2011GW 反・自粛岩手イーハトーブ・ツーリング2日目

 

 石割桜 

 

 無念で痛ましく、悲しくて悔しい

 朝起きると鼻水が止まらなくなっていた。桜の咲いている地に来たので花粉症が再発したのだ。しかしこんなこともあろうかと思い、薬を持参していたので服用して即解決した。ただし、この薬品は眠くなるのが難なのだ。

 7時からはじまるホテルの焼きたてパンの朝食をとり、昨日花巻神社でぬこうとしてできなかった、リヤ・タイヤに刺さった釘をプライヤーで引き抜いて出発した。釘と思ったものは短いビスで、タイヤの山の中にしか刺さっていなかったから問題はなかった。

 今日は暖かい。防寒のフル装備をしているがフリースを脱ぎたいくらいだ。予定では盛岡の東にある岩洞湖にゆき、竜泉洞を通過して海沿いにでて、被災地の宮古、釜石、大船渡と南下し、遠野、花巻を経由して盛岡にもどるつもりだが、そのとおりになるのかわからない。昨年の東北ツーリングで通った宮古、陸前高田がどうなっているのか見たい気持ち、何か買って応援したい思いもあるが、被災地に行くのは不謹慎かとも感じる。だからどうするのかはっきり決めていなかった。

 盛岡の郊外で給油をしたが心配していたガソリン不足はまったく問題なかった。震災直後に起こったガソリン不足は被災地でも完全に解消していた。盛岡市街では暑かったのに、岩洞湖にむけて山を登ってゆくと急速に冷えてくる。フリースは最早はなせない。それどころか夏用のグラブをしている手がかじかんで辛くなるほどだった。

 岩洞湖は2001年の北海道ツーリングの往路でキャンプした地なので、そこを見たいと思っていた。2001年はITバブル崩壊後の不況期で、経済的にも精神的にもキツイ時期だった。旅自体も金がなくてケチケチツーリングとなったがーー興味のある方は『2001年北海道ツーリング』をどうぞーー思い出もたくさん残っているのだ。

 岩洞湖にむけて標高をかせいでゆくと更に気温は低くなり、景色は荒涼としてくる。夏に来たときには爽やかな高原だと感じたのだが、冬の終わったばかりの今は北国の厳しさがのこっている。湿地帯が多くて雪がのこり、雪解け水がながれて水芭蕉が咲いている。その横に民家がたち、牧場をひらいていたりする。よくこんなところに住んでいるなと思うが、冬はどうなってしまうのだろうか。

 廃屋が雪の重みでおしつぶされている。昨日の山間の地と同じく家々は貧しいたたずまいだ。雪で倒壊するまで、どんなにボロ屋でも倉庫か物置として使っているのが、なおさらみすぼらしい印象をあたえる。盛岡市街に近くて通勤圏ともいえるのに家が少ないのは、冬の通行が難しいからなのだろう。

 

 岩洞湖

 

 岩洞湖についた。夏の印象とちがって木も湿地も冷たい表情をしている。湖と空の色も深くて純度が高い。水芭蕉と残雪の写真をとったがここでグラブを冬用のものに代えた。

 キャンプ場のある岩洞湖家族旅行村への分岐についた。キャンプ場まで7キロとでている林道に入ってゆく。この先にも民家があって驚くが牧場と農家のようだ。林道を行くとフキノトウを摘んでいる老人がいる。エンジ色のヤッケに地下足袋で大きなビニール袋にいくつも詰め込んでいる。フキノトウは道路脇にわくように無限に咲いていて、老人は山菜取りのプロのようだった。

 

 

 キャンプ場に続く雪の残る林道

 

 2001年はダートが5キロだったが3キロに短くなっていた。ここはフラットダートだが、冬のあいだにチェーンを巻いたタイヤに荒らされて、路面がデコボコしている。砂利をいれて整備し、人や車がたくさん通るようになれば林道の表情もおだやかになるのだろうが、シーズンに入る前の林道は人をよせつけないようなたたずまいだった。

 雪の残るキャンプ場についたが誰もいない。この季節にここで野営するような物好きはいないのだ。冷たい風が吹いている。しばらくキャンプ場をながめるが、ここは無料で利用できるしロケーションもよいところなので、またやってくるかもしれないと思った。

 早坂峠をのぼっていくと気温は12℃、10℃と下がっていく。防寒着でかためているからなんともないが、やはり冷えていた。しかしここは盛岡から40キロほどのところだ。すぐそこに県都があるのに気候はまるでちがう。交通量は少なく、たまにある民家はやはり貧しげで、廃屋が点在し、経済格差と過疎の現実があった。

