2001年 北海道ツーリング・私小説風 
  
  平成不況の真っ只中に行く
 金銭的にも精神的にも厳しい旅

 

 このレポートには、青森の方と北海道の方には不愉快と思われる記述があります。ある理由や出来事から私が感じたことをそのままに記してあるためです。読んでいただければそこに至る心情がご理解いただけると思いますが、あらかじめそのような表現のあることをご了解ください。

 

 知床にて

 

 

 平成不況の真っ只中にでかけた2001年の北海道ツーリングは、精神的にも金銭的にもきびしい旅だった。それはあのころの日本中の人が感じていたであろう、先の見えない不景気と、いくら努力しても金が稼げない現実と、そして自分の仕事がなくなってしまうのではないかという恐怖などがないまぜになった、重苦しい閉塞感に閉じ込められた季節だったからだ。日本人はあのころ、それぞれの立場で、人生の危機に立っていたと思う。社会人はもちろん、学生も就職氷河期と呼ばれて勤め先をさがすのに苦労したはずだし、就職できずに不本意ながらフリーターになった者もたくさんいた時代だった。大人の苦しさは子供にも伝わっていたはずである。社会全体にも。これはそんな年の、恐慌のさなかの北海道ツーリングの記録である。

 まず下のプロローグからどうぞ。

 

9月1日(土) 一般道をひたすら北へ               岩手県岩洞湖家族旅行村キャンプ場
9月2日(日) 官尊民卑の国から夜の函館へ          十和田湖、青森、上磯ダムキャンプ場
9月3日(月) 熊におびえて渓流釣り               江差、相沼内川、尻別川、倶知安旭ヶ丘公園キャンプ場
9月4日(火) 神威岬と札幌駅の変わりように落胆       神威岬、小樽、札幌、栗沢町ふるさとの森キャンプ場
9月5日(水) 富良野に遊び十勝川に敗北す          富良野、麓郷の森、トムラウシ、本別静山キャンプ場
9月6日(木)  変人とゴロツキ                   開陽台、相泊、羅臼、熊の湯キャンプ場
9月7日(金) カムイワッカとタイヤトラブル            カムイワッカの湯、北見、三国峠、日勝峠、日高 
9月8日(土) 本州へ 雨の夜の激走と迷走           日高、苫小牧、室蘭、函館、青森、東北路
9月9日(日) 日常へ帰還  

 プロローグ

 息子が中学受験を控えた小6の春に、今年の家族旅行はどうしようかと家内に聞いた。すると、受験をするというのに、旅行なんて行っている閑はない、という答えが帰ってきた。

 後になって考えてみればまったく家内の言うとおりである。夏休みは受験前の大事な時期で、塾の夏期講習もびっしりと組まれていて、全力で勉強すべき時なのだ。ここで実力をつければ志望校の合格が見えてくるし、もしかしたらワンランク上の学校に行けるかもしれない。夏は受験の勝負の時なのである。しかしそのときの私にはそれがわかっていなかった。

 時は2001年である。2000年問題でわいたITバブルがはじけて、平成不況の真っ只中であり、日銀は一度上げた金利をまた下げて、息もしなくなってしまった日本経済に、なんとか血をかよわせようとしていた。小泉氏が首相になって、ハンセン病訴訟で国の上告を取りやめ、原告たちにご苦労をおかけしましたと言って、日本中が感動した年だ。そして日本経済は不況というよりも恐慌状態で、社会情勢も暗く、毎日が重苦しくて、なんとか日々をやりすごしている状態だった。9月11日にはアメリカでテロがおこり、日本経済はさらに落ち込んでいくのである。

 そんななかで家内は息子を私立中学に入れたいと言うのである。たしかに社会は二極化していて、金のある家庭は荒れた生徒ややる気のない教師が多い公教育を見限り、優秀な私学に師弟を進学させていた。私もできることなら息子をそこに入れてやりたいが、ただでさえ給料が下がっているというのに、この先さらに稼ぎが減ったら、家庭をささえていくこともままならないのではないかと恐れ、萎縮していたから、子供の中学受験に気持ちが入っていかなかった。だいいち中学・高校と6年間も私学の授業料を払い続けることができるのか、まったく自信がなかったのである。

