8月21日 深夜に落雷でパニック 湯殿山 雷雨の月山登山 酒田 


 異変にきづいて目が覚めたのは真夜中だった。爆音と衝撃波がつたわってきたのだが、何なのかわからない。時間は12時をすぎている。腕時計の蛍光塗料が時刻を教えてくれた。

 雷だった。いつの間に近づいていたのか、雷が頭上で暴れまわっている。ふだんなら雷は大好きだが、本能的に危険を感じた。あまりにも近すぎる。雷鳴が上空で炸裂すると、目を閉じていてもまぶたのなかが真っ白になる。落雷音はすぐ真上から降りそそいでいた。

 テントのなかが銀色がかった白色にそまったときは、すぐ近くだ。体が硬直する。雷が墜落してくる金属音がとどろき、大音響とともに落雷すると、大地の上に横たわっている背中が、地響きでゆさぶられ、周囲の木々や谷にも音波が共鳴する。肩をちぢめてたえる。目をあけようとしても、どうしてもあけられない。

  何度落雷しただろうか。はじめのうちはうろたえていただけだったが、徐々に状況を分析できるようになった。テントの周囲には高い木があるので、キャンプ場に落ちるとしても、まず木に落雷するはずだ。また、100メートルもはなれていない場所に、木よりも高い月山荘があるので、木よりも月山荘の避雷針のほうが先のはず。さらに、月山荘より高い、左右にはしる尾根筋の木のほうが可能性が高い。テントのなかに金属はあるが、テントに落雷した話は聞いたことがないし、キャンプ場の立地自体が、安全性を考慮しているはずだ、と。

 落雷は以前至近だが、余裕をとりもどした。雷の落ちていく金属音の方向と、衝撃波のつたわってくる感じから、尾根に落ちているように思える。気休めだが金属製品をテントの隅においやる。落雷のたびにゴムのエアー・マットの上で丸くなり、身をちぢめる。月山荘から悲鳴が聞こえてきた。今まで気がつかなかったのだが、落雷のたびに悲鳴があがっている。ラジオのスイッチがはいったままであることにも気がついた。

 雷は近づいたり遠のいたりする。雨も激しくふっている。唐突に、テントの前においたままにしている、ネコのことを思い出した。当たり前だが、ネコは鉄製である。ネコに落雷したら、ただではすまない。

 雷が遠のくのを待って、テントから雷雨のなかに顔だけだして、ネコを力の限り押しやった。しかし悲しいかなネコは一輪車で、すぐにバランスをくずして、横倒しになってしまう。テントの外にでて、さらに遠ざけようかと考えたが、雷鳴がはじまったのでやめた。

 1時までおきていたが、その後は眠ってしまった。雷はいつしか去ったのだ。実はテントに落雷する例はあるそうで、その場合は即死だそうだ。私はそのままにしてしまったのだが、雷が近づいたときにはテントのポールをたおし、建物のなかか、大木よりも4メートルほどはなれた場所に避難するのが基本だそうで、後日それを知ったときには青ざめてしまった。しかし立地が安全性を考慮していたのも事実だったとおもう。キャンプ場には落雷しなかったし、落ちたのは月山荘の避雷針と尾根の木だとおもわれるから。

 翌朝目がさめたのは4時30分だった。すでに夜は明けている。テントの外にでてみると、ガスがでていて気温が低く、セーターを着てジャンバーを羽織っても寒かった。

 横倒しになったネコを起こし、腰かけて湯をわかした。昨夜の雷がうそのように森は静かだ。霧が霊峰月山のふもとをおごそかに清めているように見える。朝食はカップめんだ。手軽なのでこればかりになってしまう、キャンプツーリングの定番だ。テントは濡れそぼっていて、乾くようすはない。朝食を終えると、テントのなかの荷物を東屋にはこび、パッキングを開始した。

 濡れたテントに手を焼いた。このまま今夜のキャンプ地についても、張ってしまえばすぐに乾いてしまうのだが、ほかの荷物を濡らしてしまうので気をつかう。体を動かしているとあたたまってきた。ジャンパーもセーターもとり、荷をまとめたころには汗がうかんでいた。

 だれもいない早朝の遊歩道をネコに荷物をつんで押していく。また愉快になってくる。日常ではありえない、あまりに浮世離れした状況だ。まだ寝静まっている月山荘のまえでバイクに荷をつみ、親しみさえ感じるようになったネコをかえして、寝ている人々を慮ってエンジンはかけずに惰性で坂道をくだっていく。

