帰りにまたここを通るから、どうしても見学したければそのときにすればよいと考えて先へいく。国道をすすむと無料の高速道路に誘導されるが、これが四国横断道の大洲ー内子間で今のところ無料だった。
内子五十崎ICで高速をでて国道をいくが、R379に入るところを通りすぎてしまい、松山方向に5キロほどいってしまった。おかしいと気づいてもどると、じつに分かりやすい分岐を見落としていて、我ながら大丈夫か?、と自身を疑う始末だった。ここを通ったときには内子に古い町並みがあるという看板に気をとられていたし、何より夢想気味だったので、考え事がすぎたようだ。
『大江健三郎の生家訪問記』ーー本の話にリンクしています
国道379号線で大江健三郎の生家のある大瀬にむかう。大江健三郎の作品にはこの地が頻繁に登場する。ここで実際にあった百姓一揆をモデルにした小説もあるが、山のなかの生家と山林、近くを流れる渓流、貯水池や山のなかの窪地などが効果的、印象的に記されている。小説の舞台となったそれらの地を見てみたいと思って大瀬をたずねようとしているのだが、作品はあくまで虚構であって、現実世界とはまったく別のものであることは承知の上である。多くの大江作品を読んできて、この土地の私なりのイメージができあがっているので、それと現地はどう違うのか、たしかめたくなったのだ。ところで作家の生家をたずねたいと考えるファンは私だけでないようで、ネットで検索すると訪問レポートがたくさんヒットするし、ガイドブックには住所と電話番号まででているのだ。
大瀬の中心部にむかう。思ったよりも山深くなくておだやかな山里である。作品の印象ではもっと山の迫った、山に閉ざされたような急峻な土地だと思っていたのだが、空のひらけた、開豁な印象の山村だ。住宅の前を通っていく狭い旧道のほかに、集落をいかない広い新道が作られていて、大江健三郎の生家も旧道に面しているはずなのだが、どうにもわからなくてバイクをとめて地図をひろげた。すると地元の年配の男性が、どこ行くん?、と声をかけてくださり、通りすぎている事と正確な場所と目印を教えてくださった。
引き返していくと『曽我五郎十郎の首塚』という史跡があって気になるが、まずは大江健三郎の生家を見にいく。めざす集落の入口をみつけて旧道に入っていくと、畑で老婆が農作業をしている。大江作品には氏の妹が度々登場するので、こんな人なのだろうかと思いながら先へいく。眼下には渓流がながれていて、今は砂礫に埋もれてしまっている淵があるが、これが大江健三郎が幼いころに溺れかかった場所だろうかと思いつつ走り、周囲の山をながめれば、やはり想像よりも山が険しくなくて、イメージとまったく違っている。作品で読むよりもずっと明るい雰囲気で、豊かで金もまわっている印象だった。
大江健三郎の生家にて
やがて目的の家の前にでた。手入れの行き届いた上品なお宅である。イメージでは山の斜面の段々の、ずっと上にあるものと思っていた。道路からかなり登った高所と。それが旧国道沿いにあるのだから想像とはちがっていた。バイクのエンジンをかけたままにして、写真を1枚とらせてもらって去ろうとするが、家のなかで犬が吠えだす。これはまずい、ご迷惑をおかけしてはならないとおもい、素早く撮影して走り去った。
あわただしい訪問だったが、作家本人ではなく親族の方が住んでおられるから気をつかう。しかし思ったよりも山深くないとはいえ、ここは東京からははるかに離れていて、東大にも縁遠い土地である。都内でも羽田空港や東京駅には親しいのだろうが、成城とはいかにも馴染まないと思いつつ、さっき通りすぎて気になった首塚にもどっていく。大江作品に度々登場する百姓一揆に関係するものではないかと思ったからである。
首塚の入口につくと車で3分とあるが、ものすごい急坂で入っていくことが躊躇われる。山で生活している人には笑われてしまうかもしれないが、行くのが怖いほどの斜度だ。林道を走りなれている私が大丈夫だろうかと感じるほどの急坂で、やめようかと弱気の虫もでてきたが、車で3分と書いてあるのだから行けるはずで、思い切って進入してみた。入った直後だけものすごい急坂だが、その後はふつうの坂道となる。細い山道をのぼっていくと首塚について、由来を書いた案内板があるが、大江作品に関係するものではなく、親の仇討ちの史跡だった(歌舞伎で演じられる曽我兄弟の仇討ちだろうか? 詳しくはないが鎌倉時代の仇討ちが歌舞伎の演目にあるようだ)。