 夏休みに旅行になんて行っている閑はない、と家内が言ったときには、息子は一生懸命勉強するし、母親の自分もそれに没頭する、当然のことながら父親の私もそこに参加するのが当り前だという含意があった。家内としては当然そう思うだろうと、後になれば感じる。しかし私は子供の受験で何をするわけでもない。稼いだお金を運んでくるだけで、勉強は塾の先生と家内がつきっきりでやらせているのだ。家内と息子、塾にはやるべきこと、果たすべき役割があるが、私にはない。私は働いて家庭と職場を往復していればよいわけだが、懸命に仕事をしているというのに、夏休みもないのかと疑問に感じる。歴史に残るような恐慌の時代に家族を守ってたたかっているというのに、家にいなければならないのか、と。そして受験で私にやることはないのだから、ひとりで旅に出てもよいのではないかと考えは飛躍しだしたのである。これは身勝手なことだろうか。中学受験をする息子を持つ父親として失格なのだろうか。

 失格だと、後になれば思う。しかしこのときはどうしても旅に出たかったのだ。詳しくは書かないが職場で合理化があったし、父母との不仲もあって気持ちがくさくさとしていた。その旅がどうしてバイクなのか。買ったばかりのセレナではないのか。なぜ北海道なのか。たぶん渓流釣り天国と呼ばれる北海道を、釣りをしながらツーリングしようと思ったことがはじまりだと思う。会社を辞めた後輩がーー彼もライダーだったーー1ヵ月間車で北海道をまわり、鮭釣りをした話を聞いていたから、鮭の強い引きと、魚影の濃さに惹かれたのだと思う。そして学生時代の2回の北海道ツーリングーー1981年の自転車の旅と1983年のバイク・ツーリングーーの記憶と結びついたのだと思う。

 バイクで北海道に行きたいという思いは日に日に大きくなっていった。そしてその気持ちがどうしようもなく高まると、家内に打診してみた。
 ひとりで北海道に旅行にいきたい、と。
 家内と息子は受験でやることがあるが、自分にはない、と。
 家庭は受験一色に染まっているが、私は職場と家庭を往復しているだけで、ふたりが勉強をはじめるとひとりで酒を飲むか、愛犬と話すしかない、と。
 家ではひとりでいるのと同じだ、と。
 だからひとりで北海道に行きたいのだ、と。
 家内は絶句していた。あなたはそれで父親なの?、そんなことを考えているなんて信じられない、そんな受験生の父親はいない、と眼で叫んでいたが、何も言わず、数瞬の後に、口ごもりながら、行ってもよいと認めてくれた。

 北海道ツーリングはこうして動きだした。新聞や雑誌で読んだ記事やネットの情報で計画はできあがっていった。本屋では『ツーリングGOGO』という雑誌に出会い、たまたま北海道ゼロ円マップが特集されていたので手に入れたり、アウトドアのコーナーでは亜璃西社の『2000北海道キャンプ場ガイド』という本にもめぐりあうことができた。この2冊とゼンリンの北海道地図は(現在は絶版のようだ)ほんとうに役にたった。またツーリングの後半で重要な役割をする『とほ』という徒歩宿中心の旅雑誌も手にとって中を見たが、買うことはなく、バイク屋の広告だけ心にとめて本棚にかえした。

 出発のずいぶん前から予定はできあがり、準備はすすんだのだが、大問題が発生した。あてにしていた夏のボーナスが極度の不振で、北海道ツーリングどころか、こんな賞与しかもらえなくて息子を私立の中学・高校にやれるのかと、悩んでしまうほどひどいものだったのだ。たしかに景気も悪かったが、こんなに低い額とは思いもよらず、この少ない賞与から私の楽しみのためだけに旅費をとるわけにはいかないから、一時は北海道ツーリングを諦めた。今年は東北ツーリングで我慢しようかと。しかしそれでも諦めきれずに、いろいろと考えた末に、大洗ー苫小牧間をフェリーで往復する予定を自走に切り替えて、しかも高速を使わずにできるだけ旅費をかけないでケチケチ貧乏ツーリングをすれば、なんとかなるだろうと思い、北海道に行くことに決めた。それからコツコツと金をためて9万円ほどの資金を作ったが、この金を用意する数ヶ月の間、北海道ツーリングに心を傾けてすごしたのだった。

 学生時代にでかけた2回の北海道ツーリングは鮮烈な印象としてのこっている。放浪の記憶は北海道に限らず、どこに行ったものも甘い懐かしさで心にしまわれている。それらの日々は言わば人生のハイライトなのだ。非日常の最良の時間だったのである。それをまた味わいたかったのか。日常から逃避したかったのか。それとも放浪したいだけだったのか。それらのいずれでもあったのだろう。これは恐慌の季節のツーリング・レポートである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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