8月16日 九谷焼と永平寺、そして越前路

 

 5時におきてトイレにいったがまた眠ってしまった。昨夜は暑かったが、朝になると寒いほどに気温は低くなっていた。起床したのは7時である。トーストを2枚ずつ焼いてインスタント・コーヒーをいれる。のこっていたきゅうりのピリ辛漬けも朝食の一品となった。早い人はもう出発している。昨夜おそくやってきたデミオの夫婦もすでにいなくなっていた。

  

 キャンプ道具でトーストを焼く

 

 ミニバンのリヤゲートをあけ、その下で朝食をとっている家族がいる。そのうちのひとりはスペア・タイヤを椅子代わりにしていた。オート・フリー・トップのフレンディーに乗る30くらいの夫婦は小型犬をつれていて、後部座席には折りたたみ自転車が2台入っていた。このふたりは車の後ろの芝生にテーブルと椅子をならべ、食事の準備をはじめた。

 道の駅では7時30分からトイレの掃除がはじまり、使用は一時停止される。場内の清掃は行きとどいているが、ゴミ箱の設置はないなど、運営方針がしっかりとかたまっている施設だった。広い駐車場に間隔をおいて散らばっているPキャン車のナンバーは、練馬、足立、所沢、相模など首都圏のものが多い。手取川をわたる大きな橋が見え、横の草地では虫がさかんに鳴きかわしていた。

 8時16分に出発した。九谷焼の町、寺井町にむかう。国道沿いに窯元の店がならんでいるとのことだが、寺井町に近づくと九谷陶芸村の案内がでていたのでこちらにいくことにした。8時42分には到着したが、時間が早すぎてまだどこの店舗も開店していない。しかし9時前からポツポツと店をあけだしたので、待つほどのこともなかった。

 店は女性店主のほうがまじめで9時前から開店する。男の主人で時間前に店をひらく人がいないのが、男女の気質の差をあらわしているようでおもしろかった。家内はまず子供へのみやげにふくろうの焼き物を買い(勉強がよくできますように)、それから小皿と銘々皿のセット、最後に額装された観賞用の陶器を購入したが、奥さんこれは買いすぎではないですか? もとめた皿などは1枚ずつ新聞紙でつつみ、紐でくくってくれる。それをセレナの床にたおれて割れないように注意して収納した。

 

 九谷陶芸村 ショーケースの中の焼き物

 

 九谷陶芸村は九谷焼の店舗が15店ほど集まった施設だ。広い敷地にゆったりと店が配置され、美術館や資料館もある。店は高級品、中級品、低級品、安くて大きな品、前衛的、伝統的など、商品の特性をしぼってあつかい、他店と差別化してそれぞれ住みわけていた。価格はどこも40パーセント引きとなっているが、判で押したように40パーセント引きなのがなにやら妙な感じだ。ただ格安であることはまちがいがなかった。

 九谷焼は金粉などがつかわれていて派手だ。百人一首を金泥でかいた品などもあってすごい。よくある狛犬の焼き物が九谷焼であることもはじめて知った(上の画像、下段左の狛犬)。また芸術的な作品ではじつにすばらしいものがあり、眼をひきつけられた。壷や飾り鉢、花器などである。しかしよいな、と思う焼き物はすくなくとも50万円はするので、手に入れるのは到底無理な話であり、眼だけ楽しませてもらったが、九谷の芸術性の高さに感じ入った。ここには12時過ぎまで滞在した。家内がなかなかもうよいと言わないので。九谷の芸術作品を見るのは素敵な体験だったが、最後には飽きてしまい、待っているのが嫌になってしまった。

 この先の小松では自動車博物館に、また高校生のときに能登半島一周サイクリングにでた際に野宿した思い出の駅、大聖寺駅をたずねたいと思っていたのだが、今日中に永平寺にいくことができなくなりそうなので、残念ながらいつになるのかわからない次回にまわすことにした。

 この大聖寺駅なのだが、高校2年生のときに友人と落ちあって泊まった場所なのだ。あのとき私たちは別々に自宅を出発し、それぞれのルートをとって北陸にむかったのだが、出立から4日後の夕方に『加賀駅』で合流しようと約束していた。加賀百万石の加賀なのだから、当然『加賀駅』があるものと思い込み、たしかめることさえしなかったが、高校生の私たちはぬけていた。 

 約束の日の朝、私はやはり前日に野宿した金沢駅を出発し、海岸にでて海水浴をたのしんだ。洗濯したがまだ乾いていなかったものを陽の下にひろげ、半日北陸の海にあそんだ。夕方近くになり、いざ『加賀駅』にむかおうとして地図をひらき、はじめて『加賀駅』がないことを知ったのだ。見ていた地図を落としそうになってしまった。