曼珠沙華の咲く首塚を後にし、また大江健三郎の生家の前を通ってこの地を去ることにするが、物見高そうな主婦がふたり私のことを田舎物らしい無遠慮な眼で見ていて、これではこの土地から東大に合格し、在学中に芥川賞を受賞していったときには、たいへんな騒ぎになっただろうと想像された。その後の作家の反戦運動やそれに関する訴訟、そしてノーベル賞の受賞でも。それでも大瀬や内子、大洲あたりの人はまだ素朴な感じで、何があっても作家に身内のような肩入れをしてくれるのかもしれないが、県都の松山あたりでの毀誉褒貶は、作家が郷土の誇りであるという意識と、政治権力に楯突く生き方に対する反発が入り混じって、複雑で救いがたいことになっているのだろうなと想像された。
ところで大瀬の奥の山のなかにも札所があって、お遍路さんが歩いており、遍路道の案内もでているが、大江作品には遍路のことはまったくでてこないのだ。生きていく上でどうしても必要な魂のことを作品のテーマとして、新興宗教や宗教によらない救いを追求する小説を書いているのにである。それはきっと遍路に共感できないし、認めることができないからなのだろう。遍路は大衆の俗化した情念の深い宗教行為だから、純化された言葉や思想、哲学で人間救済を模索する作家には、認めえないことなのだろう。集落には大江作品に登場する寺や神社もあるが、作品にはでてこない天理教の教会があって、興味深くながめたりした。
大瀬から山を下って内子にもどると気温があがって暑くなった。前述のとおり内子には古い町並みがのこっているとのことで、立ち寄っていくことにする。案内にしたがって町のなかに入っていくと住宅街に誘導されて、こんなところに古い町並みがあるのかと疑っていると、突然その古い町並みのただなかにでた。
内子町の古い町並み 歩いているのは若いお遍路さん
昔ながらの古い商家が並んでいてよい雰囲気である。今となっては狭く感じられる道も、昔はここがメインストリートだったと想像されるものだった。まだ早い時間で観光客もいないので、バイクでゆっくりと走って町並みを見学する。商家の列が尽きると大型観光バスのとまる広い駐車場にでて、また古い町並みにもどろうとすると、この通りを車で観光するのはご遠慮ください、と看板がでていた。道が狭いので、と。しかし配達などの地元の車は通行していたし、空いていて、なにより私はバイクで邪魔にならないから、遠慮せずにまた古い町並みに入り、左右の歴史を重ねた商店をながめ、内子座にながれていった。
内子座
内子座は木造の大きな劇場だが、元々は大正時代に建てられた歌舞伎劇場なのだそうだ。地元の裕福な商人たちが金をだしあって作ったそうだが、産業があって、豊かで、文化度が高くないとこうはいかない。このように土地だからこそ大作家も生まれたのだろう。大瀬から山を下った地に内子の商人の町があり、さらにまた山をおりると城下町の大洲があって、北の山を越えれば松山も遠くない土地だからこそ、経済格差などなく、むしろ豊かであり、文化水準は全国的にも高いと思う。こういうことは北海道を旅していて感じることはないから、北の大地は自然が豊かで日本ではないような広大な原野や牧場、山脈などが魅力だが、経済格差は厳然としてあり、文化度は非常に低いのだ。くらべたくはないが北海道が好きなので、どうしてもこんなことを考えてしまった。
内子の町には金光教の教会があって、ここも天理教とおなじく大江健三郎が故郷の村をえがいた作品にはまったく触れられていないから、また興味深く見た。そして10時に大洲にもどってきた。これからフェリーで九州にわたり、できれば今日のうちに大分県で見たいところがあるから、城を見学するのはやめておいた。ところでここまで走ってきて、昨夜も触れたのだが、サッカーJ2の愛媛FCのフラッグやステッカーはまったく見なかった。それが寂しく感じられた。