 震災の影響だろう、観光客のほとんどいない竜泉洞をすぎると、道の駅『三田貝分校』があったので立ち寄った。ここは廃校になった分校を利用しているようだ。食堂は給食室、テレビの前は視聴覚室、そしてトイレにはトイレ当番のことばがあったりして楽しい。ここでみやげの品を買い込んだ。

 三田貝分校から山を下っていくと気温は上昇して14℃、16℃となっていく。すると桜が咲きだして、花は山をおりるにしたがって満開になっていき、誰も見ている人もいない見事な桜が、山間の寒村に咲き誇っているのだった。

 山にのぼると季節は冬にもどり、下ると春となる。一日のうちに冬と春をいったりきたりするのは妙な感じだが、とても刺激的だった。「海岸部・渋滞多発・一般車通行自粛」の電工表示が出ている。私もそうだが被災地を見にいく車が多いのだろうか。行くか、もどるか迷うが、私はバイクだから混雑を助長しないだろうと都合よく考えてすすむことにした。ガンバロー東北、ガンバロー岩手、のスローガンがたくさんある。自分の家や畑に支援感謝のことばや復興の決意をかかげているところも多い。そして自衛隊の車が増えてきた。

 海辺の町の小本に入った。海からずいぶんと離れたところに津波到達想定地点の看板がある。これは去年の東北ツーリングの際にも見たと思い出したが、国が設置したものだ。明治三陸地震のときの津波到達地点の標識もある。驚くべき高さまで津波はきている。しかし人家はこの下にたくさんあるのだ。

 緊張して海岸に下るが津波の被害は少ない。小本港に少し痕跡があるが既にかたづけられているようだ。熊の鼻展望台に行く。ここは旧国道沿いにあるが、旧道は狭くて曲がりくねったひどい道だ。これを広くて直線の多い今の道路につけかえたわけだが、これはそれだけの価値のある工事だと思う。道路はもう要らないと考えるが、このように通過時間を大幅に短縮できる生活道路は必要だ。

 

 熊の鼻展望台

 

 熊の鼻展望台からは三陸らしいダイナミックな風景が見えた。すばらしい眺望だが私しかいない。やはり沿岸部に観光に来る人はまだいないようだ。しかし海は眼をみはるほど美しい。青く透き通った海は濃淡のグラデーションで広がり、浅瀬は底が見え、磯が点在している。震災があって津波がおしよせ、何万人もの人が亡くなったことが嘘のようなおだやかさだった。

 また津波到達予想地点の看板がある。じつにたくさん設置されているが、やはり海面からは驚くべき高さだ。南下していくと高所から下に瓦礫の町が見えた。その光景に衝撃を受けて、ああ、やはりそうなのか、とすすむと瓦礫におおわれた町にでた。田老の町だ。つぶれた消防車が町の入口に横たわり、町中が津波におしつぶされてしまっている。

 被災地はテレビで何度も見ていたが、じっさいに眼にすると心がふるえる。被災した方の気持ちを考えたり、亡くなった人のことを思ったりすると、ただただ思いが乱れる。それでもバイクをとめて町をよく見たいのだが、被害にあった方々の気持ちを考えたら、とてもそんな無神経なことはできない。ただ周囲の車といっしょに、速度を落として、2・30キロのスピードで、周辺を見つめながら、粛々と通過するのみだった。

 つぶれた車と半壊の建物には赤ペンキでOKと書かれていて、取り壊してもよいと所有者の意思表示がされている。所沢ナンバーの車が1台だけとまっていて、中年の男女が防波堤にのぼり、町をビデオで撮影していた。不謹慎極まりないと思うが、町の関係者かもしれないし、私だって人のことは言えない。

 港で重機が1台だけ動いていて、2・3人の男性がスコップで自宅の瓦礫を除去していた。男たちは年配の方だ。わずかずつでも状況を改善しようとするのは人間の本質だろう。それでも町はテレビで見たときよりも片づけがすすんでいた。国道は上下二車線がきれいに掘りだされて整備され、町の路地も通れるようになっている。家々の上に積み重なっていた瓦礫もかなり取り除かれて更地に近くなっていた。テレビで見た被災直後の状況は、国道も路地も家屋もすべて瓦礫と車に埋め尽くされていたのだから。

 田老の町は高いところの家がわずかに残っただけで、95パーセントが津波にのみこまれてしまったように見えた。明治と昭和の三陸沖地震の教訓で10メートルの堤防を築いていたそうだが、それでもこの被害ではことばもない。そのあまりに残酷な自然の仕打ちと甚大な被害を眼にしたら、軽々しく、頑張ってください、などとは言えない。それはあまりにも無神経で心遣いに欠けることだ。