 よくよく地図を見てみると、加賀には加賀温泉駅と大聖寺駅のふたつの駅しかない。とりあえず手前にある加賀温泉駅にいくと、駅前のタクシー運転手たちに、友達が君のことをさがしていたぞ、とおしえられた。友人は私よりも早く、今朝の段階で加賀駅がないことに気づき、ずっと前からここに先着して、タクシーの運転手たちに私を見なかったかとたずねたりして、ふたつの駅を行ったり来たりしながら待っていてくれたのだ。

 友人とは無事に会うことができて、その晩は大聖寺駅に泊まったのだが、ここは若くて愚かだったころの私と彼との思い出の地なのだ。彼は今は3児の父となって活躍しているが、現在では年賀状のやりとりだけになってしまって、もう10年以上も会っていない。お互いの家が500キロ以上も離れてしまったからだ。

 

 

 時間を節約するために高速にのることにした。日本海沿いの北陸自動車道にむかう。高速道にはいる前に昼時となったので、国道沿いにあった『くるくる寿司』というストレートな名前の回転寿司店にはいった。ここはネタが大きくてシャリが小さい。シャリの味がうすいが、これはこの土地の好みなのだろう。皿の色で値段のちがうスタイルだが、家内は焼き物をたくさん買ったので高い皿は自粛している。よって料金はふたりで2310円だった。ところで寿司店でとなりにいたのは若いカップルだった。ふたりは訛りの強いことばで楽しそうに語りあっていたのだが、私たちが標準語で会話をしだすと黙り込んでしまった、と感じたのは私の考えすぎだろうか。

 13時30分にくるくる寿司をでて高速にとびのった。永平寺に近い福井北ICをめざす。走行していると右手に丸岡城が見える。こじんまりとした味のある城なので家内にビデオ撮影をたのむが、機会オンチの家内は操作をしくじり、城の姿を記録することはできなかった。

 1350円の高速代をはらって北陸道をおり永平寺にすすむ。14時30分には永平寺の長い参道がはじまった地点の、みやげもの店の駐車場にセレナをとめた。正門まで1キロあるところだが、門前町がつづいているので、見物したくてそうしたのだ。

 永平寺は山のなかにあるので参道はずっと坂道、のぼりである。その道をみやげもの店をのぞきながら歩いていく。ゆっくりといくが気温が上昇していて暑い。山のなかだが暑気がわきかえっていた。

 参道をすすみ正門にいたって、ひとり400円の料金をはらって曹洞宗大本山に足をふみいれた。永平寺は想像していたよりもずっと質素だった。もちろん山門をはじめどの建物も大きくて重厚なのだが、装飾はなくて、きらびやかさや荘厳さはない。合理性を第一とした質実剛健な印象だが、それが禅宗らしくて好ましい。道元禅師の教えが受け継がれているようで清々しかった(道元の書いた『正法眼蔵』に興味のある方はどうぞ)。山ももっと深いのかと思っていたがそうでもない。NHKの行く年来る年でうつる、雪の永平寺のイメージが強かったのだが、山奥で雪深いのではなく、雪国なので雪がおおいのだと知った。

 

 上段左から 参道 正門 傘松閣の天井絵 鐘楼 仏殿 法堂の内部

 

 さすがに観光客が多くてまっすぐに歩けないほどである。通用門をとおって建物のなかにはいると、傘松閣(さんしょうかく)の天井絵にひきつけられた。この建物は新しいものだが160畳敷きの大広間だそうで、この天井に230点の天井画がえがかれている。画題は花鳥風月だ。見上げていると首がいたくなるので、大広間に横になって絵天井を鑑賞している人がたくさんいたが、私たちも真似をしてみた。絵は新しく見えるが昭和5年ころにかかれたものだそうだ。大広間の床の間には巨大な壷がおかれ、松の枝が豪胆にいけられている。ここは『絵天井の大広間』とよばれているそうだ。 

 回廊でむすばれた建物のなかを山上にむかってのぼっていく。雲水たちが作務をしているが、主に掃除をしていた。修行中につき話しかけないで、撮影しないで、と断り書きがしてあるが、真摯に作業にうちこむ姿に感銘をうけた。

 永平寺はどこも飾り気がなくて実用本位の印象だった。ただ樹齢をかさねた杉などの巨木が、無言の格式をしめしている。各種の法要・儀式がおこなわれるという中心的な建物の法堂も、拍子抜けしてしまうほど金がかかっていない。ここは修行をする場、道場なのだからこれで当然だとも言えるのだが。したがって真剣に修行をしている雲水たちの姿が、永平寺で見るべきものなのだ。

 

 松平公廟所 山門の四天王 鐘楼と大木 天下布武の朱印

 