      出発のまえ

 

 六十里街道にでたところでビックシングルをキックで始動し、湯殿山にむけて走りだした。今回のツーリングでは出羽三山の山頂に立ちたいとおもっている。湯殿山と羽黒山は山頂ちかくまで道路が通じているので、頂きにたつのはたやすいが、月山は登山道しかなくて、2・3時間は歩かないとたどりつけない。登りだけでなくて下りもあるので、往復4・5時間は必要だ。登山コースは多数あり、昨夜泊まった野営場からも登山道が通じているのだが、月山高原ラインで8合目までいき、そこから歩くのが一番楽だとガイドブックにあり、その言葉に従うつもりだった。

 ブナ林のつづく旧道六十里街道をいく。路面も森もしっとりと濡れている。旧道は林道を舗装したような細い道で、山が深く、人の気配がしない。早朝の車のいない街道を景色を見ながらすすんでいった。

 湯殿山の入り口にある有料道路のゲートはすぐだった。6時45分に到着したので20分ほどしかかからない。しかしゲートは封鎖されていて、開くのは8時と看板がでていて、憮然とする。

 月山に登るために早起きしてつくった時間が、むだになってしまう。ゲートは鎖がかけてあるだけで、よほど行ってしまおうかとおもったが、時間外に通行したものは警察に通報すると、木札の警告がでている。深山に警官がかけつけるのか疑問だし、もし来たとしても、バイクなら捕まらない自信がある。しかしここは霊場であり、無法な行為ははばかられた。

 湯殿山は諦めてしまおうかと考えた。気のみじかい私には、1時間以上の時間の空費はたえがたい。それでも待つことにした。次にいつ来られるのかわからないし、出羽三山を制覇するのが旅の目的だから。

 8時まで待つことにしてバイクを駐車場にとめた。ポツリポツリと車がやってきては、私と同じようにゲートの鎖と警告をみて、広い駐車場にちらばって待機しはじめる。有料道路の入り口には湯殿山ホテルがたっていた。湯殿山に関係のあるホテルのようで、そこのバスだけゲートの鎖をはずして有料道路に進入していく。ホテルに泊まった人だけが特別にはやく参拝できるそうで、釈然としない。

 時間を無駄にするのはいやなので、テントをほすことにした。陽射しはつよくなってきていて、みるまにかわいていく。それだけ暑くもあるわけで、陽のあたっている私の周囲に車はよってこず、日陰にあつまっている。これ幸いとスペースを大きくとり、濡れ物をひろげた。

 気になっていたチェーン調整もする。荷をすべておろしてシートをはずし、工具をだす。3分とかからずに終了。ついでに前後のタイヤのアライメントを、地面に手をついてみていると、車がとなりにとまった。だれもよってこない場所にわざわざ来るとはと横目でみると、五十がらみの男がおりてきて、デビューしたばかりのホンダHR−Vのリヤゲートをあけ、カセットコンロと鍋、カップめんをとりだしている。ほかの車から見えない位置にカセットコンロをおくと、湯をわかしだした。車のなかをのぞくと、車内で寝泊りしながら旅行をしているのがわかり、食事の準備をする男性を見ないように視線をはずした。

 湯殿山の関係者がやってきてはゲートの鎖をはずし、車を有料道路にいれると、また鎖をかけて走り去っていく。観光客のわれわれは待ちぼうけだ。時間が決まっているから仕方がないことなのだが。となりでラーメンをすすっている男性は、やけに時間がかかっている。ようすをうかがうと、木の枝をおって手製の箸としているのだが、ひどい代物で、めんをうまくつかむことができない。吹きだしそうになってしまった。

 7時30分にゲートの係員がやってきた。ようやく鎖がとかれたのは、定刻よりも10分だけはやい7時50分だった。

 普通車は400円、自動二輪は200円の通行料だ。有料道路はみじかく10分たらずで仙人沢にいたる。バイクをとめて徒歩で30分の登りにそなえて身づくろいし、大鳥居のたつ参道の入り口に歩くが、徒歩登山禁止の看板がでている。工事中で危険防止のため有料バスをご利用ください、と。

 歩けばただのところを金をはらうのは不本意だが、バスに乗った。料金は上り下りともに100円だ。しかし乗って正解だった。待つまもなく出発するし、道は狭くて急で、歩いたら難儀したのは必定。時間も10分かからないので、有料道路の入り口でまった時を取り返すことができた。