 無念で痛ましく、悲しく悔しい。混乱した気持ちで走っていると浄土ヶ浜の入口についた。昨年の東北ツーリングではここと三王岩の景観を楽しんだが、今はそんな気持ちになれない。泥で汚れたパトカーがやってきたと思ったら静岡県警のパトカーだ。自衛隊の車はひっきりなしに走っている。災害派遣のマークをつけて。なんだかここを通っていることが後ろめたくなってきた。

 宮古の街に入っていくと信号が壊れていて警官が手信号でさばいていた。被害が大きかったはずの漁港にはとても行けないから、内陸の市街地にむかう。宮古の街は一見何事もなかったかのように見える。信号も動いていないのは港に近いものだけだ。しかし海に近い土地には津波の痕跡があった。

 

 宮古漁港方向を見る

 

 歩道橋があったので上ってみると、階段に何匹もの魚が打ち上げられていて、干からびて異臭をはなっている。歩道橋のまわりの家は津波に破壊されていた。しかし宮古全体でみれば被害を受けたのはごく一部で、市街地は元のままだ。街は機能を失わずにすんでいる。漁港があって、そのかなり奥に街が配置されていたことが幸いしたのだろうし、地形がよく津波が高くならずに済んだのかもしれない。港には漁船が整然とならび、震災などなかったかのようだ。テレビで見るほかの漁港のように陸地に船が打ち上げられていることもない。これならば昨晩食べたどんこのように、魚を獲って盛岡に運ぶこともできるだろう。しかし眼の前の宮古市役所には自衛隊の車が多数出入りし、現在がただならぬときであることを示していた。

 昨年も利用した東北のファミレスチェーン、まるまつ宮古店で昼食をとった。食事を終えて店の外にでると、私のバイクのナンバーを見た来店客が、〇×ナンバーかよ、と呟いている。反感を買ったかと思ったらその方も同ナンバーで、作業服のその人は災害派遣で来られたようだ。食事客の老人が偶然出会った知人と立ち話をはじめた。漁師も俺の代でおしまいだ、という言葉が途切れとぎれに伝わってくる。避難している、という会話の断片も聞こえてきた。

 雲がわいてきた。今日は午後から雨の予報なので、もう盛岡にもどろうかと考える。予定では釜石まで海沿いを南下し、遠野、花巻をまわって盛岡に帰るつもりだったのだが、「一般車通行自粛」のこともあって悩む。被災地を眼にすると苦しくなるし、それでも見なければいけないような気もするのだ。迷ったがこのまま海岸線をすすむことにした。

 試みにすれちがう車のナンバーを見てみた。8割が地元のナンバーで2割は東北以外のものだ。意外に多くの車が入ってきているが、ボランティアや親類、知人をたずねる人もいるのだろう。

 何事もなかったかのような宮古の街をでて、となりの集落に入るとそこはまた瓦礫の町だった。田老と同じように住宅の95パーセントは津波につぶされている。戦争で爆撃されたかのような凄惨な光景だ。宮古の市街地は港の奥にあるし、防潮堤などが守ったのだろう。しかし海のすぐ近くのこの漁村は津波の被害を免れることができなかったのだ。

 被災地を見たらまた胸が苦しくなった。痛ましく、辛く、悔しくて悲しい。心が乱れてこれ以上津波の被害を眼にするのは耐えられない。盛岡にもどる道があったのでそこへ折れ、国道からはずれて内陸にのぼっていった。すると津波がおしよせて、止まった地点がある。その下の家々は津波にながされて、住民は家も車も生命もなくしたというのに、それより上に住む人は、これまでどおり住宅があり、自動車も命も無事なのだ。のこった家のライフラインは止まっているのかもしれないが、この落差の残酷さはどうだろう。私はここの住民ではないが、すべてをなくした人と今までどおりの人間とでは、最早いっしょにいられないのではなかろうか。少なくとも私だったらそうなってしまうと思う。それがここだけでなく、福島から青森までの長い海岸線であることなのだ。

 

 迷ったが画像を公開する

 

 津波の到達点のすぐ下に駐車スペースがあったのでバイクをとめて町をながめた。交通量が少ないからそうすることができたのである。地元の方が見ていたらとてもそんなことはできない。集落は鉄筋コンクリートの建物をのこしてほぼ全滅している。しかしここでも片づけがすすんでいた。被災した多くの車は一ヶ所に集められ、瓦礫も重機とダンプで除去されて、もうすぐ更地になりそうだった。

 

 

  

申し訳ないと思うが写真をとらせてもらった。100台はありそうなつぶれた車たち。瓦礫の町。鉄骨だけのこったガソリンスタンド。私が撮影をしていると通りかかった軽自動車が駐車スペースに入ってきた。地元の方だ。写真をとっていたことを注意されたり非難されるのは嫌だから、すぐにバイクをだした。しかしその人は津波が運んできた山の中の瓦礫を見て何かをさがしている。誰かを、見つけようとしていたのだろうか。

