8月20日 山寺、月山へ

 出発は5時45分だった。金曜日、平日である。天気晴朗。暑くなることが心配されるほどの快晴である。行き先は山形県の山寺、出羽三山、酒田あたりと決めてある。2泊3日の予定で、宿泊地は未定。気分しだい、状況に応じて次の行動を決める、いつもの旅のスタイルだ。ただ、月山と酒田付近でキャンプしようという腹積もりはしていた。
 
 東北自動車道にはいるが、DRは高速走行が苦手である。650なので出そうと思えばスピードはでるのだが、120キロをこえると風圧で体がつらいし、余裕がなくなってしまって楽しくない。80キロで巡航するのが一番心地よいのだが、車に抜かれ続けるのも恐いし,じっさい危険である。車の流れに乗って110キロではしった。

 栃木県にはいり、大河内PAで休憩をとった。PAにはクラウザーのバッグのついたホライゾンやZ400SLTD、XL250と古くて毛色のかわったバイクがとまっており、ライダーを見るとベテランばかりである。休みをとってツーリングに来たもの同士であることが察せられて、気持ちがなごんだ。

 那須では小雨にあったが、服をぬらすこともなく白河で高速をおり、4号線を北上していった。福島からは西進し、栗子峠をこえて米沢にむかうが、ひどく暑い。気温表示がでているが、32℃、33℃から37℃、38℃とあがっていく。陽射しをあびながら路上をはしっている実感としては、温度はさらに高いように感じられる。ヘルメットをかぶった額には汗が流れ、Tシャツを着てむき出しにしている腕は、びりびりと痛んだ。

 工事箇所の多い栗子トンネルをぬけて、米沢にはいったのは12時ごろだった。昼には山寺につくだろうという目算ははずれてしまう。しかし思惑どうりにいかないのはいつものこと。今回で2度目になる山形の景色をながめながらすすんでいった。

 山形にはじめてきたのは高校1年のときだった。サイクリングで東北一周をしたのだが、そのとき泊まった赤湯をすぎる。キャンプ・ツアーはそのときからはじめたのだが、以来何十年も同じことをしているわけで、よほど好きなのか、進歩がないのかどちらかだ。自転車のときは1日目は日光、2日目が山王峠をようやく越えて会津田島、3日目に猪苗代湖に泊まり、赤湯は4泊目の野営地だった。今夜泊まる予定の月山は5日目にあたり、国民宿舎の月山荘に宿をとった。月山荘は山荘風の瀟洒な建物で、豪華なホテルのようだったと記憶していた。

 山形で給油する。走行距離は352.7キロ。燃費は24.5K/L。スタンドで休憩し、昨日発表された、第一勧業、日本興業、富士の巨大銀行3行の合併記者会見に見入り、時代の変転を実感して再スタートした。

 山寺に着いたのは14時だった。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ寺である。山寺は俗称で、正式には立石寺というそうだ。客引きに熱心なみやげもの屋のなかで、一番入り口に近い店の駐車場にバイクをとめた。

 氷づけにしてある水のペットボトルを買い、参道をのぼっていく。拝観料をはらって山門をくぐると、登山道のような階段がつづいていた。想像していたような高地の山ではなく、気温は平地とおなじで、汗みずくになってしまう。老人や家族づれが多いので、前を歩く人をつぎつぎと抜いていく。まわりは山登りに縁遠い人間ばかりだった。

 汗がながれてTシャツが重くなってくる。追いぬく人も、下ってくる者も汗だくだ。杉の巨木がしげっていて陽はささないが、暑気がむせかえっている。茶屋のある、芭蕉の句が埋められているという「せみ塚」を横目で見ただけで通りすぎ、頂上の如法堂まで一気にのぼった。

 蝉はないているが多くはない。歩いているときは足元ばかり見ていたが、頂きから見下ろせば、すばらしい景色がひろがっていた。切り立ったように急角度に落ち込んでいる山肌は、杉や松の巨木がしげり、あいだに巨岩、奇岩がせりだしている。わずかにある平地には堂宇が散在し、岩肌には人が掘ったような穴が見え、鎖がわたしてあり、岩と絶壁、老木と寺が山上にちりばめられている。ふもとには川がながれ、正面には対面する山塊もあって水墨画のようだった。