 バスがとまったのは湯殿山神社の御神体のすぐ下で、周辺は撮影禁止になっている。バスでいっしょだった人々と先にすすむが、カップめんをすすっていた男性もいっしょだった。

 入り口には神主がたっていて、靴と靴下をぬいでお祓いをうけ、穢れを清めなければすすめない、という。指示にしたがい、頭(こうべ)をたれてのりとをあげてもらうと、紙の人形(ひとがた)をあたえられる。人形を体のおなじ部分によくこすりつけ、最後に息をふきかけて、梵字川にながした。

 中は神聖な雰囲気が張りつめた場所だった。古来よりここで見たことや聞いたことは、他所で話してはならないとされているそうだが、有無を言わせずそれにしたがわせる御神体があった。つくづくと見て非常な感銘をうけたのだが、この場の全体のなりたち、自然と人間が長いあいだにわたって作り上げてきた、神域の荘厳な気配が、無神論者の私をさえ敬虔な気持ちにさせる。人を強引にひきつけてしまう力があった。

 ふだんの私では考えられないことをした。お札をもとめ、家族の平安を祈願し、先祖に供養までしたのだ。御神体に畏怖の念をいだいたからだが、説教や宗教哲学でこのような気分を持ったことはない。

 ガイドブックにも御神体の記述はすくない。言葉で描写することをためらわせるものがある。掟だけではない、そうしてはならないと感じさせる神性がある。バチカンのサンピエトロ寺院にもいったことがあるが、このような気分にはならなかった。日本人であるために、西洋人とは感性がことなり、自然に神がやどるという、汎神論の遺伝子が、しぜんとつたわっているからだとおもった。

 御神体はバイクで長躯しても見る価値があるとおもう。東京からでも、大阪であっても。どんなに遠くとも。私も古来からの教えにしたがってこれ以上神域について語らないことにする。

 神威に打たれたままバスにのり、大鳥居にもどったのはまだ8時40分だった。修験者の墓のならぶ一画で即身仏のミイラの模型をみて、すさまじい修行を想像した。即身仏となるために五穀をたち、十穀だちの荒行の末、入定したとある。衆生救済のためである。他者のためにである。模型のまえにたたずみ、湯殿山の修験者のためにひらかれ、現在は一般者も泊まれるようになったが、きびしい生活の気配をただよわせる宿坊をのぞいてDRのもとにもどった。

 駐車場には山伏姿の修験者の団体が到着していた。荷物を満載したTDM850がとまっている。山伏たちが山にはいっていくのと入れ違いに下山した。

 ところで、森敦の作品に「月山」という小説がある。芥川賞を受賞していると記憶する。帰宅してから読んだのだが、想像していた即身仏の成立とはまるでちがった世界が展開されていて、世俗とはかようなものなり、と幻滅した。あくまで小説の話だが、行き倒れになった乞食の内臓をぬき、即身仏に仕立てて利用した、というものだった。あくまでもお話のなかのことだが。

 六十里街道にもどり羽黒山神社にむかう。月山に登るつもりなので飛ばす。センターラインは白色なので先行車をつぎつぎとぬき、信号では先頭にでる。高速ではリーダーシップはとれないが、狭い山道では身軽なDRの特性が発揮できた。

 山をくだっていくと視野がひろがり、月山ダムがあらわれた。原生林のなかで川をせきとめているダムは、自然のなかで浮き上がっていて醜悪な印象。展望所があって車がとまっているがアクセルをあけて一気に通過した。

 羽黒山神社にちかづいたころ地図で確認しようとした。しかし荷のうえにネットでとめていたはずの、東北と関東の地図が2冊なくなっている。飛ばしているうちに落としてしまったのだ。好事魔多し。いい気になって飛ばすべからず。

 羽黒山有料道路の入り口にいたった。料金は湯殿山と同額の200円。チケットも湯殿山とおなじデザインで、共通通行券となっている。国の道路だとおもっていたが、企業が運営していることを知った。

 羽黒山神社まで10分かからない。指示にしたがって二輪用の駐車スペースにDRをとめ、参道を歩いていく。本殿までは5分ほど。月山と湯殿山は冬になると雪で入れないため、ここが三神合祭殿。すなわち、ここに参拝すれば三神社をまわったことになるという。



 合祭殿は高い格式を感じさせるものだった。茅葺の屋根でどれほどの年月がたっているのか不明だが、歴史が積み重なっており、どっしりとたっている。鏡池をまえに配し、杉の巨木にかこまれている。内部の装飾を見ていると、中にはいってもいいですよ、と女性職員に声をかけられ、じっくりと見させていただいた。