 

 

 宮古街道と呼ばれる盛岡につながる国道は自衛隊の車が多い。ジープの指令車が行き交い、トラックもこんなにと思うほど走っている。バスが自衛隊員を運んでいたりもする。10万人体制というのはたいへんなことだ。花粉症の薬で眠くなり、道の駅で休むと自衛隊の人も大勢いた。彼らは落ち着いた態度でマナーがよい。女性隊員もたくさんいる。ヘルメットには、ガンバロー東北、のステッカーが貼ってあった。

 立派な態度の自衛隊の若者たちを見て誇らしい気持ちで走りだした。石鳥谷の道の駅に寄っていこうと思っていたのだが、昨日と同様雨がパラパラと落ちてきたのでやめた。弱い降りなのでカッパの上衣だけつけて盛岡にむかう。盛岡の市街地に入ると裁判所の前にある有名な石割桜が満開だ。これが冒頭の画像である。石割桜は大石の間から芽吹いた盛岡のシンボルだ。観光客がたくさん集まっているので私もバイクをとめて桜を見た。被災した沿岸部と何事もなかったかのような県都の落差も大きいが、石割桜が美しいのはなぐさめである。

 15時すぎにホテルにもどった。これから夜まで盛岡の街ですごすことにする。ホテルを出ると酒屋があった。地酒を見ると昨夜飲んで気に入った「鷲の尾」の純米吟醸酒の五合瓶があったので2本買う。ほんとうは一升瓶を買いたいのだが、リヤ・ボックスに入らないので五合瓶にしたのだ。酒をホテルに置きにいってあらためて出直した。

 

 岩手銀行

 

 大通り商店街をぬけてレトロなレンガ造りが印象的な岩手銀行中ノ橋支店にむかう。途中でみやげを買ったり、チェックしておいた居酒屋や焼肉店をのぞいたりしながら街を歩いていく。レンガ造りの銀行は印象的だった。雨なのが残念だが、雨降りでなかったら街歩きにこんなに時間をかけなかったから、これはこれでよかったかもしれないと思ったりした。

 17時をすぎた。昨夜利用した味勢の刺身でまた地酒を飲みたいと思う。焼肉店や他の居酒屋も候補だったのだが、内容と価格がすばらしいので別の料理もためしてみたい。さっそく行ってみるがまだ開店していなかった。18時からのようだ。1時間も待つのは嫌なので昨夜気になった雑魚市場・菜園本舗と看板に書いてある『ゆ家』とホルモン焼きの店をのぞいてみることにする。すると『ゆ家』が営業していたのでここに入った。 

 ホールさんにフレンドリーに迎えられてカウンターの花板さんの前に腰をおろした。昨夜と同じく生ビールと刺身を一人前おまかせでたのむ。ホールさんと板さんはバイクに乗っているとのこと。板さんはアメリカンでホールさんは自身と同じ年のホンダCB750Fとのこと。これは懐かしいバイクだ。板さんとFさんと会話を楽しみながら飲む。ビールを飲み干して釜石の地酒の浜千鳥にすると、辛口で美味しい酒だが、浜千鳥は津波の被害を受けてしまったそうで当分入荷は見込めないと、板さんが教えてくれた。それを聞くと心の中がシンとしてしまった。

 

 シマアジのなめろうと岩手の地酒

 

 シマアジのなめろうや干物、ホヤの珍味などで岩手の地酒を飲みすすむ。ゆ家はガイドブックにでていた人気店でどんどん客が入ってくる。板さんに注文するのもはばかれるほどだ。ほどよく飲んで食べたのでお会計にしたが、板さんとエフさんが丁寧にフレンドリーに見送ってくれた。

 

 をかしら屋のホルモンとホッピー

 

 『ゆ家』をでるとすぐ近くにあるホルモン焼きの『をかしら屋』に梯子した。この店に行く気があったから『ゆ家』では肉料理をたのまなかったのだ。ホッピーの白セットでプリプリのホルモンを食べたのだが、なんだかこのあたりから記憶がうすれている。しかし美味しくて安かったのはたしかである。

 ホッピーの中をお代わりしてかなり酔って『をかしら屋』をでた。飲んで食べて上機嫌である。ホテルに歩いていくが、まだ〆の食事をとっていないので、冷麺のぴょんぴょん舎に入ることにした。我ながら食べすぎだと思うが、酔っていて抑制が効かないのである。しかも冷麺だけでなく、日本酒のあさ開とコプチャンまで頼んでしまった。冷麺は普通だが、ぴょんぴょん舎は接客がよくなかった。駅前のある人気店なので驕っているように感じられた。

                                                            254.2キロ