大洲から国道197号線で夜昼隧道をぬけてーー印象的な名前だが言葉通りの意味なのだろうーー八幡浜市へいく。ここからも別府にフェリーがでていることを看板で知って、船にのろうかと思ったが、便数がどれだけあるのかわからない。この先の三崎からのほうが海をわたる距離が短いし、1日に10便で所要時間も1時間10分とわかっているから、予定通り三崎に行くことにした。
国道197号線をすすんで佐田岬メロディーラインに入った。ここは細長い佐田岬の山の上を走る快走路で、80キロから90キロで飛ばしていく。原発がありビジターセンターが見学できるようだが、フェリーの時間が気になるので通過する。原発はなかなか見ることができないから残念だった。
佐田岬メロディーライン 肩の先に水平線
メロディーラインはトンネルが多い。半島の高所を最短距離でいけるように山を貫くように作られていて、左右には海がひろがるが、とくに左の海原がよく見える。道路の左下は断崖になっていて、左手のはるか下方ではじまった海は、靴先から肩までの視野をおおいつくしているのだ。バイクに乗ったまま左をむけば、肩口に水平線があり、その上は空である。しばらく走ってまた左を見ると、今度は眼の高さまで海が満ちていた。
三崎の町に入ると唐突にフェリー乗り場にでた。道路脇にあるのだが、大きな看板があるわけでもなく、広い駐車場も大きな建物もないから気づくのが遅れたのだ。時間は11時5分で次便の時刻をたずねると11時30分とのこと。これはよい時間についたと思ってさっそく2等室と750cc以下のバイクの料金2450円を払い、バイクを待機場所にとめた。フェリー内で昼食をとってしまえば時間が有効に使えると思って周辺の店に入るが、9月の平日のためか弁当はなく、しかたなくお茶だけ150円でもとめてフェリーに乗り込んだ。船は小さなもので、北海道の礼文島にわたるクラスのもの。車の入り具合は3分の1ほどで、バイクは私の1台だけ。客室もガラガラだった。
フェリーで九州へ
ソファに陣取ってメモをつけてフェリー内の時間をすごす。船は佐田岬を通りすぎて豊後水道をわたっていく。絶えず島影が見えて、九州もうっすらとのぞめるから、やはり三崎ー佐賀関間は近いのだ。乗客はほとんど無言だが、ずっと株の話をしている人がいる。株や資産に関する会話はひそやかにすべきもので、他人に聞こえるようにやるべきではないと思うが、人のことなど気にしないようだ。面白いので聞いていたが、40くらいの妻子連れの男と、70くらいの夫婦の夫が話し合っていた。40男は親が残してくれたビル経営が主で、相場は時間潰しのようにやっているようだから、なんとも羨ましい境遇だ。その40男が苦労知らずの人間らしく一方的に喋っているのだが、ずっと家の中にいて、ビル管理と株取引ばかりしている生活では、変化がなくて退屈だろうと思ってしまった。金があって勝手気儘に生きられるのなら、人間それにこしたことはなく、私もそうありたいと思うが、やはり閉ざされた人間関係と環境だけで人生を送っていくのは、面白くないだろうと思う。ストレスがあっても、とんでもない嫌な奴がいても、社会のダイナミズムの中で仕事をしている刺激と醍醐味が、貴重だと思うからである。
12時45分に九州に上陸した。大きな煙突のある工場があり、港も道路も潤いがなく、どこか埃っぽい殺伐とした印象の佐賀関だ。四国よりも暑いがジャケットは着ていられる。車とトラックの後に最後に船をおりたが、フェリーをでた車はすぐに走り去って、私ばかりが港にのこされた。
ここ関は関アジ、関サバが有名だから是非食べてみたい。高いのだろうが、この機会をのがしたらもう関アジを口にすることはあるまいと思われるから。TMを見るとーー前にも書いたが九州はTMを使用ーー漁協直営の活魚専門店『関の漁場』という店が紹介されていて、ここで昼食をとることにした。しかし9月の平日であるためかここも休みである。そこで国道217号線を南にいったところにある、TMにも名前が記されている『あまべの郷 関あじ関さば館』に転進した。あまべの郷は魚問屋がやっている店のようで、1階が鮮魚やみやげもの店で、2階が『凪浜』というレストランになっており、ここで昨日は土佐清水でサバを食べているから、関アジ定食1800円を注文した。