 三脚をたてて写真をとっていると、
「カメラのシャッターがおりないので、みていただけませんか」
と年配の女性に声をかけられた。
「カメラ屋さんなら、わかるとおもって」
と胸のまえにカメラをさしだす。
「カメラ屋ではないんですけど」と言いつつも、つい受け取ってしまい、シャッターをいじってみる。たしかに動かない。
「わからないですよ、カメラ屋じゃないんでね」
とカメラをかえすと、
「カメラ屋さんでもわからないんだー」だって。ちがうんだけどなー。

 神社をあとにするが帰路は道をかえた。裏道をいく。人通りはない。巨木が並ぶ道をすすんでいくと、立ち入り禁止の札があって注意をひかれる。看板をよく見ると、神社がたてたものではなく宮内庁の指定だった。周辺は古代天皇の陵となっているため、とある。古い岩とチェ−ンにかこまれている墓所らしきところを遠望すると、杉の巨木がたっているだけだったが、近づきがたい気配がただよっていた。

 神社の入り口にはみやげもの屋がならび、食事もできた。名物でも食べようかと考えるがまだ11時前で、月山八合目まで走るあいだにレストランがいくらでもあるだろうと思い、先にすすむことにする。せっかく深山にわけいっているのだから、そばが食べたかった。それもそれなりの雰囲気の店で味わいたいと考えたのだった。

 月山八合目までのぼる道は、六十里街道の旧道よりも細く、曲がりくねり、山深かった。期待していたそば屋はもちろん、店は一軒もない。腹が減ったが、八合目までいけば何か食べられるだろうと諦めてはしった。

 八合目に近づくと雨がふりだした。強くなった雨のなか駐車場にすべりこむ。VT250とSR500がとまっている。SRは空荷だがVTは山に登ったらしい雰囲気。レストハウスがあったので食事にありつけた。しかし店は山小屋でメニューは少ない。不本意ながら、肉うどんとおにぎりニケをたのみ、店員に月山登山のことを聞く。

 ガイドブックには2時間とあるが、景色を見ながら休憩をとりつつのぼると、ふつうの人で往路3時間,帰路2時間の5時間はかかるとのこと。登り2時間、下り1時間と考えていたので時間が大幅にちがってくる。時刻は11時30分。5時間後は夕方の5時だ。今夜とまるところは当然決まっていない。心当たりのキャンプ場があったので、予約だけでも入れておこうかと公衆電話を見たが、どうせなんとかなるとやめてしまった。

 バイクにもどり、ザックに2リットルの水、カッパ、着替えにセーターなどをつめこみ、傘はどうしようかと迷ったすえにおいていき、歩きだそうとするとやんでいた雨がまたふりだした。

 空を見上げていると綿のツナギを着たSRのライダーが山からおりてきて、登ってきたのか、と問う。50がらみの男だ。これからだ、と答えると、DRのナンバーを見て、遠くからよく来たな、雨で下りのコーナーはすべるから注意しろよ、という。SRは地元ナンバーでツーリングではなさそうだ。たずねると、宅急便だ、という答え。きょうは3回も往復しているそうで、何をはこんでいるの?、と聞くと、忘れ物、だって。なんのこっちゃ?

 遠雷がひびきだした。昨夜につづいてまた雷様の登場だ。食堂の店員が店のそとに出てきたので雷のことをきいた。この付近では雷は落ちてくるが、頂上あたりでは横にはしると言う。しかし10年ここにいるが、人に落ちたことはないですよ、とも。それより雨がつよくなったら、かならずひきかえしてください、と念をおすように忠告された。 

 小雨のなかをのぼりはじめると弥陀ヶ原。湿原がひろがり木道がつくられている。進むと雨はつよくなり、雷も頭上と右横で鳴りだした。帽子にウインドブレーカーであるくが、雨がしみとおってくる。カッパを着ようかと考えていると、月山神社の末社があり逃げこんだ。

 観光客も登山者も雨宿りをしている。名物の串こんにゃくを食べている人がおおい。傘をもってくればよかったと後悔しながら、雷雨が去るのをまった。

 小降りになったので出発するがすぐに本降りになってしまう。雷ももどってきた。カッパをつけていないのでびしょ濡れになってしまった。登っていくのは私だけで、つぎつぎに登山者がおりてくる。これからですか、大変ですね、と声をかけられるが、苦笑するほかなかった。