 下りは枝道の奥までくまなく歩き、修験者以外立ち入り禁止となっている、険しい道を見た。修験者、ということばが新鮮だった。現在も吉野やこれから訪ねる出羽三山に修験者がいることは知っていたが、本やテレビで見ていただけで、身近に気配を感じるほど近づいたことはない。ここで修行をしているとわかると、このさきで会うかもしれないと考えていた人に、不意に出合ったような気がして、まごついてしまった。

 下山したのは15時15分だった。ひとりなので早かったが、ふたり以上であれば2時間はかかりそうだ。足には自信があったはずなのに、平地にもどると膝がガグカクする。そんな年ではないはずなのに。

 DRをとめた店にもどり山形名物の洋梨、ラ・フランスのアイスクリームを食べ、山形弁の主人と話していると、テレビに甲子園の決勝戦がうつっていた。勝負の行方も気になったが、この時間になると宿泊地が決まっていないほうが気にかかる。主人に月山まで1時間でいけると聞いて出発した。

 空にはあやしい雲がひろがりだし、時間もすすんで焦ってきた。先を急いでいると雨粒がゴーグルにあたるが、カッパを着るほどではない。降ったりやんだりをくりかえすが、夕立が近づいてくる気配が濃くなってきた。

 キャンプ地さえ決まればテントの設営は5分もかからない。レトルト食品と水も持っているので食事の心配もないし、酒もある。雨の降らないうちにテントだけは立てたいと思うのだが、泊まる場所はじっさいに行ってみなければわからないのだから胸がざわめく。

 見当をつけたキャンプ場は2ヶ所あった。1件目がいっぱいなら次はあそこ。ふたつ目もだめなら、あの林道にはいり、適地をさがそうと思うが、できれば夕暮れにあわただしく走りまわることなく、風呂にでもつかっていたい。先のことは予想がつかないのが醍醐味の、計画なしの旅なのだが、雨でびしょぬれになり、真っ暗な林道で、バイクのライトをたよりにテントをたてるなどということは、避けたいのが人情だ。

 天童をぬけて寒河江にはいった。釣りで名高い寒河江川がみえるが、ウィークデーのためか釣り人の姿はない。路上には激しい夕立の痕跡があらわれ、進めば降られてしまうと感じたとき、道の駅があったので雨をやりすごすために寄ってみることにした。

 道の駅にはみやげものが並んでいた。何か買ってかえるつもりだったので見てあるく。足をとめたのはフルーツのコーナーだった。アイスクリームではなく、本物のラ・フランスが箱詰めにされて陳列されている。
「山形といったら、洋梨かな?」とたずねると、
「ぶどうか洋梨です」との返事。
「ぶどうは珍しくないよね」と聞くが、
「どうしましょう」と店員。やる気がないのか、私の風体がわるいためか、積極的に売り込んでこない。
 洋梨にすることにして発送手続きをとる。
「明日にはつきます」とのことで、私が帰るよりもさきにみやげが先着するわけだ。

 寒河江ダムをすぎ、新道はさけて旧道にはいっていくと、雨がつよく降りだした。カッパを着ようかと迷うが、キャンプ場は近いのでそのまま進む。20年前は新道はなかった。自転車で旧道をのぼった記憶があるが、よくも走ったと思うほど山は深い。弓張平公園にあるキャンプ場に泊まろうと考えていたので、公園にはいっていくが、入り口を間違えてしまう。戻ろうとすると土砂降りとなったので、大木の下で雨宿りをした。

 誰もいない雨の公園で煙草に火をつけ、地図を見ていると、近くに月山荘があることに気づいた。明日見にいこうと思う。昔日の自分に会うようで楽しみだ。20分ほどで雨も弱まったので出発した。
 
 雨で気温が急にさがった。標高が高いためもあるが、夕立のつよさが原因だ。道路にある標示も、27℃、25℃と急降下し、体感ではそれ以上にさがっているように感じられた。
 
 迷いながら弓張平オートキャンプ場についた。整地された芝の清潔なサイトや、真新しい管理棟がみえる。しかし、たっているテントは少なく、人声もなく、炊煙もあがっていない。これなら泊まれるだろうと受付にいくと、ここはオートキャンプ場なので、バイクでひとりの方でも、一泊3500円かかってしまう、それですぐ先に無料のキャンプ場があるので、バイクの人にはそちらを紹介することにしている、と説明された。