関アジ定食
刺身なので料理はすぐに運ばれてきた。アジの刺身は7・8切れだろうか。茶碗蒸しなどの小鉢もついているが、こんなものが1800円もするのかというのが第一印象で、それでも関アジは高いからしかたがないのだろう。なにはともあれ関アジを食べてみた。するとものすごく硬い刺身である。脂も少なくて、味もあまりなく、美味しいとは感じられないものだった。
私は海釣りもずいぶんとやってきて、天然魚もかなり口にしてきているから、天然物はコリコリと歯ごたえがあり、脂も少ないことはわかっている。しかしこんなに硬くはない。千葉の内房や外房、相模湾で釣れるアジはやわらかくて脂がのり、トロトロとしているから、関アジはアジとは思えない触感だ。ヒラマサが硬い魚だが、それよりももっと硬くて、ただ硬いだけでちっとも美味しくない。豊後水道の激しい潮流のなかで育ったアジ、サバはそれだけ身が締まっている、だから美味しいと関の人は言いたいのだろうが、私はどこででも釣れるふつうの中アジの刺身やたたきが好きであり、関アジはもう口にすることはあるまいと思った。
料金を払うときにサバも硬いのかと店の人に聞いてみると、硬い、とのこと。土佐清水のサバは身が締まっていて脂は少なかったが、それでもサバ本来のやわらかいもので美味しかった。関サバが硬いなら試すまでもないと思うが、店の人はこれが関アジ・関サバだと誇りにしているようで、良さがわからない私が悪いのだと態度にでていて不満だった。このアジが気に入るかと100人にたずねたら、2人くらいは変人がいたとしても98人までが意に染まぬと答えると思う。
それでも関アジ、関サバはネームバリューがあるから、みやげにはよいだろうと1階の店をのぞくと、活魚があり全国に発送できるとのこと。値段をたずねるとアジは1匹3000円、サバは1匹6500円と非常に高く、こんな価値はないと思うが、お世話になっている魚にうるさい方に、話のタネにとアジとサバを1本ずつ送ることにした。ついでに自宅にも関アジと関サバが切身にしてあり、味もついていて、流水でとかせばすぐに食べられる『りゅうきゅう』という冷凍食品2800円も発送する。2件合計送料込みで15075円だった。関アジ、関サバは明日の朝締めて、血抜きし、航空便で送られるとのこと。よしなに。
県道635号線に入って関埼灯台とTMの巻頭に写真が紹介されていて、『海にダイブ!? ちょっとスリルのある道』とコメントされている海沿いのルートを走りにいく。まず半島中央部の林のなかのタイトコーナーの連続する山道を5キロいって、関埼灯台についた。
駐車場はゴミや落葉が散らばり、手入れがされていなくて荒れていた。となりに建つみやげもの店も潰れてしまっていて陰気な雰囲気である。灯台に歩いてみればこれが草ぼうぼうのひどい道で、虫も多くて気をつかう。駐車場から300メートルで灯台につくが、眺望はえられないから人気がなくてこんな状態なのだろう。ただ若いカップルが夢中で語り合っていて、私が来たのも気づかないのが微笑ましい関埼灯台を後にし、駐車場にもどれば暑くてジャケットを着ていられずに、長袖シャツにかえて走りだした。
黒ヶ浜
木々の生い茂った灯台の先にいくと景色がひらけ、眼下にすばらしい海と浜がひろがっていた。半弧をえがく渚と岬、小島と磯が見えて、日本にはこんなにも美しい場所があったのかと思い、バイクをとめた。四国の海岸線にも絶景は多々あったが、この美しさにはかなわない。しばらく遠景に見惚れた後で、この浜の近くにいってみると、心をうばわれてしまうほど優美な渚だ。道のすぐ横が黒い玉石の渚なのだが、ガードレールはなくて、道路についた左足のすぐとなりが渚なのである。黒い玉石と海の色、浜のカーブのバランス、そして渚と海の近さが心をつかんではなさない。ここは黒ヶ浜というところで、日本の渚100選に選ばれていると説明がある。地元の若者が2人釣りをしているのが眼の邪魔だと感じるほど清らかな浜だ。これまで私が見てたなかでいちばん美しい渚だが、海の間近さも初めて体験するものだった。
