憂い顔の童子 大江健三郎 講談社 2002年 2000円+税

 非常に読みづらい小説。

 本書は『取り替え子』『さようなら、わたしの本よ!』と3部作をなす2番目の作品である。他の2冊とおなじように作者と思しき人物が主人公で、作者の妻、息子や娘、母と妹、自殺した夫人の兄の映画監督など、作者に近しい実在の人物たちが登場し、私小説のような趣だが、すべてが事実であるはずもなく、現実をベースにして作り上げた物語なのだろう。

 本書の特徴はなによりも非常に読みづらいことである。内容が難解というのではなく、長い文章がグネグネとつづられていて、意味や主語をとりにくいのだ。小説の筋なのか、それとも主人公の心の動きを追っているのかわからなくなることが多く、論旨の展開も明確ではない。したがって読んでいてもしばしば渋滞し、すこしもどって読み返すことが度々で、例えて言えば訳の悪い翻訳小説のようなのだ。元々大江の文体はこのような特徴があるが、本書は特にその傾向が顕著である。

 物語は主人公が生まれ故郷の四国の山のなかに帰り、昔からその地で伝承されていて、作者もこれまで他の作品でとりあげてきた特別な能力をもつ子供、『童子』についての作品を書こうと企図して過ごす日々をえがくものだ。

 3部作なので『取り替え子』でえがかれた作者のトラウマをモチーフにもしているが、多くは作者の日常の生活と周囲の人たちとの軋轢に終始する。何度もくりかえし書かれるのは、地元の人々とのこじれにこじれてしまった救いのない関係である。ノーベル賞作家に対する、郷土の人たちの扱いはこんなにもひどいのかと驚かされるが、これは郷土の人間だけが原因なのではなく、作者にも相応の問題があったのだろう。ただその険悪で愚かしい対立を、物を書く人間の特権を利用して一方的に小説に書く、というのはフェアな態度ではないと思う。老人になっても郷里の人と下らないことで対立し、粗暴な振る舞いをくりかえすほど情熱的だから(あくまで小説のなかでの話ですが)、小説も書けるのだろうが、それを読まされるのは不快だ。もっとましなものが読みたくて読書家は本を手にとるのだから。

 作者の粗暴な振る舞いについて弁解し、地元の対立者たちの非を示しつつ物語はすすむ。ドンキ・ホーテにみたてて小説を組み立て、高尚な話題もでてくるが、地元の人への意趣返しのような一節がでてきて鼻白んだりさせられる。

 いつものように下品な、不要と思われる性的なエピソードが多くでてくる。そして絶えず自己破壊の欲求にとらわれている主人公は、破滅的なラストを迎えるのだ。

 対立と暴力とセックス、ドンキ・ホーテと自己破壊。不毛な作品だがラストに深みがあるのが救いであろう。

 もっと頭を冷やして小説を書いてもらいたい。誰にも書けない大江らしい高尚な作品を。

 

 

 

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