 落ち着いたたたずまいの堂宇をめぐり、最後に聖宝閣とよばれる宝物館にはいった。照明のおとしてある宝物館の内部には、歴史の重みを感じさせる展示物がならんでいる。道元の真筆もあるが、織田信長が永平寺にだした禁制状があり、ここに『天下布武』の朱印がおしてあった。天下布武の朱印を見たのは初めてで感激した。朱印のはいってるガラスケースの前にしばし立ち止まり、撮影禁止ではなかったので朱印をビデオにおさめさせてもらった。

 とかく華美、軟弱にながれがちな仏教のなかで、永平寺はみずからを律している風があり、志が高いなと感心しつつ山門をでた(しかし修行者たちは日々惑いつつ、自身の心を掴みかねて、悟りとは程遠い地点ですごしているさまを書いた小説もある『高村薫 新リア王』)。永平寺をたずねた高揚感と余韻にひたりつつ、車をとめたみやげもの店にもどる。名物のゴマ豆腐とウーロン茶、それに竹ほうきを1150円で買うと、駐車料金は無料となった。  

 17時に車をだして勝山にむかう。国道416号線を東進していくと大きな城が見えてきた。うつくしい城なので近くまでいってみると、コンクリート造りの新しいもので、勝山城である。昔のものでなければ見たくはないので入場しなかったが、城は博物館になっていた。

 勝山城を見ていると近くに巨大寺院があることに気づいた。大伽藍に五重塔がある。これはなんだろうかと行ってみると、越前大仏だった。正式には清大寺(せいだいじ)というそうだが、以前はよくテレビで宣伝していたのに最近見なくなった。勝山城とおなじく新しいものには興味はないので、ビデオだけまわして去るが、永平寺をたずねたあとだけにひどく俗っぽく感じられてしまった。

 先にすすむと『白山神社』の看板がでていた。ほかに寄る予定もないのでふらりと立ち寄ってみることにする。17時30分に駐車場に車をとめ、ソフトクリームを買ってたべながら歩く家内と神社にすすんでいく。参道は広い石段で、神域には杉の巨木がたちならんでいて荘厳である。これはよいところに来たなと思いつつすすんでいくと、白山神社は明治の神仏分離令で神社となったが、元々は『平泉寺』という大寺院だったということを知った。

 

越前大仏の清大寺 勝山城 白山神社の参道 小さな本殿 苔むした礎石 神の使いの犬 大楠公の墓 発掘された石畳道   

 

 神社の入口から本殿までは長い距離がある。石畳の参道がつづき、左右の杉の巨木の下は苔むしていて、歴史がつみかさなり、新しくてうつくしいが軽薄なものとは対照的な重量感がみちていた。有無を言わさぬ本物の存在感があり、神々しいたたずまいである。ときおり雷のような音が鳴りひびくが、近くに射撃場があってクレー射撃をしているそうだ。

 本殿は再建されていたがごく小さな建物で、参道や神域の規模、格式、荘厳さにくらべていかにもさみしいものだ。しかし本殿の前の杉の大木のなかに積み上げられた、昔の建築物の礎石がすごい。大きい石が山のように積まれていて苔むしているのだが、この石をつかった建物の規模はいかばかりかと想像してしまった。

 白山神社は奥がふかい。山をのぼった先に奥社があるとのことなので歩いていくと、どこから来たのか柴犬がやってきた。いまどき珍しいが放し飼いにされているようだ。人懐こい犬なので頭をなでてやると私たちの後をついてくる。家で留守番をしている愛犬を思い出し、どうしているだろうかと案じるが、世話は家内の両親がみてくれているのだ。

 犬は大好きなのでこんな道連れは大歓迎だ。柴犬は私たちの先を歩くこともあるので道案内をしてくれているようでもあり、「お前は神様の使いなのか?」と聞いてみたが、ハッハッハッハッ、と暑そうに呼吸をするだけだった。大楠公の墓(楠木正成か?)まで柴犬とのぼっていくが、山をおりてきた老女が犬を恐がり、あなたの犬ですか? ととがめるように問うので、ちがいます、ときっぱり答える。放し飼いの犬のようです、と。老女は逃げるように行ってしまうが、大人しい犬だから、そんなに恐がらなくても大丈夫ですよ、とその背中に口にださずに声をかけた。

 白山神社をまわりおえ、山をくだっていくと『平泉寺発掘中』と看板がでていたので、興味をひかれていってみた。発掘現場は白山神社のとなりの山なので、神社の外にでようとすると犬はついてこない。彼はどうやら神社の使いで、平泉寺とは関係がないようだ。