黒ヶ浜の風景にときめきを感じて走りだすと、道はコンクリート製の荒れたものになり、道路の横が海となった。ここもガードレールはない。ここがTMに『海にダイブ!? ちょっとスリルのある道』とコメントされて巻頭に写真で紹介されているところである。海のすぐ横を、ガードレールのない道で行くのである。こんなところも走ったことがないが、ガードレールのない区間は短く、すぐ先では山をけずって道路をひろげていたから、海にいちばん近い道はそのうちなくなってしまうだろう。
県道から国道217号線にもどって臼杵にむかうと造船所らしきものがある。国道をはずれた先に船が浮かび、巨大なクレーンが何本も船を取り巻いていた。こんな光景も見たことがないから、よほど見学していこうかと思ったが、これから海沿いをいくらでも走るから、造船所もたくさんあるだろうと思って通過したのだが、ここ以外にはなかった(翌年の2009年の1月にここで事故がおきた。船にかけた鋼鉄製のタラップが落ち、2人の方が亡くなったのである。このニュースを聞いたときに、大きな船とそれに取り付いていた何本ものクレーンの情景がよみがえった)。
国宝の臼杵大仏にむかう。臼杵市街をぬけて丘のふもとにある駐車場についたのは15時だった。やはり暑い。日陰にバイクをとめたいのだがなくて、炎天に下に駐車し、水を飲みながら石仏を見にいくと530円の料金がかかるとある。石仏を見るだけだから無料だと思っていたので釈然としないが、ここまで来て国宝を見ずに帰るわけにはいかないから料金を払った。竹の杖を貸してくれるので戯れにこれを手にしていくがすぐに後悔する。持っていると邪魔だし老人臭いからだ。投げ捨てたくなるが、そんな無責任なことはできないので、しかたなの持っていった。
臼杵の磨崖仏群
山を登っていくと磨崖仏があらわれた。磨崖仏とは山の岩肌に仏を彫ったものである。磨崖仏とはよくぞ名づけたと思うが、磨いたのではなく、浮き彫りという手法で、木造の仏像であるかのように山肌を彫ってあるのである。石仏は平安時代のものだそうで、長い年月の風雨や地下水によって痛み、崩れ落ちてしまったものを修理したと説明がある。落下してしまった石仏の体の部分を元の位置にとりつけて岩盤を補強し、地下水が石仏から離れた地点で排出されるようにボーリングまでほどこしたそうだ。その現代の技術もすごいが、なにより岩盤に仏を彫る技術とひたむきな信仰心が胸にひびいた。
ところでついさっきまで四国にいて、大江健三郎の生家を見ていたのに、今は九州で石仏を見学していることが嘘のように感じられる。バイクとフェリーを組み合わせた走破力には眼をみはるものがあると思う。
磨崖仏を保護する建物
磨崖仏群はふたつあり、国宝の大日如来はまだ先で、歩いていくと大きな山王如来にいたる。山王如来の山の上に500メートル行ったところに、国と県指定の重文の五輪搭があると案内がでていて、500メートルの山歩きは躊躇われるが、せっかくなので見にいってみることにした。
五輪塔
ハイキングコースのような山道なので竹の杖が役立った。これは持ってきてよかったと思いつつすすんでいくと、100メートルで神社があり、その先はさらに細い山道となる。右は竹やぶで左は杉の林だ。あと200メートルの地点まで行くと、この先は道が険しいので老人や子供はご遠慮ください、と書いてあるから、かえってどんなところだろうかと期待していくと、100メートル手前でも、老人、子供はご遠慮を、蛇がでます、とある。たしかにこの先は獣道となり、蛇もでそうだが、ハイヒールの女性は無理だが、老人や5才くらいの子供でも行ける道だ。やがて五輪塔につく。屋根をかけた下にどっとりとした五輪塔が2基あり、あなたの旅の無事を祈っています、五輪塔、と書いてある。有難うございます、と一礼して来た道をもどっていった。
大日如来 古園石仏