 無料ならそれにこしたことはない。

 もともと最近のキャンプ場は設備過剰だとおもっている。キャンプ場はトイレと水道だけあればよいと考えているくらいだ。
 
 地図のコピーをとりだした係りの男性は、丁寧に教えてくれた。この先に国民宿舎の月山荘があり、その奥に無料のキャンプ場がある、と。受付も月山荘でしている、と。明日いってみようと考えていた月山荘である。渡りに船とはこのことだ。
 
 礼をのべて5分もバイクを走らせると、古ぼけた建物がみえてきた。月山荘だ。瀟洒だったはずの山荘は、ただの古い建造物になり、コンクリートの外観も黒ずんで、歳月の重みと変化を全身にあらわしているが、まごうかたなき、月山荘だった。

 20年前は洒落てみえたデザインも、今見れば平凡だ。時代が流れたせいだし、私もさまざまなホテルに泊まってしまったためだ。

 雨がまた降りだした。感傷にひたっているひまはない。早くテントをたてなければ。受付にはいりベルを鳴らした。若い女性がでてきて手続きをしてくれる。キャンプ場は月山荘のうらで、バイクや車は入ることはできず、荷物を運ぶのにリヤカーを使ってもよいとのこと。月山荘の風呂に400円ではいれることなどを宿泊者カードを記入しながら聞いた。

 バイクにもどって荷を解き、リヤカーをさがすがない。よく見ると、工事現場によくある一輪車のネコがある。リヤカーとはこれのことだ。荷物をネコにのせて押していく。こんなキャンプは初めてで、愉快になってきた。

 わだちをさけてネコをおす。志津野営場と看板がでている。野営場とはまたノスタルジックではないか。その一部造成中の野営場には誰もいない。きょうここに泊まるのは私ひとりだ。思わず笑いだしてしまった。野営場もネコも私の貸切だ。

 貸切にもかかわらず、テントサイトは指定されていた。そこに5分かからずにテントをたてる。安物のテントだが長いつきあいだ。愛着がある。荷物も食事に必要なものだけネコに残して、テントに運びこむ。マットを敷き、シュラフもひろげてキャンプの準備は10分とかからずに終了した。

 月山荘の風呂にいく。山寺でかいた汗を流したかった。月山荘の入り口には、勝手になかにはいってはならぬ、とうるさいほど書いてある。必ずベルを鳴らして人を呼べ、と。よほど盗難がつづいたのか、ここまで念をおされるとこちらも硬くなる。ベルを鳴らして料金をはらい、浴室にいった。

 風呂も貸切だった。20年前にもつかった浴槽に体をしずめる。銭湯とおなじくらいの大きさのバスタブに、蛍光灯の白い光が落ちている。青い浴槽にクリーム色の壁、3つある蛇口にシャワー、小さな脱衣室。ここを立派なホテルだとおもった私は幼かった。

 くもった小さなガラス窓からキャンプ場が見おろせるが、、陽は落ちてしまってテントはみえない。上機嫌で風呂からあがり、10代の子供が大騒ぎをしている客室の前をとおって受付にもどっていく。20年前は2段ベットが6台はいっている大部屋だったが、今もそうだろうか。覗いてみたいがはばかられる。

 またベルを鳴らしてビールを買い、飲むとこれが美味いのなんの。首にタオルをまき、ビールをがぶ飲みしながら、テントに歩く、林間の小道だった。

 夕食はレトルトのカレーとライスだ。煮ればできてしまうから手間がかからない。食事があたたまるまで、ラジオをつけて野球のナイターをながし、ネコに腰かけて、ビールを飲みながら周囲の深い森をながめていた。

 ネコにすわっているという状況が面白かった。嫌な蚊もアブもいない。野営地は谷底のような地形で、左右に山の尾根がはしっている。森は深く木々は濃い。月山荘の明かりがはなやかだ。カエルと虫と、鳥の声がつづいていた。

 雨はあがったが、ラジオに遠雷のノイズがはいった。空のかなたが光っているのが雷だと知れる。木々がざわめきだし、森が不気味になってきたころ、食事を終えてテントにはいった。時間はまだ19時30分で、ひとり旅は濃密なときの連続だということを再確認した。ビールを焼酎にかえて、ラジオを聴いていると、ノイズに誘われるように寝入ってしまった。                                                            

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