 畑のなかを歩いて発掘現場にいくと、石畳道が掘りだされていた。側溝つきで幅3.6メートルの石敷きの道がずっとつづいている。ここにパンフレットがあったのでいただいたが、それによると平泉寺は一向一揆との抗争にやぶれて全山焼失したが、現在の白山神社を中心に巨大な宗教都市をきずいていたという。広大な神域に展開する、48の社と36の堂、6000の坊院があったと伝えられているそうだが、その規模におどろき、絶句してしまった。これでは永平寺よりも大きいのではないか。いまは畑や山林にうずもれているかつての境内の範囲を、周辺の山をながめて確認し、そのあまりの広さにしばし立ち尽くしてしまった。

 かつての平泉寺の栄華に思いをはせながら山をくだっていく。暑いので大汗をかいてしまう。柴犬はどこにいったのか、白山神社にもどっても姿をあらわさなかった。

 車にもどり城下町の大野市にむかう。白山神社からはごく近い。大野市街の入口には『あっ宝らんど』という市の入浴施設があったので、あとでここにこようと考えて市街地にはいっていく。大野はたまたまお祭りの日で混雑していて、車をとめられるところを求めて走りまわり、大野城のたつ山の下の駐車場になんとかセレナをとめたのは18時45分だった。

 

 越前大野城 天守閣の屋根の上に狐がいる

 

 大野城がよく見えるがこの城はユニークだった。ふつう城の屋根の上には金の鯱や鴟尾(しび)とよばれる魚の尾のような大型の瓦がおかれるが、越前大野城の天守閣の上には、狐が2匹のっていた。狐はなにかの象徴かいわれがあるのだろうが、ほかに例のないユーモラスなもので、その狐の城までいってみたいと家内が言う。しかし城があるのは山上で、低い山だが徒歩でしか登れないので、どうしたって20分はかかりそうである。いまからでかけても日が暮れてしまうのは必定なのでやめておいたが、家内は、狐が、と言って何度も行きたいとくりかえしていた。

 狐はやめて祭りを見物にいくが大したことはない。そのなかで万灯会とよばれる寺町通りにろうそくをずっとならべたところがあり、ろうそくの光の列がゆらめいて、情緒があった。祭りの夜のはなやいだ空気と、ろうそくの列、そこを行きかう浴衣姿の人たち。

 ガイドブックにのっている『福そば本店』をのぞいたが混んでいたので入るのはやめ、駐車場近くにあった、小さくて古い地元の店、福一食堂にはいる。私は親子丼580円、家内はオムライス550円にするが、大野名物のおろしそば400円もひとつ注文して、ふたりで味をたしかめた。おろしそばは冷たいぶっかけそばに大根おろしをかけた素朴なもので、たべなくとも味の想像はつくが(わかるでしょう?)美味しかった。

 『あっ宝らんど』にもどって入浴をする。料金はひとり600円だ。ここには20時過ぎから21時45分までいた。長風呂の家内が思う存分時間をかけたからである。私もその間ロビーでメモをつけまくり、地図やガイドブックを心ゆくまで見ていた。

 風呂をでてスーパーにより、アイスコーヒー1リットル、ウーロン茶2リットル、ロックアイス1袋、キウイフルーツ2ヶを750円でもとめて、きょうのPキャン地の道の駅『九頭竜』にむかう。国道158号線の山道は暗く、トンネルが連続していて、スピードをだすのが恐いほど視界がわるい。暗闇をハイビームのヘッド・ライトで切り裂いていくが、遠くの山なみでは雷がビカビカッと、すさまじく光っていた。

 22時30分に道の駅『九頭竜』に到着した。ここはこじんまりとした道の駅だ。周囲のPキャン車と大きな間隔はとれないので、最大の距離になるように駐車スペースをえらんでセレナを停止させる。すかさず酒を飲みだすが、家内がキウイフルーツをさしだして、むいてくれ、と言う。自分でやればいいではないか、と答えると、せっかくお風呂にはいってきれいになったのだから、手がよごれるのが嫌なのだって。わかりましたよ、こんなこと大したことありませんよ、と私が包丁でむいて6等分にカットした。トイレに手をあらいにいくと、軒下にシュラフをひろげて横になっている、スーパーカブの若い旅人がいた。

 今夜もエンジンの熱があがってきて車内が暑いので、運転席にうつってウインドーをあけた。まわりの車も同様に暑気に苦しんでいる。セダンの左右のドアをあけはなって、車内にすわっている男がいた。車内灯は切っているので、真暗なところにひとりでいるのだ。家内はカーテンの閉まっている後部座席にいるので、暗いところにひとりでいるのは私もいっしょで、お互いに姿は見えているが、顔はそむけて知らぬふりである。カーテン越しに家内と話しつつ、ほかにもとまっていたミニバンや軽バンの人の行動をつまみにして(こちらもされて)酒を飲み、やがて就寝した。

 

                                                              664キロ