竹の杖があるから、たとえマムシがでてきてもこれで殴りつけてやれるから心強い。山道を下って山王石仏の前にもどり、先にすすんでついに国宝である古園石仏にいたった。大日如来である。じつにおだやかな気品あふれるお顔で、引き込まれるようにしてながめて時間をすごした。説明を読んでみると、この石仏の頭部は落ちてしまって、仏体の下に安置されてきたがーーその写真を昔の教科書で見た記憶があるーーもとの場所に復位されたとのこと。それだけでなく、仏頭を強化するために合成樹脂を充填し、石仏の上には屋根をかけ、ここも地盤の強化と地下水の誘導排水の工事がなされているとのこと。これだけ復元作業がなされ、維持管理にかかる費用を考えれば、530円の料金がかかるのはやむをえないと思われ、関係当局の方々の努力と営為には頭の下がる思いだった。そしてこの大日如来だけが国宝なのかと思ったら、磨崖仏4群の59体のすべてが国宝に指定されているとのこと。これらは正に国の宝で、一見の価値があるし、2度3度とたずねたいところだった。
石仏に感激して駐車場にもどっていくが、磨崖仏のある山のむかいは、整備された史跡公園のようになっている。石碑が点在する芝生の広場の先に寺院が見えるのだ。寄っていきたかったが先を急ぐ身、今夜の宿泊場所の当てもないし、なによりまだ見学したいところがあるから行かなかったが、隣接する満月寺の施設のようだ。
畑にたつ鳥居
駐車場から走りだして国道502号線にでようとすると、畑のなかに古色蒼然としているが、存在感のある石の鳥居が立っているのが眼について、急ブレーキをかけた。見にいってみると畑の片隅に打ち捨てられたように石の鳥居が立っている。注連縄も古くなり、汚れていて、あまり大事にされていないようだが気品がある。これは良いものを見たと思うが、九州は歴史と文化があると感心した。これほどのものが脇役として放置されているのだから。後でパンフレットを見てみると、この石の鳥居は室町期のもので、満月寺の参道跡と考えられているそうだ。
時刻は16時をすぎた。これから原尻の滝を見にいくつもりだが、原尻の滝の近くにキャンプ場がないことが気がかりだ。TMで周辺のキャンプ場を探してみるが、あるのは原尻の滝のはるか先、竹田を通りこした先の久住山荘南登山口キャンプ場だけで、そこまではかなりの距離がある。その上久住山では明日まわる予定の阿蘇がスムースに走れなくなってしまうのだ。予定では阿蘇を北から南へぬけていくつもりなのだが、久住山に泊まると、南から北にいって、また南にもどるという非効率なコースとなってしまうから、それが嫌なのだ。それでも他にキャンプ場がなければどうしようもないわけで、最終的には原尻の滝でどこに野営するのか決めようと思っていた。
国道502号線をすすんでいく。途中に『吉四六らんど』という施設があり、ここは昔話にでてくる『きっちょむさん』の里なのだと知った。とんちのきいたきっちょむさんの昔話は楽しく聞いたものだが、ここがその地だとは思いもよらず、そして『吉四六』という焼酎があることを思い出したが、あの酒もここの産なのだろうか。
豊後大野に入るとキャンプ場の案内がでている。南に22キロと。久住山まで行かないですむからここでもよいかと思ってすすむと、また別のキャンプ場の看板がでている。かなり前のめりの営業姿勢の看板でやる気を感じる。つづいてまた別のキャンプ場の、手作りで小さく、チープな案内があり、4.5キロ先とあった。
沈堕の滝
TMには載っていないがキャンプ場はたくさんあるんだと思い、これらのどこかにすればよいと思っていると、沈堕の滝の案内がでていて、TMに『大野のナイアガラ。幅110メートル』とコメントされているので立ち寄ってみた。滝は国道から県道に折れてすぐである。思ったよりも大きくて立派な滝だが、観光客はひとりもいない。110メートルの幅広の滝はたしかにナイアガラ風だ。滝の岩肌がなめらかなので人口の堰のようにも見えるが、人気がないのがもったいないほどよい滝だと思う。水量も豊富で、滝から流れていく川の構えと大岩の散らばりもすばらしい。この滝だけ見れば十分に感激するが、近くに原尻の滝があってそちらのほうが有名だから、原尻の滝のほうが美しいのだろう。その原尻の滝にむかうと道の駅『きよかわ』があり、ここに公共のキャンプ場の案内があって、県道に入って1.2キロとあるから、今夜の野営地はここにしようと思った。
