1983年 北海道ツーリング

人との出会いの旅

                         

 函館ハリストス正教会

 プロローグ

 1983年のツーリングを、19年後の2002年になって書き残そうとおもいたった。それは2001年に18年ぶりに北海道ツーリングに行き、記録をノートに書きとめたからにほかならない。残念ながら旅の細部の印象は、日々失われていく。固定するには記述しておくほかにないのだ。記憶は薄れてしまっているが、鮮烈な印象ものこっている。断片的な記録と写真をたよりに、記憶の底をまさぐってみた。

 大学3年の初夏のころだった。バイク雑誌で北海道特集が組まれるころだ。大学のツーリング・クラブのなかで、とつぜん北海道ツーリング熱がわきおこった。
「バイクに乗っているなら、一度は北海道に行かないとね」
「夏は、北海道ツーリングだよ」
「来年の夏は、就職活動をしなければならないから、行くなら今年しかない」

 友人たちはそんなことを言いあっては盛りあがっていった。しかし、私は冷めていた。実は大学1年だった2年前に北海道に渡っていたのだ。その時はバイクではなく,自転車だったのだが、札幌も層雲峡も、摩周湖も釧路湿原も見てしまっていて、いまさら北海道にいく気分ではなかった。しかも金がなかった。北海道にいくとしたら10万はいるが、まったくなかった。この年は3月に紀伊半島一周ツーリングにでかけたが、旅費がなくて母に出してもらっていて、返していなかった。もとより返す気もないのだが、また、とはいかにも言いづらい。

 この年からだったと思う。北海道特集が毎年のようにバイク誌で取り上げられるようになったのは。私はモーターサイクリストを購読していたが、前年にはMR.BIKEだけが取り上げていた開陽台が大々的に登場していた。曰く、ライダーの聖地であると。

 行くつもりはサラサラなかったのだが、友人たちの旅行プランを聞いているうちに、北海道にいったら、まず第一に札幌駅に行って旅人から情報を収集し、その後に計画を固めればよい、などと経験を語りだし、2年前の北海道サイクリングを回想して、根っからの放浪癖がうずきだし、自らもいく気になった。開陽台にも行ってみたいし、自転車では果たせなかった北海道一周もなしとげたいと、夢は広がっていくのだった。

 クラブの仲間とは別行動でそれぞれがソロツーリングとなった。いまとなっては何人の男たちが北の大地にわたったのか、定かではない。夏休み中にそれぞれの郷里から、または帰省前の下宿先から自分の都合で旅立った。だれもいっしょに行こうと誘うものはなく、現地でも会わなかった。ほかの友人たちもおなじだったと、夏がすぎてから知った。

 バイクはスズキ『GSX400F』だ。2万キロ走行で、コンチハンにバックステップ、ヨシムラの集合管やFRPのフロントフェンダーをとりつけて、走り屋を気取っていた。

 北海道にわたるにはフェリーに乗らなければならない。フェリーではセンター・スタンドでバイクを立てて、ロープで固定するのが一般的だった。サイドだけのバイクは船員にひどく嫌われた。そこで集合管はノーマルにもどしてセンター・スタンドも取り付けた。減っていたリヤ・タイヤもダンロップTT100の新品と入れ替えて、準備は終了した。 

 旅費はまたしても母から借りた。記憶によれば紀伊半島ツーリングの分とあわせて、20万円をいまだに返金していない。そのことはもう、あれ以来話題にもならない。母は健在である。感謝。

      7/21 雨の東北道を北へ、函館上陸
      7/22 昭和新山、室蘭、支笏湖へ
      7/23 襟裳岬の出会い、黄金道路、帯広へ
      7/24 別れと、雨と霧の霧多布、そして根室へ
      7/25 深夜の盗難事件発生! 開陽台、日本縦断男登場
      7/26 出会いの日、紋別へ
      7/27 稚内の騒がしい夜
      7/28 何もない富良野、そして札幌駅の夜
      7/29 念仏トンネルをぬけて神に会い、泥棒学者と論争
      7/30 函館の夜
      7/31 雨の別れ
      8/1  ホーク氏との別れ
      8/2  田沢湖、大船渡
      8/3  陸中海岸、瑞巌寺、そして帰宅

 

 

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