 まばらな葉のしげる木の下で、いまさらながらカッパをつけていると、登山者がひとり下りてきた。登るのか? と問うので、迷ってる、と答える。すると、雷なんだよ、およびでないでしょう、と言い捨てて通りすぎていった。

 雨は肌までしみとおっている。髪もながれるほど濡れてしまった。下っていく男の後姿をみて、10秒後に決めた。下山だ。

 雷鳴がとどろき、激しい雨のふるなかを下っていく。おりるのははやい。12時45分には八合目にもどった。トイレにはいって濡れたシャツをとりかえる。乾いたものを身につけるとほっとする。月山登山は酒田見物にきりかえることにして駐車場にあるくと、雨はあがってしまった。

 まるで雷に追いかえされたような気持ちだった。下界をみると酒田、鶴岡ともによく晴れている。月山の山頂にたつのはいつとは知れぬ次回として、DRをスタートさせた。

 下っていくと雲が切れて、夏の陽射しがもどってきた。カッパをつけたままだし、荷物も濡れたままなのでとまって積みなおす。荷のあいだにはさんでいたガイドブックが水びたしだ。そっと開いてみるとなんとか使えそう。カッパをたたんでいると、また雲がでてきた。

 逃げるように走るが羽黒山のしたでまた降られてしまった。雷はないが激しい雨だ。カッパをぬいだのが後悔される。雨宿りをしようと、目についた玉川寺にむかい、入り口の東屋に飛びこんだ。


 
土砂降りの玉川寺まえ


 13時45分だった。雨はなかなかあがらず雲は低くたれこめている。酒田のほうは晴れているようなので、雨をやりすごすことにした。小降りになると蝉がなきだして、そろそろやむかと思わせるが、また激しくなる。しかたがないので国指定の名勝庭園となっている、玉川寺の庭を見にいくことにした。

 300円の拝観料をはらい寺にあがるが、靴下が濡れているので素足になる。靴下を靴におしこんで庭園を見てまわった。庭は見事だった。来歴もすばらしい。山水の相が凝縮され、複雑で観念的。時代を経た色がしぶくにおっている。雨の風情も加わって、庭を歩けたらもっとよかろうと感じる。しかし庭がみたかったわけではないし、雨がやまないのが気にさわる。時計ばかりが気にかかり、無駄になった時間が惜しまれた。

 寺をでて東屋にもどった。待ったが雨はやまない。カッパを着て走りだすことにした。羽黒山の参道をくだっていく。雨は豪雨となり、水しぶきがたちこめて、前方がかすんでいる。しかしそのすぐ先で、雨は嘘のようにあがってしまった。酒田の町にちかづくと、路面も乾いていて、雨の形跡も消えてしまう。みたび路肩でカッパをぬいだ。月山を見上げると雲がおおいかぶさっている。局地的な雨だったのだ。自然に翻弄されたようでおもしろくなかった。

 15時をすぎたので宿泊地を決めようと気があせってきた。サイクリングでキャンプツアーをはじめたころからの癖で、15時をこえると落ち着かなくなるのだ。自転車ではしっていると15時から遠くへはいけないし、テントの設営と食事の準備は陽のあるうちにすませるのがセオリーだから。今はバイクだし、テントも食事さえも簡単にできるのだが、しみついた感覚はぬけない。見当をつけておいた庄内夕日の丘キャンプ場にむかう。ここがだめなら20年前にとまった象潟まで走るもよし、ちかくの海岸で泊まるもよしだった。

 山形空港に隣接した庄内夕日の丘キャンプ場につき、受付にあるいて係員に話しかけようとすると、電話がなって職員は受話器をとった。宿泊の依頼だったが、予約でいっぱいだと断っている。ダメなのかと思ったが、バイクでひとりなら大丈夫だった。バイク用にフリーサイトが用意されていて、テント4張のスペースがあり、今日はだれもはいっていなかった。

 400円の料金をはらい、安いですね、というと、そうでしょう、と相手も答える。分別用に3種類のゴミ袋をもらったが、これだけでも400円くらいしそうだった。

 テントは5分で設営した。風があり、雨で湿ったテントはすぐに乾いてしまう。離陸しようとする飛行機が滑走路を移動していて、キャンパーが集まって見物しだすが、旅客機が飛ぶのは珍しくもない。それより酒田見物だとバイクで走りだした。