原尻の滝にむかう。国道で緒方川に沿っていくとここにも沈下橋がかかっている。緒方川は四万十のように広い川ではなくふつうの川だが、車が1台通れるだけの、生活色の濃い沈下橋が何本もかかっていた。また道路脇にはキャンピングカーを改造した唐揚げ屋があり、大分は全国でいちばん唐揚げ屋が多いのだったかと思い出したりする。やがて原尻の滝の入り口について国道から折れていくと、すぐに道の駅『原尻の滝』があり、駐車場にバイクをとめて先にある滝を見にいった。
原尻の滝
原尻の滝も沈堕の滝のようなナイアガラ風の滝だ。原尻の滝のほうが沈堕の滝よりも大きく、湾曲していてやわらかな印象だが、水量が少なくて物足りない。もっと水が多ければ迫力もでて表情も変わるのかもしれないが、間がぬけている感じがして好きになれず、吊り橋から写真をとっただけですぐに引き返してしまった。滝の上に人工物が見えるのも興醒めだと思う。ふたつの滝は陽性の原尻に陰性の沈堕という性格で、原尻の滝のほうが人気があるのはわかるが、私はもう再訪しないと思う。
道の駅『きよかわ』に案内のでていた公共のキャンプ場にむかう。コンビニがあるので水くらい買っていこうかと思うが、キャンプ場がどんなところなのかわからないし、泊まれるのかどうかも不明だから焦っていく。道の駅の横の県道に入って南下すると、1.3キロで川原にある、井崎河川公園キャンプ場についた。しかしキャンパーはいなくて、管理人もいない無人のキャンプ場だった。
誰もいないキャンプ場にひとりで泊まるのはゾッとしないものだし、無断で宿泊するのは後ろめたいから躊躇われる。管理棟の受付を見てみると、利用したい方は役場の建設課に電話せよとあり、番号がでていたのでさっそくかけてみた。時間は17時30分だったが役所にはまだ人がいて電話はすぐにつながった。役場の方にキャンプ場に泊まりたいと告げると、もう17時30分だし、管理人も帰ってしまっていて、原則として当日宿泊は受けつけていなくて、予約が必要だと断られそうになる。しかし私がキャンプ場に着いていると話すと、もう来てしまっているならば役所の支所から近いから、すぐに来てくれることとなり、首尾よく泊まれることとなった。
大野市の清川支所はすぐ近くにあるそうで、5分とかからずに同年輩の役所の方が来てくれた。その方は私のバイクのナンバーを見て、ずいぶんと遠いところから、と言う。バイクでひとり旅ですか、と。予定のない気ままなツーリングなんですよ、と答えると微笑していた。役所の方は私がバンガローに泊まるものと思っていて、テントで、と言うと、それならば手間がかからなくてよかったという顔になった。
役場の方は外灯や炊事場の明かりがつくようにしてくれて、シャワー室の鍵も探しまわって開けてくれた。料金は1000円でそれを払おうとすると、なにしろ急なものですから領収書はありません、とのこと。もちろんいりませんよ、と答えると、誰かが何か言ってきたら、私の名前を言ってください、とお名前を教えてくれたが、このとき地元の方が犬の散歩にやってきて、役所の方と挨拶をかわしたから、それも不要だと思われた。
シャワー室の南京錠の鍵は持ち帰ってもらうことにして、そこは私が明日の朝の出発までに施錠し、電源も切っていくと打ち合わせをして、役所の方は帰っていかれた。広いキャンプ場にひとりで野営するのは怖いのだが、今夜の宿が決まってよかったと思う。料金を払って正式にキャンプをするのだから気分も楽だ。ゲリラ・キャンプをするような年ではないし、わずかな金でトラブルになるのは嫌なのである。私はケチだが、社会のルールは守る良識派なのだ。
テントを張ってしまうことにする。草の上が寝心地がよいのだが、明かりがつく炊事場とシャワー室のあいだのコンクリートの上が便利なので、そこに設営することにした。テントをたてて荷物を入れ、日があるうちにメモをつけることにする。暗くなると懐中電灯の光の下で文字を書かねばならないから、明るいうちにやるほうが楽なのだ。ベンチにかけて一心にペンを走らせていると視線を感じる。振り返ると猫がいて、こちらをジッと見ているが、キャンプ場を縄張りにしている野良猫のようだ。
