新リア王 高村薫 2005年 新潮社 上・下とも1900円

 高村薫らしく細部まで執拗に書き込んだ長編力作小説。

 本書は『晴子情歌』の続編である。『晴子情歌』は母と息子の対話だったが、本作は父と子の会話形式となっている。父親は衆議院議員を40年間つとめた青森の王ーー新リア王ーーであり、息子は出家した仏家、禅家である。このふたりが1987年に過去を回想して物語はすすんでいく。

 代議士の父は政治の権力闘争や国会の運営のされかた、またとある1日の自身の活動の様子を語り、息子は永平寺での修行のことやその後の仏家としての己の軌跡を話していく。父親の政治活動は高村らしくじつに細かく執拗に書き込んである。毎作思うが、よくぞここまで克明にと感じ、少々持て余すほどだ。それに対する息子の禅家の修業も詳細に著されているが、仏教用語が説明もルビもなく多用されていて、なんの知識もないと戸惑ってしまい、とっつきにくさを感じてしまうだろう。真摯な仏門への没入願望が語られるのだが、仏教に親しみのない読者には敬遠もされるだろう。

 息子が修行したのは永平寺であるので、開祖の道元のあらわした『正法眼蔵・しょうぼうげんぞう』のことばがたびたびとりあげられる。現成公案・げんじょうこうあん、一顆明珠・いっかみょうじゅ、有時・うじなど。仏教書や正法眼蔵に触れたことがあればなんとか意味をつかんでいけるだろうが、そうでなければなかなか理解できまいと思われるから、この小説の敷居は相当に高いものだ。

 ところでこの作品は日経新聞の朝刊連載小説だった。しかし内容が重苦しく、しかも独白が延々と執拗に続くので人気がなく、連載は途中で打ち切られてしまった。私でさえも途中から読まくなってしまったほどである。ぶつ切りの新聞連載にはあっていない作品なのだ。その打ち切りの際に、日経は早く連載を終えたくて、作者に無断で原作を編集したと記憶する。この行為に憤慨した高村が日経を提訴して、後に両者は和解したとも記憶するが、もとよりこの深刻な作品を新聞小説にするのは無理だったのであり、不人気のために無断で編集してでも連載を早く終えたかった日経の気持ちもわかるし、提訴した高村の心情も理解できるが、作品がすばらしいのに一般受けはしないから、なおのこと両者には不幸なことであった。

 物語は高村の執拗な筆の下ですこしずつすすみ、ふたりの話し合っている現在に近づいてくるにつれて、父と子の身辺に不穏な気配がみちはじめて、展開部をむかえ、息をのんで帰結する。本作はたいへんな力作である。人間の内面をどこまでも追求しようとしているが、これは作者の精神的疲労がいちじるしいはずであり、作者自身の精神に変調をきたしかねないと案じられるほどである。そして作品の水準も非常に高い。ラストの直結する「英世」、「死の周辺で」、「小慈小悲もなき」の各章の内容の深さは尋常ではなく、眼をみはるような出来であり、作者の力量に感嘆するほかない。○○であろうか、−−ああ否、××ではなかったか、と内面の真実にどこまでもせまっていこうとする姿勢と、明晰な論理展開がすばらしい。これだけの力のある作家は、現在の日本に5人か、10人しかいないのではなかろうか。

 それでも執拗にすぎる記述はときに退屈であり、とくに「息子たち」の章では父と子の世代の政治感のちがいを記そうとしたのだろうが、論旨の展開が明確でなく、その後のストーリーにつながる線引きとはなっているが、読んでいるのが少々苦痛だった。作者はここで自身が好きだというドフトエフスキーばりの議論を展開させたかったのかもしれないが、ここは成功していないと思われる。さりとてこの執拗な記述のつづく文章がさらに10%増し、20%増しであったとしても、読者は本から手をはなさないだろう。なんとなれば高村の小説の味はこれ以外にありようがなく、作者もこれよりほかに書きようがないからだ。

 政治と仏教を語りながら本書は哲学的で文学的である。政治家であるのに埴谷雄高の死霊やニーチェ、月山を読んでいるというのはリアリティーがないが、1973年のピンボール、コインロッカー・ベイビーズを読んだと語る息子の仏家は存在しそうな人物だと思われた。

 あとがきで作者は取材協力者と新潮社に謝意をのべている。日経には一言もないが、作品中に3社の新聞記者が登場し、それが青森の地方新聞社と毎日と日経である。ここに作者の秘めた誠意を感じるのは考えすぎだろうか。

 本作でこれまでの最高地点、日本文学界の最高水準にたっした作者はつぎはどこにむかうのだろうか。救いのない、無残な終わりかたをした本作の続編は書きがたいだろうから、別の作品世界にむかうのだろう。次作がまたれる。

 

 

 

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