 16時15分に山居倉庫につく。何棟もならぶ米倉は、たしかに珍しいが夜になって見てもよいわけで、日本一の大地主といわれた本間家の別荘を利用しているという、美術館を見に行くことにする。しかし迷ってしまった。方向感覚がつかめずに走ってついたところは、本間家の旧本家だった。とりあえずここを見学しようとすると、門が閉ざされてしまう。何故? と思ってよく見ると、16時30分で閉館だって。唖然とするが地方は夜がはやいのだ。

 美術館も閉まってしまったにちがいない。しかたなく酒田の街をみてまわり、美味いものでもたべてキャンプ場にもどることにした。なにしろここには漁港がある。魚がおいしいはずだ。昼はそばを食べられなかったのだし、晩はかたきを討たねばなりますまい。

 中心街にでてDRをとめて歩いてみるが、人が少ないし活気もない。魚料理の店はもちろん、はいってみたいレストランもなかった。デパートに入れば名物を売っているか、食堂があるだろうと思っていってみるが、メニューはカツ丼、ラーメン、スパゲティー・ナポリタン。これでは街道筋の観光客相手の店をみつけたほうがましだと、酒田を去ることにした。

 名物、冷たいラーメン、と看板をだした店が何件かあった。いまでこそ夏の冷たいラーメンは市民権をとっているが、当時は見たこともない代物で、とても食べる気にならなかった。しかし先進的だった。日本で一番はやかったのではなかろうか。冷たいラーメン。

 海がちかいのにラーメンでもなかろうと、店をえらぼうとするが他になく、国道をいくがなにもない。コンビにしかなくて、割り切れない気持ちのままサンクスにはいり、レトルトの親子丼をえらんだ夕暮れだった。

 キャンプ場は食事の準備でにぎやかだった。家族や友人同士でバーベキューや凝った料理にとりかかっている。キャンプが目的ならそれも楽しかろうが、私はちがう。その時間を観光につかいたいのだ。空いているうちにシャワーを浴びてしまう。すっきりしたところで、テントのなかからエアー・マットをとりだして芝生におき、あぐらをかいてすわるとビールの栓をあけた。

 
庄内夕日の丘キャンプ場


 レトルト食品をあたためる。空港はひっそりとしていた。飛行機は一機もいない。夜に離着陸があると嫌だなとおもっていたが、杞憂だった。きょうのフライトは終了したのを、シャワーを浴びにいったついでに、受付にはられた運航表を見て知ったのだ。もともと一日に数便しかない。どうりでキャンパーが離陸に集まったはずだ。空港はひどい赤字だろう。

 今夜もラジオでナイターだ。焼酎をやりながら芝生のマットの上で横になり、片肘をつく。食事をしたら暑くなってしまってテントにはいれないのだ。バイク・サイトは受付のすぐ近くで、炊事やシャワーにいく人が頻繁にとおる。ファミリーやグループばかりで、ひとりでキャンプしているのは私だけ。バイクも私ひとり。場違いな存在のような気がしてくるが、バイクが救いになっていた。パールホワイトで、650と大きなデカールのある、首都圏のナンバーのついたDRが、芝生の上でひとり酒を飲んでいる良い年をした男の救いになっていた。 

 ひとりだが満ち足りていた。いろいろなことがあった今日一日を振り返り、旅の相棒のDRや、長いつきあいのキャンプ道具にかこまれてなごんでいる。古くてみすぼらしくなってしまったものでも、私にとってはかけがえのないものたちだ。10年、なかには20年以上たっているものもあり、それらの道具とは会話ができる。これまでのさまざまなキャンプ旅行を思い出す。走った道を、あのときの夏の空と、べつの時間の山や海を。

 杯をかさねて酔ったころ、見られているだけでは癪なので、ほかの人たちのキャンプの様子を見物しにでかけた。ファミリー・キャンプもするので、そのときは私も皆とおなじことをしている。ツーバーナーやタープにテーブルなども持っているが、これほど設備のととのったキャンプ場にとまったことはなかった。

 すべてのサイトにAC電源がついている。シャワー室があり、ゴミは三種類に分別する。流行の真新しいテントやタープがならび、子供たちはテントのなかや芝生のうえを走りまわり、大人たちはバーナーを囲んで酒宴や会話でにぎやかだ。学校の運動会でつかうテントを二棟たて、クリスマスの電飾でかざって飲んでいる若者のグループがいる。赤と緑と青の電球が明滅する。AC電源もこんなことにまで使われて、何を感じているのやら。

 

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