18時30分に暮れてきたのでメモは一時中断し、持参している食材で夕食にしようかと思うが、旅先では強欲なくらいエネルギッシュに行動すべし、というのが貧乏性の私のモットーなので、コンビニに買い出しにいくことにした。
国道にでて原尻の滝方向にいくとエブリワンがあり、となりにはキャンピング・トレーラーの唐揚げ屋がならんでいる。エブリワンでのどごし生500を197円、火の国熊本とんこつラーメン2食入りを239円で買い、唐揚げも試してみることにした。
唐揚げ屋は『ぶんご屋』という屋号の店で、若い男の子がひとりでやっているのかと思ったら、トレーラーの裏に私と同年輩のお母さんもいた。メニューを見て骨なし肉の唐揚げ100グラムで180円を200グラムを注文する。注文を受けてから揚げるので6分ほどかかると言われて待つが、やはり大分は日本一唐揚げ屋が多い地なのだそうだ。そしてこの付近は唐揚げだが、土地によっては鳥天になるとのことで、大分名物は唐揚げと鳥天なのだ。
ぶんご屋のお母さんと息子と3人で話すが、大分の言葉も関西風のやわらかい響きだった。唐揚げのメニューには骨付き肉もあり、『ずりあげ』というものもある。これは何かと聞くと、砂肝のことで、砂肝のことを『ずり』と言いませんか、と逆にお母さんにたずねられて、言わないですよ、と答えていると唐揚げができあがった。
360円を支払って唐揚げとビールをバイクのハンドルにぶら提げてキャンプ場にもどっていく。GSがあったので給油もしていくことにする。23.23K/L。168円と大分はガスが安く、愛媛よりも10円安で2174円。時刻は18時45分だった。
キャンプ場にもどっていくが九州は平地が多くゆったりとしている。四国は山と海の国で平地は少なく、山地は急峻だった。九州は平らかで伸びやかでよいが、崩れた廃屋やボロ屋があって、四国よりも経済格差を感じるが、北海道ほどひどくはない。
ぶんご屋の唐揚げ
キャンプ場について揚げたての唐揚げでビールを飲む。唐揚げは濃い味つけで美味しい。さらにスパゲティーを200グラム茹でてペペロンチーノを作るが、唐揚げ200グラムにスパゲティー200グラムは多すぎたのだが、けっきょく完食してしまった。食べているとゴミ置き場で大きな音がする。びっくりしたがさっきの猫がゴミをあさっているのだ。
食事を終えるとシャワーを浴びにいく。すでに真暗になっていて、木造の古いシャワー室にひとりで入っていくのは不気味なのだが、汗を流さないわけにはいかないから、怖い気持ちを押し殺していくと、シャワーは湯ではなくて水だった。これには参ってしまった。それでも3分100円で冷水を浴びて体を洗い、3分では足りずにもう100円追加して水をかぶり、サッパリしたが寒さに震えてしまった。
テントに入るといつもは風呂上りは暑いのだが、今夜ばかりは暖かくて心地よい。マットの上に腹ばいになって焼酎の水割りを飲みつつメモのつづきを書く。ときおりシャワー室から、ポキッ、パキッ、と音がする。木造の古い建築物でシャワーの湿気がたまるから、木材がずれて音をたてるのだろうが、気持ちのよいものではない。猫もバタバタと音をたてるからピッチをあげて酒を飲む。飲むほどに怖さは消えて、しだいになんとも感じなくなるから、酒の力は強し、だ。
今夜ラジオから流れているのは米国の独立戦争と中国のアヘン戦争の歴史解説で、これがやけに面白かったりする。テントのなかで焼酎の杯を口にはこびつつラジオに耳をかたむけていたが、やがて独白じみたメモをつけだした。はじめは今日の出来事で書き漏らしたことを記していたのだが、しだいに仕事のことなどの日常の不平不満になっていく。酩酊しているときに考えているのは私の本音なのだろう。醜い本心、みじめな心情、女々しい気持ちなどがつづられて、最後は読めない文字の羅列となっていた。
249.4キロ